日本一周by自転車

定年退職を機に、「もっと日本のことを知りたい」との思いから日本一周に挑戦。
4,800kmを走ったところで事故にあい負傷。
一度、心に決めた目標は絶対に達成する!!
2年後、「北海道開拓の歴史をたどる旅」をテーマとして再チャレンジ!
2008年10月遂に日本一周を達成。
夢はまだ続く。
新しい目標は、自転車で旅をしながら郷土の歴史を調べる。
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囚人が作った道路を走る パート1の6
JUGEMテーマ:旅行

「丸瀬布〜旭川へ(ゴール)」
2014年7月29日(火)
々堝阿粒詰
  丸瀬布〜下白滝〜北見峠〜中越〜国境〜上川〜伊香牛〜旭川(永山)
  旭川(永山駅)〜JR〜札幌駅・・・自宅
⊇佝時刻:04:35
0粟遏扮併咳悄謀着11:55
ぜ宅:16;00
チ行距離:113km
ε係;晴れ
「旅の記録」
昨晩の天気予報では旭川の最高気温は31度。北見峠(857m)を越えなければならない。どうするか。思案の結果、夜が明けたら出発し、涼しい内に峠を越えてしまうことにした。
宿の女将さんには、その旨を伝えて、昨晩中に宿代を清算してもらった。
朝3時頃に起床。身支度を終えた04:00頃、玄関先に荷物を運んでいたら女将さんがもう起きていた。女将さんはかなり高齢の方で、年寄りだから朝が早いのかな?玄関先まで出て見送ってくれた。



『越後屋旅館」


「丸瀬布駅」

この越後屋旅館、創業約100年と言うから大正の時代である。丸瀬布が林業、鉱業の中継地として発展しつつある時なのだろう。近くには金山で有名な鴻之舞鉱山があり、当時は繁盛したのだろう。現在は上川から伸びる自動車道の工事が丸瀬布まで終わり、今後に期待するものは殆どなくなってしまった。80歳を超えた妹さんと二人で切り盛りをしているが、あと何年この旅館を維持してくれるのだろうか。
実はこの旅を計画する時、丸瀬布の先の白滝まで足を延ばし宿を取りたかった。ネットで検索したら白滝には温泉旅館が1軒と他に3軒の宿があったが、全て廃・休業中であった。自動車道が開通したために宿の需要が無くなったのだろう。
囚人道路を辿る旅も最後の日となったが、この区間が難工事で、多数の死者を出すことになった。その亡骸は道路わきに埋葬され、今では、その所在すら分からないという。


「丸瀬布の製材所」


「農場の風景」


「国道333号線を走る」


「湧別川の流れ 前々日の雨で増水している」


「下白滝駅」




「鉄道と並行して国道が走る」




「目につく廃屋」

そんな事を、心の片隅にしまいながら山中を走った。
遠軽〜丸瀬布〜下白滝〜白滝〜上白滝〜奥白滝までは北大雪山系の谷あいを流れる湧別川に沿って道路が開削された。それでも、遠軽〜上白滝までは500m〜1000m位の幅の平地があり、現在でもその一部を使って牧畜、畑作が営まれている。特に、白滝は盆地を形成し、市街地も発達していた。


「白滝駅」



「白滝駅のホーム」




「白滝の町は寂れ行く」


「白滝付近の農村の風景 麦と廃屋」


「白滝付近の農村の風景 そば」



問題はここから北見峠までで、距離にして約10kmの区間である。標高差300〜400m位あり完全な山地地形で、ここに幅3間(約6m)の道路を通すというのであるから並大抵のことではない。平地であれば土砂が堆積しており整地は容易であるが、山間部となると表面を剥ぐと下は岩盤である。ツルハシとモッコしかない時代にこれを開削するのは並大抵のことではなかったろう。






「囚人が作った道路は今」

中央道路(北見道路)のうち、網走から北見峠までの161km区間の工事は4月に開始し12月に完了しているので、この付近の工事は、秋の深まった頃に行われたと思われる。夜間の気温は氷点下に下がっているはずである。また、掘削工事の終わった道路は秋雨でぬかるみ通行を困難にしていたのではないかと推測される。
工事も最終局面を迎え、この地域一帯で作業に従事していた囚人が1000近くおり、それに必要とした食料その他の物資を150km後方の網走から運ぶのであるから、滞りがちに為らざるを得なかったであろう。150kmというと徒歩では4日かかる距離で、馬を使っても2日はかかる。どうやって必要な物資を運んだのだろうか?ある資料によるとアイヌ人を使役し馬で輸送したと記されてあるが。その実態は如何であったのだろうか興味の湧くところである。
この工事において300人余りの人(囚人だけではなく看守等監獄の官吏も亡くなっている)が亡くなっている。その多くはこの山間部の工事区間で亡くなっているのではないだろうか、病監のあった瀬戸瀬では棺に入れられた47体亡骸が発見されているが、瀬戸瀬の病監は、これら前方の工事現場で発生した傷病者を後送したものだろう。道端に打ち捨てられるように埋葬された囚人は、後送することすらできなかった囚人達である。この付近の山中には100体近い亡骸が、何処とも知れず遺されているのである。
自動車道の開通により、殆ど車の走らなくなってしまった国道333号線である。そんな工事の状況を推理しながら北見峠に向け黙々とペダルを漕いだ。峠に着いたのは08:20、北見峠の頂上は青空が広がり風はさわやかであった。




「もうすぐ北見峠の頂上」


「峠の頂上に立つ殉難者慰霊碑」


「閉鎖され忘れ去られたた峠の茶屋」 

過去、車の往来があった頃に繁盛した峠の茶屋は、今では全て閉鎖されており、窓には板が打ち付けてあった。そこに、「中央道路開削 殉難者慰霊の碑」が寂しく建っていた。
また、余念がよぎった。自動車道が開通したおかげで、旧国道を通る人・車はいなくなった。丸瀬布の越後旅館を出るとき女将さんから「『鈴』を持った」と、冗談とも本気とも取れる言葉をかけられた。熊が出没してもおかしくない道路になってしまったのだ。シカは丸瀬布を出発してすぐに横断した。過去囚人たちが切り開いた道そのものが、森の中に消え去ってしまうのかもしれない。
多くの囚人たちがこの工事で命を落とした。囚人だけではなく管理に当たる刑務官も亡くなっている。いずれ、この史実は博物館の資料と歴史書の中だけに残ることになるかもしれない。誰もいない北見峠にひっそりと建つ碑を拝み、何やら悲しい気持ちになった。
登りの後には下りがある。857mの北見峠から上川へ向け一気に下る。対向車の殆どない国道である。快適そのものの走行であった。



「北見峠を降り上川へ向かう」

北見峠から上川へ向かう経路は、白滝〜北見峠に向かう経路よりも更に山深い。廃屋があったのは峠から12km下った中越というところが初めてだった。

「初めてあった廃屋の場所に建つ 中越駅逓跡の碑」

旭川から北見峠までの工事には空知集治監の囚人が動員された。ここでも、多くの囚人が亡くなっているが、あまりその史実は伝えられていない。
未開の地である網走に監獄を建設し未開の地へ向けて道路を作った東側ルートの工事と、開発の槌音が聞こえ出した旭川から工事を始めた西側ルートでは物資の補給という面で有利であったと思われる。飢え、特に水腫病患者は西側ルートの工事で発生しなかったのではないかと思われる。
04:35丸瀬布を出てから高梨沙羅ちゃんで有名になった上川についたのは09:50。ここにきて初めて人の往来を目にした。駅も立派である。



「上川駅 町は沙羅ちゃん一色」


「一路旭川へ」


「母なる川 石狩川」


「米どころ上川」

最終ゴール地点のJR永山駅に到着したのは11:55で、急いで輪行準備を行い12:42分発の電車に乗り込んだ。



「旭川駅」
 
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