日本一周by自転車

定年退職を機に、「もっと日本のことを知りたい」との思いから日本一周に挑戦。
4,800kmを走ったところで事故にあい負傷。
一度、心に決めた目標は絶対に達成する!!
2年後、「北海道開拓の歴史をたどる旅」をテーマとして再チャレンジ!
2008年10月遂に日本一周を達成。
夢はまだ続く。
新しい目標は、自転車で旅をしながら郷土の歴史を調べる。
囚人が作った道路を走る パート1の1
JUGEMテーマ:旅行
「明日から囚人道路の旅に」
2014年7月24日(金)
7月25日から29日までの間、釧路〜網走〜旭川を走る。
テーマとしたのが『囚人が作った道路を走る』で、札幌から釧路まで輪行で移動し、釧路〜塘路〜標茶〜摩周〜硫黄山〜野上峠〜小清水〜網走〜北見〜留辺蘂〜栄〜遠軽〜丸瀬布〜北見峠〜上川〜旭川を走る。そして、輪行で札幌に帰る。走行距離約400kmの自転車旅行である。
北海道の刑務所と言えば高倉建の『網走番外地』を思い起こす人が多いと思うが?いや、それば団塊世代か?
北海道開拓の歴史を振り返るときに囚人達が行った労働を抜きに語ることはできない。樹木が鬱蒼と茂り、熊・獣の住む踏み分け道さえない未開の大地に第一歩を踏み入れたのは彼ら囚人達である。
それは、道路の建設、灌漑溝の掘開、屯田兵屋の建設等の土木工事や、石炭、硫黄の採掘。農作物の栽培、畜産・酪農等の農業作業など多岐に渡った。それらの囚人労働は、多くの犠牲者を出すことになり、中でも明治24年に行われた中央道路(旭川〜網走間の道路)の開削工事は過酷を極め、多くの人柱の上に道路が建設されたと言っても過言ではない。
北海道に初めて集治監が設置されたのは明治14年で、現在の月形というところに樺戸集治監が建設された。翌明治15年には三笠に空知集治監が、明治18年には標茶に釧路集治監が建設された。設置当初、各集治監に与えられた役割は、樺戸集治監には道都札幌及び周辺の土木工事、空知集治監には幌内炭坑での石炭の採掘、釧路集治監には硫黄の試掘であった。その後、明治も20年代に入り、それぞれの集治監に道路開削工事の役割が付与された。
北海道の開拓を語るときに彼等の貢献を忘れることはできない。更に知っておく必要があるのは、当時、北海に送り込まれた囚人は、極悪人だけではなく、自由民権運動等に関わった政治犯もいたということで、政治体制によっては国を動かす側についたかも知れない人達が沢山いたと言うことである。
囚人による道路の建設は、北海道の開拓史に残る重要な出来事であり、以前から訪ねてみたいと思っていた。



 
07:57 | 2014年囚人道路を辿る | comments(0) | -
囚人が作った道路を走る パート1の2
「札幌から輪行で釧路へ そして塘路へ向かう」
2014年7月25日(金)
々堝阿粒詰
  札幌〜釧路へJRで移動
  釧路〜R391〜塘路
塘路到着:15:05
宿泊場所:とうろユースホステル
ち行距離:30km
ヅ係:はれ

「旅の記録」
  最寄りの地下鉄駅まで妻に車で送ってもらい、08:51札幌駅発スーパーおおぞら3号に乗車し一路釧路へ向かった。



「札幌駅で」

  今日の目的地は釧路から北へ30kmほど上ったところにある塘路。そこに標茶町立の郷土館があり、学芸員の方に15:00頃に伺うと連絡を入れていた。釧路駅前で自転車を組立、出発準備を20分程度で行い、いざスタート。
この間に観光客の写真撮影のお手伝い、携帯電話で連絡も入れたので、20分間の出発準備は今までの最短記録更新である。
久しぶりの道内の自転車旅行。釧路市街地を外れ釧路川沿いの樹林地帯に差し掛かった時、やはり、北海道のサイクリングは良いなと感じた。道路は広いし、行きかう車は少ない。風はすがすがしい。こんな快適なサイクリングを楽しめるところは北海道にしかない。
標茶郷土館は釧路集治監の本部庁舎であった建物をこの場所に移築したもので、訪ねるのは今回で2回目である。以前訪ねた時、今日お会いする学芸員の方は求めに応じて資料を準備して下さった。それには、用事があり立ち会えないとメッセージが添えられていた。今回はその時のお礼と、囚人道路に関する情報の提供依頼である。



「標茶郷土館 旧釧路集治監庁舎」

私の持っている人脈のネットワークと、学芸員さんの持っておられるネットワークに重なる部分があり、親しい会話と情報交換ができた。
『とうろYH』に到着したのは16時を少し回った頃である。このYHは清潔感のある洒落た感じの施設で、バルコニー越しにJR塘路駅が、その先には塘路湖が臨めるという場所に立っている。中々の展望である。
夕食時にオーナーから、「夜になるとホタルがご覧になれますよ。最終列車がくるときには電気をけしますのです、夜汽車の明かりを楽しんで下さい」とメッセージが添えられた。
今日のお客さんは、その最終列車で到着した北京から来たという若いカップルを含め9人で、内5人は夕食時一つのテーブルを囲んだ。皆さん旅を楽しまれている方で、それぞれの旅について語り合いながら食事を楽しんだ。




「塘路YH]

最終列車の明かりが見られるのは10時5分。ご老体の疲れた身には少々キツいのだけれどスマホで日記をつけながら暫く待った。するとホタルが出没した。蛍を肉眼でみるのは小学校時代、能登半島の叔母さん宅に行った時以来。いや、その後に富山でも見ているかな。そんなに遠い記憶でしかない。この蛍の光を宿泊者と一緒に楽しみ、本番の『銀河鉄道』が停車するのを待った。
この頃にはギャラリーが増え、夕食を囲んだメンバー全員がカメラ片手に集まって来た。どうすればカメラの画像に収められるか、わいわいガヤガヤ。さすがそれは無理であったが、幻想的な列車の光源だけはこの目に焼き付けることが出来た。
このYHのキャッチフレーは『ようこそ銀河鉄道の旅へ』
勝手に自分で考えた。

 
07:53 | 2014年囚人道路を辿る | comments(0) | -
囚人が作った道路を走る パート1の3
JUGEMテーマ:旅行
「塘路〜小清水へ」
2014年7月26日(土)
々堝阿粒詰
  塘路〜標茶〜摩周〜硫黄山〜小清水〜濤沸湖
塘路出発:07:45
濤沸湖到着:16:05
そ蒜饐貊蝓Ь清水はなことりYH
チ行距離:114km
ε係:くもり〜雨
「旅の記録」
今日走る距離は長いし、途中で立ち寄りたい場所も多い。朝食の案内をされたのは7時25分であったが、手早く食事を済ませ出発をした。
何年か前に訪れた時は朝靄に霞む幻想的な塘路湖を見たのであるが 、今回は生憎の曇り空で湖面は沈んでいた。



「塘路駅」


「湿原を遠望しながら走る」





「シラルトロ湖」


「シラルトロ湖付近」

国道391号線を一路標茶へ向けて走った。当初は湿原の脇を走る道で左右の景色を眺め、時々停車しカメラを構えながら走った。暫くすると森林内を縫うように走る道となり、15km余り走った頃だろうか、一気に視界が開け標茶の平野が広がった。そして、湿原を澱むようにゆったりと流れていた釧路川が、一転、流速を早め標茶の平野を分断するように流れていた。


「釧路川 標茶付近」


「国道391号線に沿って走る釧網本線」


「標茶の牧場風景」



釧路から塘路、標茶へ向けて走ることにより、屈斜路湖を源として発する釧路川が弟子屈〜標茶〜釧路の大地に恵みを与える母なる川なのだとあらためて実感した。そして、この川が作り出す釧路湿原は、各種の植物をはじめ、野鳥・動物達の棲家として豊かな自然を提供している。更には、私のサイクリングも楽しませてくれた。
暫くして標茶市街に到着した。最初に向かったのは標茶墓地。ここに慰霊碑と死亡者の墓がありお参りをしてきた。墓碑には明治18年から明治29年の死亡393人と刻まれていた。その多くは硫黄の採掘、道路建設等土木工事による犠牲者である。
釧路集治監は明治18年に、樺戸、空知集治監に続く3番目の監獄として設置された。目的はこの地域の開拓の労働力としてであるが、まず、最初に与えられた労働が硫黄山での硫黄の採掘である。しかし、多くの犠牲者を出すこととなり、明治20年、足掛け2年で撤退をした。その後、行われたのが道路建設である。今日、走った道路の多くは囚人達が掘削した道路である。当時の状況は想像するだにできないが、昼なお暗い原生林の大木が生い茂る山中をどの様にして測量し、木を切り、岩盤をくだき、橋を架け、道路を作っていったのだろうか。
標茶の集治監が置かれた場所は、現在、標茶高校のキャンバスになっており、校庭の一角にここに集治監があったのだという証の石碑が置かれていた。それは、この碑もあたかも罪人であるかの様に木の影に隠れるように置かれていた。やはり、生徒たちはここが監獄であったとは知っていても、そうだと思いたくないもかもしれない。



「釧路分監獄の跡碑」


標茶から弟子屈までの道のりは平坦で麦畑と牧場の風景が連なっていた。釧路に発生する海霧の影響はここまで及ばないのだろう。


「摩周駅」

弟子屈に着いたのは11時を少し回った頃。少しエネルギー源を補充しようとコンビニに入った。店の前に初めて見る手押し車のようなものが置いてあり、その脇に外人さんが立っていた。先ずは日本語で「歩いているのですか」と声をかけた。英語が返って来た。その後、半分ほどしか分からない片言の会話のなかで、日高山脈の最高峰『幌尻岳』に登りたいと言っていることが分かった。


「外人さんと」

私も20数年前に登ったことがあり、素晴らしい山だと答えると、何処から登ったのだ?そこにはどうしたら行けるのだ?しかし、持っている地図はA2版程度の用紙に北海道が乗かっている観光マップ。これでは、分かるわけがない、再度コンビニに入り道路地図で説明。この外人さん、最寄りのバス停から歩いて山に登ろうとしている。その質問には日本語でも答えられない。最後は分からないと答え、釧路は大きな町なので、釧路の本屋で登山地図を買うといいよと付け加えた。そして、記念写真をとり、互いの旅の無事を祈り別れた。
硫黄山の麓に囚人達が働いた精錬所が有ったと言うが、今は林のなかに埋まっている。
この付近ではないかと思われる場所は国道から林の中に500mほど分け入った場所にあるらしい。国道わきから数本の廃道が伸びていた。そのうちの一本の道を進み、この付近ではないかと思われるところで写真を撮った。その場所になにやら古い木片が落ちていたので、それも写真に収めその場を去った。ここは、ブヨとアブの棲家で、数分の間に手足が腫れあがった。



「硫黄の精錬所があった付近」


「古い木片を拾った」


「硫黄山」


「川湯温泉駅」

今日の目的地小清水YHまであと40kmほど、最後の難関は野上峠標高320mで、その後は小清水へ向け下るだけ。森林を抜けるとよく整備された畑地が広がった。明らかに釧路から弟子屈にまでの間に見た農村の景色とは違った。作物は、麦、じゃがいも、甜菜などであった。この地は、豊かな畑作地帯であると実感した。この頃から雨脚が強くなったが、16:05小清水『はなことりYH』に到着した。


「野上峠」


「野上峠から小清水へ向け下る」






「小清水の美しい農場風景」

釧路から小清水までの囚人たちが掘削した道路は、一部鉄道部分も含まれるが、現在も釧路から網走や斜里に向けて物資を運ぶ産業道路としての役割を担っている。大型車の通行が多くあった。
 
07:01 | 2014年囚人道路を辿る | comments(0) | -
囚人が作った道路を走る パート1の4
「小清水〜北見へ」
2014年7月27日(日)
々堝阿粒詰
  小清水はなことりYH〜網走〜二見ヶ岡〜鎖塚〜北見
⊇佝:08:10
E着時刻:15:25
そ蒜饐貊蝓北見スーパーホテル
チ行距離:81k
ε係:くもり〜雨
「旅の記録」,
はなことりYHでは2人のライダーとの相部屋。食卓テーブルも同じで意気投合し気兼ねなくすごせた。
『はなことりYH』は一昨年の7月にも泊まっており、お気に入りの一軒である。既存のユースホステルの慣習にとらわれない、色々なアイディアの中にオーナーの宿にかける意気込みを感じるので、特に気に入っている。
料理もビールを飲みたくさせる様に気を使ってくれているのはあり難い。因みにこれが夕食のメニュー表。多くの宿泊客はわざわざこの様なものを見ないかも知れないが、そんなこだわりの中に真剣味を感じる。頑張ってもらいたい。




「はなことりYH」


「夕食のメニュー表」

昨晩の天気予報は雨。しかし、朝起きたら、曇り空であるが雨の気配はない。天は我に味方をしてくれたと信じYHを後にした。


「濤沸湖」


「スタートし 農道を走る」

やはり、天は我に味方をしてくれなかった。出発して直ぐに小雨がきた。時間の経過とともに雨脚が激しなった。そして、藻琴を過ぎたあたりから本降りになりカッパを着た。
この雨、気に入らないのは、網走監獄博物館にいる2時間だけ降らなかった。見学を終え自転車を走らせた途端に、また、降り出した。そして、北見の宿に到着したら止んだ。今日は雨に降られても良いと思っていたが、この仕打ちには神を恨んだ。
目的の『囚人達が作った道路を走る旅』。とは言いつつも、走っている時はいつも通り、その土地の景色を楽しみながら走っている。
今まで何度か車・自転車で走った藻琴、北浜、小清水・・・・斜里まで続く海岸線は何もない殺伐とした、ここが北海道だと異郷の地を彷彿させる場所であるが、一歩、涛沸湖の南側の丘陵地帯に入ると、そこには、広大な農村風景が拡がっていた。そして、豊かな大地を感じた。途中、畑作業をしている人に声をかけた。この付近の農家の人は20〜25ヘクタールの農地を所有している。多い人は35ヘクタールもあるという。麦、甜菜、豆、ジャガイモ等を栽培しており、それらの織り成すパッワークは美しい。




「小清水の農場の風景」


「農村の風景の中を走る」


「藻琴駅」

網走監獄博物館に到着したのは10時半頃。この施設を見学するのは3度目であるが、アジアから来た旅行者の多いのにはビックリした。多分、入館者の半分?は外国人のようである。


「監獄の庁舎」



「舎房の内部」


「道路建設工事で使われた仮監獄」


「仮監獄 茅葺屋根」


「仮監獄 内部の姿」

ところで、彼ら外国人はこの施設を見学し何を感ずるのであろうか?資料館に展示しているパネルの内容は少し勉強している私には解るが、北海道の歴史という予備知識のないそれら外国人にどの様に写るのだろうか。いや、北海道に住む人達も解っていないかもしれないが。
各施設に展示している人形はリアルで、この人形が独り歩きをし、史実を伝えるのかもしれない。
博物館を出たのは12:25。後は北見に向け囚人道路をひた走る。
網走湖西岸に差し掛かった時、雨脚が強くなってきた。雨に濡れないように、カメラ、
スマホ、財布、地図等が入っているポシェットをサイドバックに仕舞い込んだ。



「二見ケ岡の慰霊碑」

網走湖の西側の丘陵地帯に二見ヶ岡というところがあるが、囚人達が切り開いた大農場のあるところである。ここから、喜多山にかけての農場風景は美しい。網走監獄を訪ねた方には帰り道としてこの付近をドライブすることを勧めたい。美瑛丘陵を彷彿させる丘陵が続いている。



「峠 双鏡台」

カメラはサイドバックの中で、残念ながら画像はない。
峠を降りたところに緋牛内というところがあるが、そこに、『鎖塚』の慰霊碑がある。この場所から鎖に繋がれた囚人の遺骨が出てきたことから、慰霊碑を建てたものである。



「鎖塚 慰霊碑」

ロシアの脅威から北海道を横断する道路の建設を急ぐ時の政府の意向をふみ、北海道庁は明治23年から明治24年にかけて旭川から網走までの道路を建設した。その中で、明治24年4月〜12月の間に行われた網走から北見峠まで161kmの道路建設が網走監獄を中心に約1500名の囚人が投入され、238名の囚人が犠牲となった。亡骸は路傍に打ち捨てられるように埋葬され、中には、この『鎖塚』のように鎖に繋がれた状態で発見された遺骨もあった。
網走から北見峠にかけての国道筋には多くの遺骨が放置されたままになっている。そんな囚人たちの亡骸を供養しようと地元の人たちが慰霊碑をたてお参りをしている。
ずぶ濡れになってしまったが15:30過ぎ北見の宿に到着した。今日のお宿はよく利用するビジネスホテル。人との会話はないが、その分、洗濯、自転車の手入れに専念できた。

 
06:15 | 2014年囚人道路を辿る | comments(0) | -
囚人が作った道路を走る パート1の5
JUGEMテーマ:旅行
「北見〜丸瀬布へ」
2014年7月28日(月)
々堝阿粒詰
  北見〜留辺蘂〜栄〜遠軽〜上湧別〜遠軽〜瀬戸瀬〜丸瀬布
⊇佝時刻:08:35
4歙ド枦着:15:45
そ蒜饐貊蝓П杆緡拘
チ行距離:83km
ε係:曇り〜晴れ
「行動の記録」
今日走るコースの内、北見から留辺蘂までは、屯田兵の入植地を訪ねる旅で走っている。そこから先は、一部自家用車で走っている区間もあるが、自転車では走っていない。
今日の天気は晴れベースなのだが、出発した8時半頃はまだ霧雨が降っていた。道路上には木葉が落ちていたので夜中はかなりの風が吹いたようである。
ホテルを出て一路相内へ向かった。ここにも慰霊碑があるが、参拝する前に一軒の御菓子店に入った。店はリユーアルしていたが4年前に自転車で訪ねたとき空腹を癒すために大福餅を食べた店だった。創業100年近いという相内の老舗“圓泉堂”で、その時、おられた方に相内屯田兵村のことを色々うかがった。



「相内の圓泉堂 製菓」

今回も、その時に食べた大福を食べたくて立ち寄ったのだが、今回応対してくれた人は若い女性だった。聞いたら若店主の奥さんだった。そして、4年前の話しの続きに付き合ってもらった。相内は昭和31年まで独立した町だった。しかし、町村合併で北見市に吸収されてしまった。駅前も寂れ、唯一この店だけが頑張っているといっても過言でない。小さい時に食べたお菓子の味は忘れられないのだろう。相内を去っても買いに来て下さるお客さんは多いと言っていた。
食べるための大福だけではなく、土産用に一箱作り、郵送してもらった。そして、「頑張って下さい」と激励し店を離れた。このかけた言葉は本心であり、相内の老舗として暖簾を守っていってもらいたい。


「相内の慰霊碑」


「相内から留辺蘂方向を眺める」



「留辺蘂の麦畑」



「白龍山編照院」


「留辺蘂の駅逓跡」


「留辺蘂から丸山峠へ向かう」


「留辺蘂から北見方向」

相内にある慰霊碑参拝の後、留辺蘂から佐呂間方向の栄に向かった。途中の丸山峠にも碑があるので立ち寄った。道路わきに傾いた看板があり、その奥に、慰霊碑が建っていた。慰霊碑の後方に灌木が生い茂り、御影石に記された文字を読み解くことができなかった。




「丸山峠にある慰霊碑」



「丸山峠から留辺蘂方向」

慰霊碑のある場所から100m行くか行かないかの先に立派なパーキングゾーンがあった。この慰霊碑、なぜその場所に移設しないのだろうと疑問に思った。慰霊碑には御霊を弔うことと、史実を後世に伝える目的もあるのではなかろうか。そんなに経費が掛かるとは思わない、是非移設をしてもらいたいものである。
栄は佐呂間町の西はずれにある山間の小さな集落と言った感じである。5kmほど手前に花園というところがあり、そこに駅逓があった。
駅逓は街道筋にある公設の宿であり、人馬による輸送の中継所で、集落はその駅逓の周りに出来上がったところが多くある。因みに今まで通過した端野、野付牛、相内、留辺蘂には駅逓所があった。この栄は山間部にあるため、多くの入植者を受け入れることができず。現在に至っては、少ない入植者の子孫が都会に出て行ってしまい、過疎化が急激に進んでいる。これが、他の地を含め北海道の現状のようだ。


「いたるところにある廃屋」

栄から更に国道333号線を遠軽方向へ向かうと自動車道が一部開通していた。原付、自転車、歩行者は立ち入り禁止で、それらは旧道を通りなさいとの指示。予期した通りの急な山越えの道であった。安国に出るまで通行していたのは我ただ一人。果たして今日一日でこの道路を利用した人は何人いたろうか。一年間に通行する人の数は?そうすると一台の車を通行させるのにかかる費用は?どうしてもそんなことを考えて仕舞う。
旭野トンネル前にキツネがいた。我の存在を気づいていない。めったに人に合わないので警戒心がまるでない。「キツネ」と声をかけたら、びっくりして飛び跳ねるようにして逃げていった。車の通過する気配は一斉ない。熊の出没を考えたり、おかしな想像をしたりして旧道を走った。


「栄付近のとうきび畑」

遠軽の入り口に食堂があつたので、やっと飯にありつけたと思い暖簾をくぐった。時間は13時を大きく回っていた。留辺蘂から、店らしい店はどこにもなかった。おかげで、相内で買った大福が大いに役に立ち空腹をいやしてくれた。
中央道路で一番悲惨な史実を後世に伝える場所が瀬戸瀬かも知れない。ここは、病院監獄がおかれた場所で多数の傷病患者が収容されていた。そして、その脇には67柱の亡骸が埋葬されていた。



「瀬戸瀬にある山神の碑」

この『山の神』という墓標は、この病監を住居として使った駅逓の支配人佐藤多七が山から石を運び出したてたもので、死後も囚人と呼ばれるのは酷であると“山の神”と刻印した。屋根は近くの婦人達が雨風に当たらぬようにと明治38年にかけたものである。



「瀬戸瀬にある慰霊碑」

丸瀬布に到着したのは15時45分。今日のお宿は丸瀬布駅間にある唯一宿『越後屋旅館』


 
18:21 | 2014年囚人道路を辿る | comments(0) | -
囚人が作った道路を走る パート1の6
JUGEMテーマ:旅行

「丸瀬布〜旭川へ(ゴール)」
2014年7月29日(火)
々堝阿粒詰
  丸瀬布〜下白滝〜北見峠〜中越〜国境〜上川〜伊香牛〜旭川(永山)
  旭川(永山駅)〜JR〜札幌駅・・・自宅
⊇佝時刻:04:35
0粟遏扮併咳悄謀着11:55
ぜ宅:16;00
チ行距離:113km
ε係;晴れ
「旅の記録」
昨晩の天気予報では旭川の最高気温は31度。北見峠(857m)を越えなければならない。どうするか。思案の結果、夜が明けたら出発し、涼しい内に峠を越えてしまうことにした。
宿の女将さんには、その旨を伝えて、昨晩中に宿代を清算してもらった。
朝3時頃に起床。身支度を終えた04:00頃、玄関先に荷物を運んでいたら女将さんがもう起きていた。女将さんはかなり高齢の方で、年寄りだから朝が早いのかな?玄関先まで出て見送ってくれた。



『越後屋旅館」


「丸瀬布駅」

この越後屋旅館、創業約100年と言うから大正の時代である。丸瀬布が林業、鉱業の中継地として発展しつつある時なのだろう。近くには金山で有名な鴻之舞鉱山があり、当時は繁盛したのだろう。現在は上川から伸びる自動車道の工事が丸瀬布まで終わり、今後に期待するものは殆どなくなってしまった。80歳を超えた妹さんと二人で切り盛りをしているが、あと何年この旅館を維持してくれるのだろうか。
実はこの旅を計画する時、丸瀬布の先の白滝まで足を延ばし宿を取りたかった。ネットで検索したら白滝には温泉旅館が1軒と他に3軒の宿があったが、全て廃・休業中であった。自動車道が開通したために宿の需要が無くなったのだろう。
囚人道路を辿る旅も最後の日となったが、この区間が難工事で、多数の死者を出すことになった。その亡骸は道路わきに埋葬され、今では、その所在すら分からないという。


「丸瀬布の製材所」


「農場の風景」


「国道333号線を走る」


「湧別川の流れ 前々日の雨で増水している」


「下白滝駅」




「鉄道と並行して国道が走る」




「目につく廃屋」

そんな事を、心の片隅にしまいながら山中を走った。
遠軽〜丸瀬布〜下白滝〜白滝〜上白滝〜奥白滝までは北大雪山系の谷あいを流れる湧別川に沿って道路が開削された。それでも、遠軽〜上白滝までは500m〜1000m位の幅の平地があり、現在でもその一部を使って牧畜、畑作が営まれている。特に、白滝は盆地を形成し、市街地も発達していた。


「白滝駅」



「白滝駅のホーム」




「白滝の町は寂れ行く」


「白滝付近の農村の風景 麦と廃屋」


「白滝付近の農村の風景 そば」



問題はここから北見峠までで、距離にして約10kmの区間である。標高差300〜400m位あり完全な山地地形で、ここに幅3間(約6m)の道路を通すというのであるから並大抵のことではない。平地であれば土砂が堆積しており整地は容易であるが、山間部となると表面を剥ぐと下は岩盤である。ツルハシとモッコしかない時代にこれを開削するのは並大抵のことではなかったろう。






「囚人が作った道路は今」

中央道路(北見道路)のうち、網走から北見峠までの161km区間の工事は4月に開始し12月に完了しているので、この付近の工事は、秋の深まった頃に行われたと思われる。夜間の気温は氷点下に下がっているはずである。また、掘削工事の終わった道路は秋雨でぬかるみ通行を困難にしていたのではないかと推測される。
工事も最終局面を迎え、この地域一帯で作業に従事していた囚人が1000近くおり、それに必要とした食料その他の物資を150km後方の網走から運ぶのであるから、滞りがちに為らざるを得なかったであろう。150kmというと徒歩では4日かかる距離で、馬を使っても2日はかかる。どうやって必要な物資を運んだのだろうか?ある資料によるとアイヌ人を使役し馬で輸送したと記されてあるが。その実態は如何であったのだろうか興味の湧くところである。
この工事において300人余りの人(囚人だけではなく看守等監獄の官吏も亡くなっている)が亡くなっている。その多くはこの山間部の工事区間で亡くなっているのではないだろうか、病監のあった瀬戸瀬では棺に入れられた47体亡骸が発見されているが、瀬戸瀬の病監は、これら前方の工事現場で発生した傷病者を後送したものだろう。道端に打ち捨てられるように埋葬された囚人は、後送することすらできなかった囚人達である。この付近の山中には100体近い亡骸が、何処とも知れず遺されているのである。
自動車道の開通により、殆ど車の走らなくなってしまった国道333号線である。そんな工事の状況を推理しながら北見峠に向け黙々とペダルを漕いだ。峠に着いたのは08:20、北見峠の頂上は青空が広がり風はさわやかであった。




「もうすぐ北見峠の頂上」


「峠の頂上に立つ殉難者慰霊碑」


「閉鎖され忘れ去られたた峠の茶屋」 

過去、車の往来があった頃に繁盛した峠の茶屋は、今では全て閉鎖されており、窓には板が打ち付けてあった。そこに、「中央道路開削 殉難者慰霊の碑」が寂しく建っていた。
また、余念がよぎった。自動車道が開通したおかげで、旧国道を通る人・車はいなくなった。丸瀬布の越後旅館を出るとき女将さんから「『鈴』を持った」と、冗談とも本気とも取れる言葉をかけられた。熊が出没してもおかしくない道路になってしまったのだ。シカは丸瀬布を出発してすぐに横断した。過去囚人たちが切り開いた道そのものが、森の中に消え去ってしまうのかもしれない。
多くの囚人たちがこの工事で命を落とした。囚人だけではなく管理に当たる刑務官も亡くなっている。いずれ、この史実は博物館の資料と歴史書の中だけに残ることになるかもしれない。誰もいない北見峠にひっそりと建つ碑を拝み、何やら悲しい気持ちになった。
登りの後には下りがある。857mの北見峠から上川へ向け一気に下る。対向車の殆どない国道である。快適そのものの走行であった。



「北見峠を降り上川へ向かう」

北見峠から上川へ向かう経路は、白滝〜北見峠に向かう経路よりも更に山深い。廃屋があったのは峠から12km下った中越というところが初めてだった。

「初めてあった廃屋の場所に建つ 中越駅逓跡の碑」

旭川から北見峠までの工事には空知集治監の囚人が動員された。ここでも、多くの囚人が亡くなっているが、あまりその史実は伝えられていない。
未開の地である網走に監獄を建設し未開の地へ向けて道路を作った東側ルートの工事と、開発の槌音が聞こえ出した旭川から工事を始めた西側ルートでは物資の補給という面で有利であったと思われる。飢え、特に水腫病患者は西側ルートの工事で発生しなかったのではないかと思われる。
04:35丸瀬布を出てから高梨沙羅ちゃんで有名になった上川についたのは09:50。ここにきて初めて人の往来を目にした。駅も立派である。



「上川駅 町は沙羅ちゃん一色」


「一路旭川へ」


「母なる川 石狩川」


「米どころ上川」

最終ゴール地点のJR永山駅に到着したのは11:55で、急いで輪行準備を行い12:42分発の電車に乗り込んだ。



「旭川駅」
 
17:37 | 2014年囚人道路を辿る | comments(0) | -