日本一周by自転車

定年退職を機に、「もっと日本のことを知りたい」との思いから日本一周に挑戦。
4,800kmを走ったところで事故にあい負傷。
一度、心に決めた目標は絶対に達成する!!
2年後、「北海道開拓の歴史をたどる旅」をテーマとして再チャレンジ!
2008年10月遂に日本一周を達成。
夢はまだ続く。
新しい目標は、自転車で旅をしながら郷土の歴史を調べる。
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2015年三陸の旅パート2
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「2015年三陸の旅」
その◆\亟〜岩井崎

5月28日(木)
々堝阿粒詰廖Ю亟〜国道398号〜女川〜雄勝〜北上〜陸前戸倉〜国道45号〜志津川〜本吉〜岩井崎
⊇佝時刻: 06:30
L榲地到着時刻:16:50
そ蒜顱民宿海野屋
チ行距離:112km
ε係:曇り

「旅の記録」
 昨晩泊まったサン・ファン・ビレッジはサン・ァン・バウティスタ・パークと言うところにある。この『サン・ファン・バウティスタ』という名前、伊達政宗の時代に支倉常長なる人物がスペインに使節として派遣されたときに乗った船の名前である。その船は、このパークに復元されて残っている。少し興味があったが、残念かな、時間がなく中までは見学は出来ず。


サン・ファン・バウティスタ」

 サン・ファン・ビレッジは工事関係者の泊まる宿であり、朝6時になったら食堂は人の列を作っていた。私も早々と朝食を済ませ6時半に出発。


サン・ファン・ビレッジ」

 内海の万石浦を右手に見ながら女川へ向けて走った。この万石浦ではホタテの養殖をしているのか、浜にはホタテの貝殻が山とつまれていた。
 やはり女川の漁港は壊滅的な被害を受けていた。また、付近の道路は工事車両が列を作っており、高台では住宅地建設のためバケットローダーが土砂の堀開と整地を行っていた。海岸淵にはプレハブの漁協と要塞のような建造物があった。これが復興のための工事なのか、住宅は高台へ、職場は海岸で津波に耐えうる頑丈な建物に。










「女川の状況」

 女川からさらに山中を走っていた時、車体の側面に「町民バス」と書かれたタクシーが追い越していった。そのタクシーが御前浜と言うところに停車しており、ドライバーはダンプの運転手と何やら雑談をしていた。
 「写真を撮らせて下さい」と言って話に割り込ませてもらった。この町民バス、話を聞いたら、震災の起こる前からバスに乗る人が少なく、車を持たない高齢者の足としてバスの代わりをしていると言う。そして、この付近の家では3、4台の自家用車を持っているのが当たり前で、この「町民バス」の施策は津波とは直接関係がないようである。



「町民バス」

 この付近までは、海岸線を上ったり下ったりの走行。仮設住宅は不便な山中にもある。工事関係の拠点も山中にあった。三陸のリアス式海岸の地では山中にしか仮設住宅を建てる場所がないようである。そこに住む人達の不便を思うと心が痛むが、新たな土地を求めるためには仕方のない事なのだろう。



「宅地造成の状況」


「女川第1小学校と仮設住宅」


「女川の海」

暫く走ったら雄勝という所に到着した。







「雄勝の海と漁港」

 港の周辺にはプレハブ以外、建物は何も無かった。防波堤も崩壊したままであった。あるのは工事関係の機械と車両だけ。山裾の樹木が折れ曲がっている。こんなところまで波が打ち寄せたのか。雄勝とは雄勝石が産出するところで、この石は硯、更にはスレートとして東京駅の駅舎にも使われている。
 また、サン・ファン・バウティスタと言う帆船を建造したのもこの地である。



『支倉六衛門 造船の地碑」

 雄勝から、三叉路を北上し一山を越え北上川へ抜ける積りであるが、道路標識が無く不安になり、近くのバラ園の前で経路を確認した。
 そう言えば、ここまで県道を走ってきて道路標識があまりない様に感じた。多分、津波で流されてしまったのだろうと思うが、宮城県では道路標識を直すまでの余裕がないのだろう。
 なぜ『バラ園』が、こんなところにあるのだろう?と不思議に思っていたら、このバラ園の管理をされている女性が来られ、「どうぞ見て行ってください」と案内された。そして、話を伺った。







「ローズファクトリーガーデン」

 元々、この付近には800軒ほどの家があったが、海を見渡すことが出来ない細長い町で、住んでいる人は津波が来ることなど予想もしていなかったという。そして、避難するにも両脇は山で逃げ場もなく、この地域では200人ほどが犠牲となり、行方不明者が100人ほど出たという。
 雄勝のことはメディアにあまり出てこなかったが、その被害は甚大である。
 この『バラ園』であるが、美しい雄勝を取り戻そうとこの場所に花を植え始めたという。そして、この場所を拠点に被災地の緑化支援、被災者支援等色々な活動を行っているそうだ。それには、支援に来て下さった多くのボランティアの人達や各種団体の協力があってこそ出来ることで、この小さな町にも心温まる人と人との絆があった。
 色とりどりに咲く花の前には沢山の支援者からのメッセーが添えられていた。
 この花を見て、心を癒され、こみ上げてくるものがあった。

 北上川を渡り、その後も津波の爪痕が残る海岸線を走った。付近は北上川の護岸工事で工事関係の大型車が頻繁に行き来していた。





「北上川」

 段々腹も空いてきたが、行けども、行けどもコンビニは無かった。途中で食料は補給できると安易に考えていたが、それは、間違いであった。
 神割岬という所の手前に来たとき、雑貨屋がありパンを購入し食した。店にいた老婦人に話を聞いたが、この地域で亡くなった人は、勤務先で亡くなった2人だけであるという。なぜかと言うと、下に小     
 滝港という漁港があるが、そこに住む人はわずかで、多くの人は高台に住んでいるという。過去の教訓が生かされた例である。
 暫く走って、陸前戸倉駅に到着した。ここは駅舎だけではなく全ての住居も共に流されてしまったところである。
 鉄道線路にはアスファルトが敷かれバスが走っている。リニューアルした駅舎の他、今は何も無かった。古い地図には小学校、農協、ガソリンスタンド、コンビニの表記があるが今は何も残っていない。






 昼を少し回った頃に志津川(南三陸町)に到着をした。ここは、例の鉄骨だけの防災センターのある町である。高台から町を眺めようと志津川高校に通ずる坂道を上った。今は赤土がうず高く積み重ねられているだけの町になっている。


「防災センター」




『志津川高校の入口から見る市街地方向」

 沢山の犠牲者を出したという元老人ホーム。今そこは農協の建物になっているが、その入り口付近で仮店舗を構えている男性から話を聞いた。登米の仮説住宅から通っているという人であった。
 この付近に住宅を建てることが禁止されている。うず高く積まれた赤土の山は国道45号線の土台であると言う。高さが20mは有ろうかと思われるような代物もあった。
 国は津波から町を守るために万里の長城を築こうとしているようである。この土の山はいたるところにあった。



「かさ上げ工事の状況」

 南三陸町役場は高台に移転を完了していた。そこには、復興計画が掲示されていた。大きくは住宅の高台に移転と沿岸部の再開発である。復興課の職員に進捗状況を質問した。20箇所の宅地を造成中であると言う。国が行う国道のかさ上げ、県、町の行う復興事業、役場は活気にあふれ、まさに国づくりをやっている感がある。
 一代プロジェクトの推進といってもいい。「体を壊さないようにして下さい」。と声をかけ役場を出た。



「南三陸町役場」


「復興構想」


「JR気仙沼線は鉄道からバスへ」

 今日の宿は岩井岬にある民宿崎野屋、当然この岬も津波が襲ったはずだが、何故?
 宿主に聞いたが、半島では、この民宿を含み10軒だけが被害を免れたという。奇跡としか言いようがない。

 
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