日本一周by自転車

定年退職を機に、「もっと日本のことを知りたい」との思いから日本一周に挑戦。
4,800kmを走ったところで事故にあい負傷。
一度、心に決めた目標は絶対に達成する!!
2年後、「北海道開拓の歴史をたどる旅」をテーマとして再チャレンジ!
2008年10月遂に日本一周を達成。
夢はまだ続く。
新しい目標は、自転車で旅をしながら郷土の歴史を調べる。
2017年十勝の旅(旅の前夜)

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2017年十勝の旅(旅の前夜)

【明日『十勝の旅』に出発する】


「8月21日(月)」
 今回の旅は、昨年計画を立てたものの行くことができなかった旅のリベンジである。
 1年前の平成28年8月25日から4泊5日の予定で、今回とほぼ同様の旅を計画していたが、8月23日に台風第9号が北海道に再上陸し、道北・道東一帯に大きな被害をもたらしたことから、出発直前になって中止を決心した。結果オーライで、もし、行っていれば、通行止めの道路に遭遇するだけではなく、被災地を廻ると言うことになって仕舞った。
平成28年は、北海道に5つの台風が上陸(内3つが再上陸)するという、過去の記録に無いような事態が発生していたことを記しておく。
 今回の旅のテーマは、昨年考えたものと同じであり、当時の日記に書いたものを載せる。
 「今から30年近く前、2年間ほど帯広に住んだことがあった。その時は、まだ、元気バリバリの時で、趣味はと言うとスキー、山登り。特に山登りは、帯広が日高の山、裏大雪山の山のベースキャンプ的な位置にあることから、日高の名峰と言われる多くの山を仲間たちとともに登った。
 夜中に家を出て、夜明け前に登山口に到着。空が白む頃に登山を開始し、その日のうちに下山すると言うのが常だった。地下足袋に草鞋を結び、清流に見え隠れする川石を、右に左にと踏みしめながら沢を遡上し、時には水しぶきを被りながら岩肌を登ることもあった。その先には、雪渓が待っており、さらに進むみと、そこは高山植物が咲き乱れる天上の世界が広がっていた。遂に辿り着いた細尾根から眺めた360度のパノラマは、そこに立った者でないと分からない感慨があった。
 あの頃は、歴史に特段の興味はなく、帯広の博物館である『百年記念館』にも行くことも無かったし、十勝開拓にその名を残した依田勉三という人物の名前すら知らなかった。
 今回の自転車旅行のテーマは『十勝開拓の歴史をたどる』とした。
 日本一周を達成した平成19年以来、屯田兵の入植地を中心に北海道開拓の歴史のテーマとして色々なところを自転車で走ってきた。しかし、それらの経路を記した北海道地図の中で、唯一とも言うべき空白地帯が十勝平野から北見へ抜けるルートである。
「なぜか?」それは、屯田兵が入植しなかった場所であるからである。
 今回の旅のテーマのメインは、十勝に開拓に尽くした「依田勉三、二宮尊親、関寛斎の踏み跡をたどる」である。
札幌からサイクリングを開始するJR新吉野駅まで輪行で移動し、十勝川沿いを北上し、晩成〜豊頃〜帯広〜幕別〜池田〜本別〜足寄〜陸別〜置戸〜留辺蘂〜遠軽まで約350kmを走るものである。
 旅を予定している22日〜26日までの天候は、落ち着いており良い旅が出来そうである。

 

【2017年十勝の旅経路図】

 

 

 

12:33 | 2017年十勝の旅 | comments(0) | -
2017年十勝の旅(その1)

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2017年十勝の旅(その1)
【十勝入植玄関の地・大津からスタート】


「8月22日(火)」
々堝阿粒詰廖
 自宅〜札幌駅発 「スーパーおおぞら1号」 帯広駅着・発 ローカル線 新吉野駅着 新吉野〜大津〜R336〜湧洞〜晩成
⊇佝時刻(自宅):06:00
L榲地到着時刻:15:30
そ蒜顱Д札レイ館
チ行距離:49km
ε係:雨
旅の記録
 昨日の天気予報では22日の天気は一日曇りであったのに、今朝起きて出発準備をしていたらポツポツと雨が降り出した。ネットで最新の天気予報を確認したら、これから向かう、十勝の天気予報は午前中曇りで午後から雨のマーク。「何なんだ」とつぶやいてしまった。
 近くの地下鉄駅まで車で送ってくれた妻に「天気が悪いから止めれば」と言われ、逆に発奮する。
 JR札幌駅07:00発釧路行きの特急「スーパーおおぞら」で帯広へ、09:24帯広着。

 「乗車中の輪行バック」

 「帯広駅」

 

 「仙台から来た大学生」

 

 「豚丼の店の壁に書かれていた」

 「開拓のはじめは 豚と一つ鍋」依田勉三が詠んだ句である。

 

 そこから各駅停車に乗り換え十勝川河口近くにある「新吉野」駅に11時18分に到着した。

 

 「釧路行普通列車」

 

 「新吉野駅」

 

 当然新吉野駅は無人駅で、駅前の両側に数件の家が立ち並んでいたが人の気配はまるきりなかった。
 この駅が実質的な旅のスタートで、自転車の組み立てを終えて12:00に出発をした。先ずは、15km程南に下ったところにある十勝川河口の町「大津」に到着。

 

 「十勝川河口」

 

 「十勝川河口橋」

 

 「大津の町」

 

 そこからサケ釣りの竿が延々と続く海岸線を湧洞湖に向けて走り、生花苗というところに到着した。

 

 「サケ釣りの竿の列」

 

 「湧洞・豊頃の標識」

 

 「生花苗」

 

 この場所は、今回の旅の目的の一つである「依田勉三が創設した晩成社の二度目の入植地である」

 「晩成社集落の図」

 

 「依田勉三の住居(復元)」

 「現在の牧場の風景」

 「牧場の牛」

 

 依田勉三とは帯広開拓の祖と言われている人物で、伊豆松崎で結成した晩成社の同志13戸27人を率いて明治16年5月に帯広に入植、翌明治17年に生花苗に再移住。過酷な状況にもめげず開拓に励み、今日の帯広・十勝発展の基礎を築いた。晩成社が最初に入植した場所でもある中島公園に依田勉三の銅像が建っている。
新吉野からここに来るまで約2時間半は雨に降られぱなしであった。時には強く降る時もあったが、走行に支障を与えるほどのものではなかった。
 今日のお宿の「セキレイ館」には15:30に到着した。普通の農家の建物をそのまま宿にしたような造りで、横手には元々家畜小屋だったのか?車庫を兼ねた物置小屋があり、そこに自転車を格納し濡れた衣類を干した。そして、16:00過ぎごろ館に入った。私が一番乗りで、そのすぐ後に、大阪から来たサイクリング部の大学生、そして、同じく大阪の女性ライダーが到着した。
17:00、近くにある晩成温泉ツアーがあり、宿の主人が運転する車で送迎してもらった。中々いい湯で、雨に打たれ疲れ切った体を癒した。
 風呂仲間3人を含め7人の旅人が、この日に宿泊した、その内、5人がサイクリング、1人がライダー、1人はサイクリングの付き添いとうメンバーで、夕食時、食後の会では旅行談義で盛り上がった。
この場所(晩成)は、丁度、襟裳から広尾、大樹、厚内、白糠、釧路へ抜けるルート上にありライダーや、チャリダーのメッカになっている。
 「セキレイ館」の主人はバイクを、奥さんは自転車愛好家で、旅人の交流を促すもてなしをしてくれた。ありがたい。

 

12:31 | 2017年十勝の旅 | comments(0) | -
2017年十勝の旅(その2)

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2017年十勝の旅(その2)
【依田勉三、二宮尊信入植の地を走る】


「8月23日(火)」
々堝阿粒詰廖
 晩成〜R336〜生花苗〜湧洞〜二宮〜豊頃〜R38〜幕別〜帯広
⊇佝時刻セキレイ館: 08:45
L榲地到着時刻:16:30
そ蒜顱Д肇ぅ團ル北帯広YH
チ行距離:89km
ε係:晴れ・薄曇り
旅の記録
 4時半頃に目が覚めた。窓から差し込む光線が今日の天気を象徴していた。
 大阪の大学生は、昨晩、明日は早朝の4時に出発して釧路に向かい、部活の仲間と合流すると話していたが、彼のベットの上は整理をされていたので、その通りの、行動を行ったようである。
 朝の光線が牧草に反射して美しかったので、朝食前の時間を利用し、自転車の点検を兼ねて宿の回りを少し走った。

 

  

 「晩成の景色」

 

 「日高山脈を遠望」

 

 同室であった東京から来ていた自転車仲間は7時頃に出発をしたので、宿の主人とともに見送った。
 残った旅の仲間は5人となり皆一緒に朝食をとった。
 たった一晩のお付き合いであるが、温泉ツアー以来の人もいて、かなり、親しい話が出できる間柄となっていた。
もう少し話をしていたい気持ちもあったのだが、豊頃の郷土資料館に「10頃に行きます」と連絡を入れていたので、「そろそろ出発します」と言って腰を上げた。
 宿の夫婦、残った旅仲間全員で見送ってくれた。

 

 「セキレイ館」

 

 これから向かう豊頃は二宮尊信と興復社の人達により拓かれた地である。
 二宮尊信とは、二宮金次郎こと二宮尊徳の嗣孫である。尊信以下、興復社の人達たちは明治30年、まだ手付かずの未開の原野であったこの地に入植。当時、資本家が小作人を雇い入れて開拓事業を推進する中で、尊信は入植者を独立させた自作農に育成する報徳精神に基づく開拓を行った。これは、開拓事業の模範例となり多くの開拓を牽引する指導者たちへ影響を与えた。
 昨日と打って変わった強い日差しの中を、朝のひんやりした空気を切りながら走った。心地よかった。2時間程で豊頃の二宮地区に入いり、更にしばらく行ったところにある報徳二宮神社で小休止を入れた。
 

 「二宮の農村風景」


 「二宮報徳神社」

 

 入口の鳥居をくぐってから参道が続いており、拝殿は丸山の頂上にあった。距離にして200m以上で、休憩がてらお参りしようと思ったのに、自転車で走っている時よりもきつかった。報徳記念館に到着したのは11時前であった。

 

 「二宮小学校の銘板」

 

 「報徳記念館」

 

 「二宮尊信の墓」

 

 この館は、廃校になった豊頃町立二宮小学校の校舎を利用したものであったが、二宮尊徳、二宮尊信や報徳思想学んで開拓を行った人達を紹介する資料も展示されており充実した内容のものだった。館におられた方は元高校の世界史の先生のS氏で、その知識は豊富で二宮尊信、豊頃のことだけではなく、興味をそそる事象を沢山教えてもらえた。
 あっという間に12時を過ぎてしまった。まだ、昼食も取っていない。帯広までまだ50km以上ある。この炎天下である。今後の研究のため、自己アピールと今後の協力をお願いし、後ろ髪を引かれる思いで報徳記念館を後にした。
昼食は豊頃町役場の近くにあった唯一(?)一軒の食堂で取った。暑さのため食欲が湧かなかったが、塩分多めのメニューを選んで食べた。
 幕別〜利別の町を過ぎて、札内川を渡ってすぐのところが依田勉三と晩成社の社員が入植した場所で町名も依田町と付けられている。そこに、「帯広発祥の碑」建っている。

 

 「帯広発祥の碑」

 

 「依田町の標識」

 

 それから、3町ほど行ったところに中島公園があり、依田勉三の凛とした銅像が建っている。

 

 「依田勉三の像」

 

 「晩成社の同志」

 「十勝川」

 「札内川」

 

 そして、中島公園の向かえ側にある帯広神社に参拝し、今日宿泊予定のトイピルカ北帯広YHに向かった。
 帯広百年記念館の見学を計画していたが、炎天下の走行で疲れてしまい、割愛をした。
 YHに到着したのは16時30であった。

 

 「トイピルカ北帯広YH」

 

 

12:18 | 2017年十勝の旅 | comments(0) | -
2017年十勝の旅(その3)

2017年十勝の旅(その3)
【利別川沿いの入植地を走る】


「8月24日(火)」
々堝阿粒詰廖
 幕別〜R242〜池田〜本別〜足寄〜陸別広
⊇佝時刻トイピカル北帯広YH: 08:10
L榲地到着時刻:15:50
そ蒜顱 オーロラハウス
チ行距離:99km
ε係:曇り
旅の記録
 トイピカル北帯広YHでも印象的な出会いがあった。宿泊客は多くいるのに何故か夕食、朝食をとる人は数人だけ、夕食は4人、朝食はその4人と、3人父子?であった。そのため、夕食、朝食を共にした4人は話が弾んだ、プライベートな話はしなかったが、私を含めそれぞれが変わった人であった。一人は70歳前の長髪の自由人で、一年の殆んどを旅行に費やしていると言う大阪の人。一見、川端康成風の容姿で、今回の旅行の目的は8月22日に増毛・留萌に行くこと。その理由は、昭和20年8月22日が留萌沖でソ連の潜水艦に樺太から引揚者を載せた三隻の船が攻撃を受け多くの殉職者を出した「三船殉難事件」があった場所であったからであり、その一年前に沖縄から学徒をのせた疎開船「対馬丸」が撃沈された日と重なると言うことで、今回の旅の目的としたと話していた。こんな旅をしている人に会ったのは初めてで中々興味深い。もう二人は千葉からきたという母娘?帯広に一週間滞在すると言う。このYHをでた後は、「糠平」のYHに2泊、「八千代」のYHに2泊すると言う。特に観光地を巡るとかという考えはないらしい。お母さん?は聴き手上手で、我々初老の男性二人の話を熱心に聞いていた。そして、娘さん?は、二人の話を興味深そうに聞き入っていた。
 YHは宿泊した人達と交流するには最適の宿で、そんなことが理由で宿泊し食事を共に旅人も多いのだろう。
 7時からの朝食を済ませ、準備を整えたあと08:10に出発をした。
 今日の天気は曇りベースで、暑くもなく、寒くもなく、走行には不安材料な何もない。十勝川温泉から池田に入り、利別川沿いを北上した、途中高島にある池田町立郷土資料館に立ち寄った。
 池田町の高島地区は、横浜の実業家である高島嘉右衛門が332万坪の未開の原野を買い付け、小作人を入植させた地である。この郷土資料館にはそれらに関する資料が展示してあり、興味を持って入館した。

 

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「利別川」

 「池田町立郷土資料館」

 「池田町立高島中学校の門柱」

 「高島の農場の風景」

 

 次に訪れたのは本別町の郷土資料館である。こちらの方は、ネットでバロン西こと(ロサンゼルスオリンピックの馬術で金メダルを受賞し、硫黄島で戦死した西中佐)や戦前本別にあった軍馬供給部に関する特別展を開催していたので立ち寄った。貴重な資料が沢山展示してあり1時間ほど興味深く見学させてもらった。
 帰り際、本別町の歴史に詳しい館長さんにも挨拶をすることが出来た。その時、館を案内しますかと話されたが、これから、50kmほど走り陸別に15時30分頃には到着しなければならないのでと、「残念ながら」との言葉を添えお断りをした。そうしたら、関係する資料を郵送しますというありがたい言葉をいただき感謝感激した。

 「本別町歴史民俗資料館」

 「西中佐」

 

 館を出た後は、亡くなった馬を慰霊する忠魂の碑に参拝し、軍馬供給部十勝支所のあった現在の北海道立農業学校、それと、軍馬を送り出した旧仙美利駅に立ち寄り、足寄〜陸別へ向かった。


 「軍馬忠魂の碑」

 「北海道立農業学校」

 「軍馬供給部で使っていた古い建物?」

 「仙美利駅」

 

 通過しただけが足寄は松山千春の故郷である。走りながら千春の歌を口ずさんだ。
陸別の郷土資料館のある旧陸別駅舎に建てられたオーロラハウスには15:50に到着した。事前に連絡を入れていた郷土史家のS氏が待っていてくれていた。とりあえず、現場を案内しますと言うことで、S氏が運転する自家用車に乗せてもらい、関神社跡、寛斎の住居でもあった陸別駅逓跡、寛斎とその妻であるあいの墓所、そして、関牧場のあった場所を小一時間ほどで案内をしてもらった。

 「関寛斎の像」

 「オーロラハウス」

 

 関寛斎と言う人物は、現在の千葉県東金市の農家の子として生まれ、迎えてくれた養家の計らいで医学の道に進み、戊辰の役では官軍の奥羽出張病院長になるほどの大人物。72歳になった時に一念発起し北海道の陸別の開拓事業に全財産を投入し移住した。あまりメジャーになっていないかも知れないが、もし、彼の人生をNHKの大河ドラマにしたら、多くの人の心を引きつける物語になりそうな人物である。
 今日の夕食は関家寛斎顕彰会のメンバーとの懇親会を予定していますと言うことで、感謝感激をしてお受けした。私以外に、千葉県から一週間ほど調査研究のため滞在している方にも案内しているという。本当に心のこもったもてなしに陸別の人の温かみを感じた。
 18時からの開始であったが、あっという間にホテルの門限時間23時になって仕舞った。5時間近く何を話したのか?その一部は覚えているが、楽しく有意義な時間を過ごすことが出来た。
明日は陸別に滞在である。心置きなく眠ることが出来る。

12:01 | 2017年十勝の旅 | comments(0) | -
2017年十勝の旅(その4)

2017年十勝の旅(その4)
【関寛斎と関牧場の今は】


「8月25日(金)」
々堝阿粒詰廖
  資料館見学、陸別周辺
⇔κ迷攤
宿泊:オーロラハウス
ち行距離:25km
ヅ係:晴れ時々曇り
旅の記録
  6時近くまで眠ることができた。いつも4時頃には起きているので久しぶりである。
  朝食の後、道の駅にもなっているオーロラハウスの前の出店で、採れたての野菜を買い自宅に宅急便で送ることにした。
  なぜか、昨晩ご一緒した関寛斎顕彰会のメンバーの中に農業を営む方がいて、その晩餐の料理の中で出されたカボチャが美味しくて、「何処で買えばいいの」と聞いたら、「明日は朝市の日だからオーロラハウスの前で買うことが出来るよ」と言っていたためである。出店の前には、昨日そのように話されたご本人も来られており、昨晩のお礼の挨拶をした。
今日の行動は、先ず、資料館の展示物に一通り目を通し、その後、現地を廻る。そんなことで、9時頃からオーロラハウス内の資料館を小一時間ほど見学した。資料は関寛斎の歩んだ道に沿って系統だって整理・説明されてあり、かつ、分かり易く展示されていた。また、閲覧室スペースには関寛斎自らが書いた日記などの複製本が閲覧できるように本棚に置かれていた。素晴らしいの一言に尽きる。一般的な資料館、博物館では、これらの古文書に類する資料は倉庫の資料室に仕舞って在り、人目には触れないように扱っている。
  地元郷土史家のS氏は、見学の申出を受けた場合、資料館での説明、現地の案内も引き受けて下さると言うがその情熱には頭が下がる思いである。
  資料館を見学した後は、自転車で現地を廻って来た。先ずは、昨日S氏に案内して頂いた史跡のある場所を。


 

 「関神社跡」
 

 「関寛斎顕彰の碑」
 

 「関寛斎とあいの墓」

 「墓の銘板」

「我が身ををば焼くな埋むなそのまゝに斗満の原の草木を肥せよ」と記されている。

 妻のあいは明治37年6月12日札幌で亡くなったが、本人の遺言により、札幌で埋葬されることなく、寛斎が亡くなった大正元年に遺骨をこの地に移し合葬された。

 

 「やちだもの家」

 

  澄み切った青空の天気での中で陸別の牧場風景に浸ることが出来たのは幸せであった。

 

 「陸別の農場風景 
 

 「陸別の農場風景◆
 

 「陸別の農場風景」
 

 「陸別の農場風景ぁ
 

 「陸別の農場風景ァ
 

 「利別川」
 

 「斗満川」

 

  そして、今日一日の行動を終えS氏にお礼の挨拶に行った。

 

 「昨晩関寛斎を愛する仲間が集まったガンビー」

 

  陸別には著名な作家が訪れている。関寛斎の生前に訪ねたのは徳富蘆花で「みみずのたはこと」を、死後であるが司馬遼太郎が訪れ「街道をゆく」を、城山三郎が「人生余熱あり」を、最近では、高田郁が「あい 永遠に在り」を、その他に多くの作家が彼を題材にした著書を書いている。
  司馬遼太郎がこの地をおとづれた時に残したメモが、寛斎とあいの墓がある“やちだもの家”の中に展示してある。

 

 「司馬遼太郎か書き残したメモ」

 

 「陸別は、すばらしい都邑と田園です。寛斎の志のなすところ、ひとびとが不退の心で拓いたところ、一木一草に聖書的な伝説の滲みついたところです。森に、川に、畑に、それらのすべてが息づいています。」

11:39 | - | comments(0) | -
2017年十勝の旅

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2017年十勝の旅(その5)
【十勝から遠軽へ】

 
「8月26日(土)」
々堝阿粒詰廖
 陸別〜R242〜置戸〜留辺蘂〜遠軽
 遠軽発 「高速えんがる号(バス)」 札幌着
⊇佝時刻オーロラハウス:04:45
1鷏敕着時刻:10:30
自宅到着時刻:17:50
ち行距離:88km
ヅ係:曇り時々晴れ
ξ垢竜録
 今日は旅を終えて自宅に帰る日である。
 遠軽発13:30の高速バスに間に合わせ、かつ、アクシデントに対応できるように04:45関寛斎の像に別れの挨拶をして陸別をあとにした。まだ、薄暗いので前方、後方の車両へ注意喚起するために前・後のライトをつけてしばらく走った。夏と言えども陸別の早朝は寒い、気温は12度で、長袖にヤッケを羽織った。
 朝食は旧置戸駅のホール内で取った。

 「置戸駅」

 「人間ばんばの像」

 

  留辺蘂付近に到着した頃から、空は晴れわたり美しい農場の景色を拝めた。

 「留辺蘂付近の風景 
 
 「留辺蘂付近の風景◆

 

   留辺蘂から更に暫く進んだところに旧金華駅というところがある。その駅舎から300m程行ったところの国道242号線沿いに「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」が建っている。そこは、元金華小学校の跡地にあった。

 「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」

 「金華駅と停車している車両」

 

   北海道の開拓には負の遺産も沢山ある。その一つが、大正元年から同3年にかけて行われた常紋トンネル工事である。この工事では多くの労働者(タコ部屋労働と言われている)を酷使し、百数十名の殉難者を出したと言われている。
   ここから常紋峠までは数キロであるが、その峠を越えたあたりから横風が強くなり、雨がぱらつき始めた。生田原に到着したのは09:15であった。
   雨宿りがてら生田原のミュージアム「ちゃちゃワールド」に入ろうと思いきや、会館は09:30と言うことで、しばらく玄関前で待たせてもらった。この施設は今から20年前に建てられたと言う。町の活性の起爆剤として考えたのかも知れないが、いまでは、高速道路が遠軽まで延びようとしており、国道242号線を通行する車両がさらに減少して行く中で、館を維持する経費だけが膨らんでゆくのかな?

 

「ちゃちゃワールド」
 

  遠軽の町から通勤しているという受付の女性と嘆きに近い雑談をした。
  10:30遠軽に到着。輪行バックに自転車を格納しバスの到着をまった。

 

【旅を終えて】
 今年最初で最後の自転車の旅を無事に終えることが出来た。
日本一周を達成してから9年が経ち、年齢も66歳となった今、やはり体力的には大分衰えを感じるようになった。今回それを実感したのは、同じ一日の走行距離であっても、過去に走った時の距離感と現在のそれでは大分違ってきたなということ。数年前までは10kmや20kmなどは、すぐ近くと感じていたものだが、「まだ20kmあるの」、「まだ10kmもある」と言う風に感じながら走っていた。そして、中々目的地に到着せず、頻繁にサイクルメーターの距離計をのぞき込んでいた。
 私の自転車の旅は、自転車で走ることを目的としているものではなく、自転車と言う乗り物を使い歴史探索をするということであるので、一日の移動距離を短くし、天候の安定している時期を見計らって行えば、まだまだ大丈夫であろう。
   旅の動機づけで一番大切なものは、その旅を通じて「感動」を受けることが出来るかどうかである。「感動」とは人との出会いの中にあり、視覚、聴覚、臭覚などの五感で感じ取る土地そのものの中にある。
旅の醍醐味は、旅先での出会にあると言うが、まさにその通りで、「一期一会」の出会いを楽しみ、名前も交わさず、思い出だけを胸の中にしまい分かれる。
   たった4泊5日の今回の旅でもそんな思いが沢山つまっていた。
   この思いがある限り、わが旅はまだ終わらない。

11:09 | 2017年十勝の旅 | comments(0) | -
【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(旅の前夜)
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【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(旅の前夜)

「5月7日(土)」
明日から自転車の旅に出る。
ここ数年、青森、岩手を中心に「東北の歴史をたどる旅」を行っているが、今回は、少し南下し本州の真ん中を横断するコースを選んだ。
なぜ?



「2016年越後〜信濃〜上野の旅経路図」

 これは私の周りにいる数人の仲間しか関心を持っていない事でもあるが、1876年(明治9年)、私の住んでいる北海道に、開拓使の雇われ外国人の一人として米国人のエドウィン・ダンと言う人が赴任してきた。今年は、彼が来道してから丁度140年にあたる。
 そのエドウィン・ダンが牧牛場を開いた場所が、現在の札幌市南区真駒内であり、私の散歩コースの中にある。そんな事で以前から少し彼のことを調べている。
 それがなぜ、今回の自転車旅行と関係があるのか?
 このエドウィン・ダンという人は、北海道、いや日本に最先端のアメリカ式の畜産・酪農技術を伝授した人であるとともに、後年、駐日米国公使として日清戦争の講和に多大の貢献をした人でもある。更には、新潟(直江津)に米国インターナショナル石油会社の資本を導入して石油事業を行った人でもある。彼は、昭和6年5月15日84歳でその人生の幕を閉じるまで、約半世紀にわたり日本の近代化の為につくした。永眠先は東京の青山墓地にあり、奥さんのツルさん、ヤマさん(後妻)とともに眠っている。
 今回は、そんなエドウィン・ダンが後年過ごした地(直江津)を訪ねるとともに、越後〜信濃〜上野間に残る歴史的踏み跡をたどり、最後に東京に残るダンの踏み跡、そして、お墓をお参りするというものである。
日本一周を行ってから早いもので10年になるが、自転車で走ることから、自転車を利用した歴史探索にシフトしてきた。歳相応というか、老年齢なると自分の周りのこと、自分のルーツ、故郷のことを知りたくなるものである。そんな好奇心と自転車での旅行を結びつけると心がわくわくする。
 妻からは、「もう歳なのだから考えなさい」と言われ続けているが、まだやめるわけにはいかない。しかし、歳を重ねるごとに体力・気力、思考力・判断力が低下しているのも確かである。それが為、日頃からのトレーニングが必要で、週に1・2回ほどスポーツジムに通い、山歩き、スキー、サイクリング、軽いジョギング等年間を通して行なっている。頭の体操も少々。



 
17:43 | 2016年越後〜信濃〜上野の旅 | comments(0) | -
【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(その1)
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【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(その1)

「5月8日(日)」
々堝阿粒詰廖
  自宅〜バス〜千歳空港(09:15)〜JAL2872〜(10:25)新潟空港
  新潟空港〜新潟県庁〜国道402号〜角田岬〜寺泊〜出雲岬
⊇佝時刻(自宅):06:20
L榲地到着時刻:17:30
そ蒜顱Сい硫ネットワーク宿泊旅館
チ行距離:71km
ε係:晴れ
 
「旅の記録」
 朝起て、先ずは新潟から長野の天気予報をネットで確認。
 今日・明日の天気は良さそうである。
 妻に自宅近くのバス停まで車で送ってもらい、バスで千歳空港へ。
 今年最初の自転車旅行、何か落ち着かない。「準備は良いのだろうか?」と、少し不安な気持ちはあるが、それ以上に海と、青空と、山の緑の中を走る期待感の方が大きい。新潟行の便は一列4人乗りの小型ジェット機であったが、天気が落ち着いており揺れもなく快適な飛行だった。千歳空港を飛び立ち暫くすると、眼下には3年前に走った下北半島の断崖が現れた。仏が浦の奇岩も目に入った。下北半島のまさかりの刃の部分は険しい山岳地帯で、津軽海峡に直接落ち込んでいる。よくも、こんな険しい山地を老体にむち打って走ったものだと関心をする。そして、喘ぎ喘ぎ登った恐山へのジグザグの坂道を思い出した。
 1時間もフライトすると眼下に新潟平野が広がった。そこは水を引いたばかりの一面の田圃で、太陽の光が反射しキラキラ輝いて美しかった。



「空から見る新潟平野の田園風景」

 日本一周の旅で新潟を走ったのは10年前の5月5日〜6日で、その2日後の5月8日に山形県の新庄から酒田にぬける国道47号線の道路上で転倒事故を起こし、鎖骨と肋骨を折る怪我を負った。10年前の今日である。いやな記憶のよみがえる日。
 新潟空港には定刻通り10:30に到着した。
 今日の走行はそれほど距離ではないが、早く目的地の出雲岬へ着きたいとの思いがある。空港のレストランで早めの昼食をとり、手早く自転車を組み立て、11:45分には空港前を出発した。



「新潟空港前」


「新潟空港ターミナル」

 今回の旅に備え新しい携行工具をそろえていたので、組み立ては手短に行うことが出来た。
 ここまではいたって順調。
 と、思いきや、走りはじめて2kmほど行ったところでりパンク。昨年は一度もパンクをしていないのに出発していきなりである。何やら悪い予感が脳裏を過る。
 そして、案の定2度目のトラブル。パンクを修理したあと、近くにあったスーパーで小用を達した時に自転車を固定するワイヤーを開錠する鍵を無くしてしまった。気付いたのは、その後10kmも走ってからであったので、場所は特定できているが今さら戻る訳にもいかない。幸いお守りをつけた予備鍵が1つあったのでなんとかなった。  
 やはり年のせいなのか、注意散漫で無意識の間に物事を行っているときがある。気を付けなければ。
 途中、サイクルショップがあったので、ボンドの要らないパンク修理用のパッチゴムを購入した。理由は千歳空港での預託荷物の点検で輪行バックを開けられ、揮発性のものはないかと調べられた。そして、パンク修理用に持参していた小さなボンド入りのチューブを没収された。こんな物までと思ったが、昨年仙台までフライトした時より厳しくなったようだ。(この時はANA)
 今日の宿は出雲岬の手前にある民宿であるが、食事の準備は一斉なし。事前に電話をして近くに食料品を買える店があるかと聞いたら、2km程先に店があるとの返事。宿に到着してから、さらに往復4kmも走りたくない。「それでは」と、新潟の町はずれあったコンビニで夕食と朝食の食糧を買った。
宿に着いたのは17:30。
 本当はもっと早く到着するはずであったが、民宿入口の看板が不親切で、民宿の名前ではなくオーナーの名前が掲げてあり、2度も行ったり来たりした。最後は電話のやり取りと宿に奥さんの出迎えで、やっと分かった。
今日の走行は、新潟空港を出てから新潟県庁に立ち寄り、



「新潟県庁」

 その後は、海岸線の国道402号線を西に向けて走った。最初は若干の迎え風が吹いていたが、その後風が収まり、至って順調であった。
 新潟の中心から約25kmの角田岬までの国道402号線は殆どの箇所で防風林が植わさっており、海岸線を臨むことができなかった。角田岬の手前は海水浴となっており、そこから先の寺泊までの海岸線は変化に富んでいた。



「国道402号線 防風林が植えられている」


「角田岬」


「角田岬の海水浴場」


「沿岸の風景」

 今日はゴールデンウィーク最後の日曜日でサイクリングをしている何人かの人とすれ違った。この付近は、殆どが平地で、地元の人にとっては格好のサイクリングコースの様である。



「田植えの風景 手植えが珍しい」

 寺泊は佐渡への航路があり、漁港もあり、温泉もありと三拍子そろっている観光地で、国道沿いの物産店には沢山の行楽客の姿があった。
 ここから、出雲岬までの景観が少し今までのものとは変わって来た。それは、古い建物が多く残っていたことと、神社の多いことである。昔、越後と言われていた時代、この付近は開けていたのではではと感じた。あす、直江津の郷土史家に聞いてみよう。



「神社仏閣」

 今日の宿は、海に沈みゆく夕日を眺めるには絶好のポジション。



「今日のお宿」


「宿前の海に沈む太陽」
17:38 | 2016年越後〜信濃〜上野の旅 | comments(0) | -
【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(その2)
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【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(その2)

「5月9日(月)」
々堝阿粒詰廖
  出雲岬〜国道352号〜柏崎〜国道8号〜柿崎〜直江津
⊇佝時刻(出雲岬):05;45
L榲地到着時刻(信越本線犀潟駅):10:10
   その後、直江津周辺を散策し高田へ
   ホテル到着17:40
そ蒜顱Ч眦張拭璽潺淵襯曠謄
チ行距離:68km
ε係:晴れ
 
「旅の記録」
 今日は10:30分に直江津の手前5kmにあるJR信越本線の犀潟(さいがた)駅で地元直江津の郷土史家と待ち合わせをしている。出雲岬から約70kmでそれほど遠い距離ではないが、この時間までに絶対到着しなければならない。そんな事もあり5時45分に宿を出た。



「出発前の写真」

 暫く走ると北国街道の標識があり、旧街道であるその道を進んだ。



「北国街道」

 分け行って心躍った。そこは古いが街並みが延々と続いている。出雲岬の港まで2km近く続いていた。出雲は江戸の時代佐渡金山で産出された金・銀を陸揚げした港である。古い街並みが現在まで残っているのは、そのためであった。



「古い町並み」


「郵便局」


「神社」

 岬には道の駅があり、そこには『天領の里』とデスプレーさた標示があった。



「道の駅 天領の里」

 また、出雲は良寛和尚が生まれ育った地でもある。町の至る所に関係する史跡があった。更に、出雲は明治の中ごろ石油を採掘した地でもあった。そんなドラマテックな地が出雲岬である。



「良寛の生まれ故郷」


「出雲岬は石油産出の地」

 丁度、出雲岬にある道の駅に到着したとき、犬の散歩に来ている女性がいて、「今までの出雲岬という地名は知らなかったが、古い街並みが残る美しい地でとても感激している」と話したら、「嬉しいです」と喜んでくれた。そして、ここに来るまでに感じた幾つかの疑問をぶつけた。
岬には、沖に向けて一本の桟橋が伸び、展望柵へと続いている。多分佐渡島を眺めるために作られたのだろう。そして、その柵にはチェーンに繋がれた鍵が沢山かけられていた。



「海に伸びる展望柵」


「柵に繋がれた鍵付きのチェーン」

 さっきの女性に「何故?」と訪ねてみた。若いカップルがずっと結ばれていたいためにつけるのだという。なんとも怖い話である。
 その後は、国道8号線を柏崎〜柿崎と進んだ。
 柏崎は刈羽原発のあるところである。今まで走って来た古い町並みとは一転した。原発により発展していった町なのだろう。



「刈羽原発の遠望」


「刈羽原発ミュージアム」

 柿崎から先は途中海水浴場があったり、温泉があったりと、直江津まで街並みが続いている。そして、10:10に信越本線の犀潟駅に到着し、待ち合わせのY氏と合流した。
 このY氏は、今回の旅行の最大の目的であるエドウィン・ダンとその家族の人達の直江津で過ごした踏み跡を調べ るために事前に協力をお願いしていた人である。
 Y氏の軽ワゴン車の荷台に自転車を積み、ダンとその家族ゆかりの地を車で案内してもらった。
最初に行ったのが、ダン二番目の奥さんであったマヤさんの葬儀が行われたと言われる龍覚寺 と本敬寺。実は色々な説がありどちらの寺で葬儀が行われたかははっきりしていない。
 どちらのお寺でも住職さんが対応して下さり、親しくお話ができた。直江津の特徴は付近のお寺は全てが浄土真宗であること。親鸞がこの地に流された関係もあり浄土信仰が根付いたのだろう。



「龍覚寺」


「本敬寺」


「本敬寺の内庭」


「親鸞上陸の碑」

 その後、向かったのは、ダンが石油事業を行ったという場所で、現在の信越化学の敷地の中にある、ダンの家族とその従業員の住居があったという場所は信越化学の敷地内に含まれていた。



「信越化学の工場入口」


「石油を積み出したと言われる信越本線の線路と黒井駅」


「石油施設の搬入のために艀が往来したと言われる関川の支流保倉川」


「ダン一家と外国人従業員の住居があった場所」

 その後、ダンの子供達が通学し、ダンの次男であるジェームス・ダンが校歌を作曲したという直江津小学校等を案内してもらった。校長先生は不在で教頭先生に応対してもらった。



「ジェームス・ダンが作曲した校歌」

 また、直江津小学校にはジェームス・ダンが選定し同窓生により寄贈された高価なピアノが置いてある。当時のお金で3,300円(現在に換算するとその1万倍?)



「ベヒシュタイン」

 直江津小学校の学校だよりの名前は「ジェームス・ダン」であり、伝統を受け継いでいる。



「直江津小学校正門」

 更に、直江津・高田に来たのだからと上杉謙信の居城である春日山城跡、日蓮上人上陸地、福島城跡、会津藩士の墓地、戊辰戦争で戦死した薩摩・長州藩士の墓地、レルヒ中佐の像等時間の許す限り案内してもらった。



「福島城跡碑」


「春日山城」


「上杉謙信の像」


「会津藩士の墓」


「長州藩士の墓」


「薩摩藩士の墓」


「レルヒ中佐の像」


「金谷山からのぞむ直江津の街並み」

 Y氏には、今日の宿泊場所である高田駅前はまで送ってもらい、再会を願って別れた。

 
17:29 | 2016年越後〜信濃〜上野の旅 | comments(0) | -
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【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(その3)

「5月10日(火)」
々堝阿粒詰廖
  高田〜国道18号〜関山〜道の駅しなの〜豊野〜長野
⊇佝時刻(高田):08:00
L榲地到着時刻:15:05
そ蒜顱中央館 清水屋旅館
チ行距離:85km
ε係:曇り、一時小雨
 
「旅の記録」

 高田には戊辰戦争の敗戦で罪人扱いを受けた会津藩士1,700名が幽閉されたと言う歴史がある。その場所は高田城下にあった寺町で、現在のJR高田駅の西側にある。
 朝食前の小一時間を利用し、これらの寺を自転車で散策してきた。



「寺町の配置図」

 できるだけでは多くの寺の写真を納めておきたい。と、カメラを首にかけ、走り、止まり、シャッターを押す。この連続で、殆んどの寺の門前を画像におさめた。もし歩いて廻ったら半日以上の時間がかかったのでは。自転車は本当に便利な乗り物である。










「お寺の写真」

 実は今回の旅のテーマの中に高田に幽閉された会津藩士の歴史についても設定していた。それは、普段、私が行う歴史研究のテーマが『屯田兵と北海道の開拓』で、札幌の琴似(明治8年)、山鼻(明治9年)に入植した屯田兵の中に多くの元会津藩士が含まれており、其の中に、高田に幽閉され、その後斗南に移住し、そこから屯田兵に志願した者が何人かいるためである。高田に残る其の歴史跡を見ておこうと思った。
 幕末〜維新当時、高田の榊原家は徳川譜代15万石の小さな藩で、戊辰戦争時は他の譜代大名と同様その進退を決するのに悩みます。そして、戦争が北越正面に及ぶようになると、苦渋の決断をし、幕府側ではなく新政府側につくことになります。そして、以降の戦争において先鋒を務めさせられることになり、大きな人的・財政的な被害を受けました。
 その高田藩榊原家は戦後処理の会津藩士1,700名を預かることになる訳です。
 敵味方として戦った血気はやる会津藩士を預かるのですからたまったものではなかったことでしょう。そんな事を思い起こしながら朝の散策を終えホテルに戻って来た。
 朝食を取り身支度を整えホテルを出たのは08:00。



「高田駅」


「ホテル」

 今日の天気は芳しくない。雨がくる前に目的地の長野へ入りたいと思いつつ、先ずは高田城跡へ。



「高田城」

「高田城の配置図」

「旧軍の第13師団司令部が置かれていた」


「上越市立総合博物館」

 そこには上越市立総合博物館がある。事前に連絡を入れていたのであるが、その時アポ取をしていた学芸員は不在で代わりの学芸員が対応してくれた。そのため、詳しい話を伺うことができず。丁度企画展で展示してある高田藩にお預けとなった会津藩士の名簿資料を見せてくれた。それは、高田藩榊原家に残る資料で、その中に、新撰組の齋藤一が一瀬伝八の名前で記載されているのが確認できた。
 長居は禁物。雨に会いたくないので、その資料を見せて頂いただけで博物館を後にした。



「高田の名物“がんぎ”」

 長野まで、途中、特に見学をする予定はないので時々休憩を入れながら18号線を南下した。
 妙高手前で、今旅行中2度目のパンク。3日間で2回のパンクである。「どうなっているのか」と腹立たしく思う。



「パンク修理」

 国道18号線、これが一級国道なのと思えるほどの継ぎはぎだだらけのポンコツ道路である。これならパンクもするはず。



「道路はがたがた」

 妙高高原の最高地点は腕時計の高度計で計ったら750m位あった。この付近は名だたるスキー場の標識が続いていた。



「妙高高原へ向けて走る」


「妙高高原 名だたる温泉とスキー場の看板」


「もうすぐ長野県」

 12時を過ぎて少し空腹を覚えた。信州の入口に来たのだから蕎麦でも食べるかと考えながら走っていると、対向車線側に手打ち蕎麦の“のぼり”が旗めいていた。蕎麦屋は当たりもの、期待半分で店に入った。
 食べ終えて大満足。蕎麦通ではないが、味、噛みごこち、蕎麦湯、それ以外に出された二種の漬物、番茶、店の雰囲気の全てが花○でした。更に、『並み』を注文したのに、少しい多く茹でましたのでと言って大盛りを運んでくれた。店の名前は「樹香」、ペンションもかねている。場所は「一里塚 妙高」にある。



「そばの店」


「一里塚 妙高」

「北国街道の宿場」 
 野尻峠から豊野へは約300mの下りで快適この上ない。道路も新潟県から長野県に入り少し良くなったように感じがする。
 長野の宿に着いたのは3時過ぎで、幸い雨に当たることもなく、パンクはあったものの大したトラブルもなく到着した。
 長野には兄夫婦が住んでおり、兄に善光寺のガイド役を買ってもらい説明を受けながら見学をした。この善光寺。噂程度にしか知らなかったが、由緒あるお寺で、茅葺き屋根の重厚な建て方は、京都や奈良の寺とは違ったたたづまいで、「伊勢を見ずして、伊勢を語るな」と言われるのと同様、一度はお参りをするべき寺であると感じた。拝観料を払うと本堂下の回廊に入りお参する機会を得ることができる。まるっきり灯りのない暗闇の中を、壁・柱を伝いながら歩くのは一度体験の価値あり。




「善光寺」


「善光寺旧寺跡」


「善光寺門前」

 明日は上杉と武田が覇権を争った地を走る。
17:10 | 2016年越後〜信濃〜上野の旅 | comments(0) | -