日本一周by自転車

定年退職を機に、「もっと日本のことを知りたい」との思いから日本一周に挑戦。
4,800kmを走ったところで事故にあい負傷。
一度、心に決めた目標は絶対に達成する!!
2年後、「北海道開拓の歴史をたどる旅」をテーマとして再チャレンジ!
2008年10月遂に日本一周を達成。
夢はまだ続く。
新しい目標は、自転車で旅をしながら郷土の歴史を調べる。
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南部の旅第1段(その1)
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 南部の旅第1段(その1)
2013年10月12日(土)
々堝阿粒詰
出発時間(自宅) 12:00
 自宅〜国道36〜恵庭〜千歳〜苫小牧(フェリー乗り場)
 苫小牧港発(21:15)〜八戸港へフェリーで移動
八戸港到着時刻:13日04:45
宿泊場所 船内
ち行距離:64km
ヅ係:晴れ

「旅の記録」
  今年最後の自転車の旅。年に3回自転車による小旅行をしようと年の始に考えた。
  先ずは6月の根室、8月の下北の旅、そして、今回は下北の旅の続編で、青森県の太平洋側から岩手県の北部地区の旅を計画した。
  苫小牧から八戸までフェリーで渡り、八戸から三沢、小川原湖沿いを北へ向かい、野辺地まで上り。そこから、国道4号線を七戸、十和田、五戸、三戸、二戸と南下し、天候が良ければ「あまちゃん」の舞台、久慈へ。最後に八戸まで三陸北海岸を走る。
  自宅から苫小牧港往復の130kmを含め約450kmの走行である。
  今回の旅のテーマは、「会津藩転封の地である斗南の歴史と、南部藩北部地域の歴史をたどる」である。

  朝、目を覚ましたら、強風と横殴りの雨が降っていた。 
  大丈夫だろうか?無理はよそう。天気が悪ければバスか列車で苫小牧港まで行こう。
  幸い午後から青空が広がり、風こそまだおさまっていなかったが、まずまずの天気になり、予定を1時間早め12時に自宅を出た。
  いつもの事だが、旅の始めは気持ちがのらない。
  そんな、気持ちを吹き飛ばすためにお天と様が企んだのだろうか、走りはじめて30分も行かないうちにパンクをした。今年になって二回目である。
  久しぶりのパンクで要領を得ない。空気を入れる時に無理な力を加え、空気入れのフォルダーを破損してしまった。
  しかし、これが幸いし、旅人の気持ちに少しだけなれた。
  途中、千歳空港の近くで、着陸態勢に入る飛行機の写真を撮っている人がいた。ちょっと休もうと、そこで、一回目の休止。


「着陸態勢の飛行機」
 
 2回目の休憩は、ウトナイ湖のバードサンクチャリーの展望ポイントで小休止をした。国道36号線から少し入り込んだウトナイ湖の岸にある。
  何度もここの場所を通過していたが、何時も素通りしていた。今回は、苫小牧港到着予定までに時間があり立ち寄ることにした。国道から1km程林の中を進んだところに、ひっそりと観察小屋が建っていた。
  そこでは、バードサンクチュアリーのメンバーの女性が丁寧に説明をしてくれたこともあり、自然の中に身を置くことができた。心癒される場所であり、お薦めの場所である。


「バードサンクチュアリー ネーチャーセンター」

  フェリー乗り場には5時少し前に到着した。日暮れまでには、もう少し時間があった。
  自転車をたたみ輪行バックに詰め、パンクしたタイヤの修理を行った。
 パンク修理を終えた時、神奈川からバイクで旅行しているという同年輩くらい男性から声をかけられた。
 その人曰く。今まで仕事に追いまくられる人生であったが、40日間ほど暇ができたので、バイクで日本一周をしているという。
 子育てを終え、人生の一区切りができた時こそ、今までにできなかったことに情熱を燃やすのも必要だと意気投合をした。
 フェリー乗り場で苫小牧在住の自転車仲間と夕食をともにし、乗船までの時間を過ごした。

17:17 | 2013年南部の旅1 | comments(2) | -
南部の旅第1段(その2)
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 南部の旅第1段(その2)
2013年10月13日(日)
々堝阿粒詰
  八戸港到着:04:45(苫小牧港からのフェリー)
  八戸港出発:05:45
  八戸漁港(朝市)〜県道19〜国道338〜三沢航空科学館〜三沢先人記念館〜国道338〜国道391〜国道4〜七戸
⊆係妖着:16:20
宿泊場所:七戸中村旅館
ち行距離:94km
ヅ係:晴れ、曇り 、小雨、風強し

「旅の記録」
 昨晩乗船したフェリーでは一等船室を利用した。何時もは自転車をデッキに搬入し、2等寝台を利用するのだが、電話で予約を入れようとしたときに案内の人から、「2等寝台は満員です。自転車をバックに収めれば料金がかかりません。割引も有りますので2等寝台の料金とあまり変わりません」と言うことで1等にした。お陰で快適な船旅で快眠ができた。


「朝焼けをバックに到着したフェリー」


「八戸港」

 八戸港に着いたときはまだ夜明け前で、到着ロビー内で自転車を組み立てた。
 それを興味深げに見ていた夫婦が自転車愛好家らしく自転車談義となった。奥さんの方はトライアスロンもやっていたというが、自転車でこんな旅も楽しいですよと自慢げに話をした。そして、明るくなるのを待ち八戸漁港の広場でやっている朝市の会場へ向かった。



「八戸大橋からポートアイランドを望む」

 そこは、人・人・人で、その入りは半端ではなかった。




「朝市の風景」


「せんべい汁と焼き餅」

 地元でとれたものだろう、特に魚と果物が豊富で安い。見たこともない魚、野菜もあった。朝食は八戸名物の『せんべい汁』と『焼き餅』『味噌焼き豆腐』になった。地元名物の朝食を採れたのは幸せ。
 その朝市の会場の一角で7時から消防の展示が行なわれた。震災後でもあり、住民の関心も高く、ちょっと興味を持ったのでそれも見学した。


「消防の展示」

 ついつい長居をしてしまった。気が付いたら7時半になっていた。
 最初の目的地である三沢航空科学館までは30km弱。1時間半位で到着できるものと思いきや、迎え風の洗礼を受け2時間半近くかかってしまった。着いたのは10時前で1時間の遅刻である。これから向かおうとする北側の空は黒い雲で覆われている。時折横殴りの雨もあった。ちょっと野辺地回りで行く今日の行程に少し不安を持った。
 この館では、昨年十和田湖で発見され、引き上げられた「陸軍一式双発高等練習機」が展示されていた。そして、近年製作された映画「連合艦隊司令官山本五十六 太平洋戦争70年目の真実」で撮影に使われたレプリカの零戦と、直ぐ近くにある小川原湖から回収された零戦のプロペラも展示されていた。ここプロペラはピッチ角を変えることができ、飛躍的に航続距離を伸ばすとともに空中戦性能を向上させた。と説明が記されてあった。その性能の良さに驚かされた。出現当時は最強の戦闘機と米軍パイロットに恐れられていた。つい最近、宮崎駿の映画『風立ちぬ』を見たが、後発で先進国の仲間入りをしたばかりの日本人はとんでもない飛行機を作ったのだなと関心をした。




「陸軍一式双発高等練習機」

「レプリカの零戦」


「屋外展示のF−16」

 この科学館は夢を見させてくれる施設である。体験型のアトラクションもいくつかあり、旅の恥は書き捨てとばかり、子供たちの列に加わりその幾つかにトライをした。結構楽しめた。
 斗南藩先人記念館はそこから10km程先にあり、事前に連絡を入れおいた学芸員の方に対応をしてもらった。この館は、ここ谷地頭という原野に牛、馬を飼い、農場を築いた元会津藩士廣澤安仁と斗南藩の苦難の歴史を後世に伝えるために建てられた歴史博物館で、丁度訪れた時「新島八重と斗南」記念展が行われていた。
 訪れた目的の中に、この地に西洋型の農場を建設する上で、北海道との関わりがなかったのか?もあったが、特に記録は残っていないとのことだった。旧会津藩士は余市に入植したのをはじめ、最初の屯田兵として斗南から入植した人が多数いた。何らかの関わりがあってもいいはずである。


「斗南先人記念館」

 学芸員から斗南藩士のその後の足取りを調査した明治14年、明治43年の人名録があり、その中に北海道在住者の名前が多数あった。これらの調査をすれば何かが明らかになるかもしれない。
 西、北からの風はさらに強くなった。多分、田名部経由のコースで行けば、日が暮れるまでに目的地に到着できないだろう。記念館の方から情報をもらい、小川原湖を反時計回りに回る国道391号線を走るのが無難な様で、コースを変更した。


「小川原湖」


「渡り中の白鳥」


「小川原湖付近の田園」


「八戸付近の田園」

 今日一日、下北半島の付け根部分を走った。農作物の栽培に適さない地との先入観を持っていが、平地には畑が拡がっており、一部の場所では田んぼもあった。そこは、どこにでもある田舎の風景である。不毛の地は過去の話となってしまったのか?意外な風景であった。


「手前はごぼう 奧は山芋」

 今日の宿泊場所七戸の旅館には4時過ぎに到着した。行程の殆どが迎え風でさすがに疲れた。

 

16:50 | 2013年南部の旅1 | comments(0) | -
南部の旅第1段(その3)
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 南部の旅第1段(その3)2013年10月14日(月)
々堝阿粒詰
 出発時間(中村旅館) 07:20
 七戸城跡〜国道4〜十和田新渡戸記念館〜五戸〜三戸〜二戸 
二戸到着時間 17:15
宿泊場所:村田旅館
ち行距離:73km
ヅ係:晴れ

「旅の記録」
 昨晩泊まった中村旅館は創業80年あまりという古い旅館で、近代的な温泉旅館に慣れた向きにはもの足りないものがあるかもしれない。小さな旅館であるが、ちょっとした披露宴ができる宴会場も備えていた。


「中村旅館」

 昨晩泊まったのは我ともう一人の旅行者。帰りに亭主と雑談をしたが、経営は厳しいようである。旅する人の人口が減った。新幹線、高速道路の工事も完了してしまい工事関係者の利用もめっきり減った。人の顔が見えるこんな旅館には生き残って欲しいのだが、いつまで存続できることか。


「昨晩飲んだ酒 駒泉」


「七戸は駒の里」


「道の駅の馬」

 昨日走った下北の畑に見馴れぬ作物がそこかしこに栽培されていたので、それは何かと聞いてみたら。山芋とゴボウであった。ゴボウの生産量は全国一だそうである。『やませ』とよばれる寒冷な気候であっても地中で育つ作物には影響がないのか。
 宿を出て最初に向かった先は七戸城跡。説明書には「安藤氏に備えるため築城された。蠣崎氏に滅ぼされた」と記されていた。安藤氏とは現在の秋田県から青森県、蝦夷地にも勢力を張っていた豪族で南部氏とは敵対関係にあった。
 蠣崎氏は松前藩と関係のある豪族で下北半島のマサカリ部分、陸奥湾に面したところに地名がある。七戸は北の守りの最前線であったのだ。


「七戸城跡」


「七戸城のレプリカ」

 朝の散歩の様な感覚で城跡を見学した。出会う地元の人と挨拶を交わしたが、何かごく自然で、私がよそ者のように見えなかったのだろうか、銀杏拾いに来ていたおばさん達に何やら質問された。「私はよそ者です。ここに来るのは始めてです」と答えたが。そんな、誰とでも会話が出来る風土である。当然これらの会話は南部弁。しかし、津軽弁に比較し読解可能。
 城を見学した後、十和田市街地にある新渡戸記念館は向かった。
 この館にも、北海道と関わりのある資料が有れば教えて欲しいと。事前に連絡を入れていた。結果は特別なものはないということであった。新渡戸家先祖の人気が高いのだろう、館にはひっきりなしなしにお客さんが来館していた。全国から、外国人の姿もあった。
 学芸員からかなり詳しく説明を聞いた。対応する学芸員の弁にも熱が入っていた。
 十和田は新渡戸稲造(札幌農学校2期生、「武士道」の著者、国際連盟事務局次長)の祖父、父、兄がその道を拓いた。新渡戸家の人達が牽引して作ったと言ってもいいだろう。
 祖父の傳が稲生用水をしき、父の十次郎が入植地の設計と開拓を行った。兄の七郎の代に入り、これを発展させた。十和田市は南部藩が治めた他の領地と違い整然と区画されている。北海道の町並と似通ったところがある。
 資料館には興味深い資料が沢山あり、ついつい長居をしてしまった。気がついた時には11時近になっていた。


「新渡戸博物館」


「博物館の入口」


「十和田開拓の祖 新渡戸傳」


「稲生川(用水路)」


「奥入瀬川」


「奥入瀬川から十和田市街を見る 高台となっている」

 五戸、三戸、二戸と、まだまだ見学するところがある。それよりか、まだ、殆ど走っていない。そして、二戸民族資料館には4時前に伺いますからと館長さんにアポをとっている。そんな訳で、以降は時間を気にしつつ走ることとなった。
 五戸では、斗南藩庁が置かれた代官所跡を見学した。ほんの短期間であったが、23万石を有した大藩の政務の中枢が茅葺き屋根の庄屋家屋同然の建物とは。その建物は町の図書館脇にあったが、その説明書には斗南藩の藩庁が置かれたことなど記されていなかった。


「斗南藩庁跡(五戸代官所跡)」

 次に向かったのは三戸である。しかし、もうこの時には残された時間が殆どなく、6年前に行った日本一周の時に城山にも上っており通過するだけになってしまった。
 二戸民族資料館には予定より早く3時半に到着した。館長さんは我が知人の知り合いでもあり、我の到着を待っていてくれた。
 二戸には南部藩の歴史のなかで誇れるもこが二つあるようだ。それらの資料が整理されて残されていた。
 その一つは、秀吉が天下統一を図る上で最後の戦を行った場所であること。
 二戸には九戸南部氏の政実が勢力を張っており、秀吉にくみすることなく、兄である三戸南部氏信直と跡目争いを行っていた。信直は小田原の攻めにも参陣し秀吉から領土の安堵を認められており、対して政実は謀反人の扱いを受けていた。
 そのため、秀吉連合軍6万5千の攻撃を受けることになった。結果は史実の通りであるが、政実が守る強固な九戸城はその攻撃で落ちることなく、策謀により城を明け渡すこととなった。そして、騙し討ちに遭い、政実と7人の武将は斬首されてしまった。
 九戸城は、その後、南部氏正統となった南部信直が盛岡に城をかまえるまでの8年間、福岡城と名を変えた南部氏の中心として位置した。
 もうひとつは、『みちのくの忠臣蔵』と言われ、当時、江戸人を魅了した相馬大作の生まれ育った地であることである。
 俗に南部の人と津軽の人は未だに中が悪いという。
 津軽藩は元々南部氏の一豪族である大浦氏が興したと言われている。南部本藩すれば、肥沃な津軽の領地をかすめ取られた。との思いがある。
 そんな中、津軽藩は蝦夷地警備の功績により録高が増え、南部藩より上列の扱いを受けることになった。時の南部藩主利敬は、ショックを隠せず「南部には一人の大石内蔵助もいないのか」と怒り苦しみながら死んでいったという。
 相馬大作は本名を下斗米秀之進といったが、名を変え浪人となり、主君の仇と津軽藩主を襲撃する。
 相馬大作は捕らえられ斬首されるが、後年、津軽藩主寧親は隠居を言い渡された。
 幕府は元南部藩士と言えども浪人が起こした謀反であり南部藩に対するおとがめはなかった。相馬大作は主君に対する忠義を見事に果たした。この事実は江戸で広く庶民の知るところとなり、歌舞伎の演目、近代は映画等でとらえられるようになった。現在までにその作品は30余りあるという。
 この、二つが二戸の人達の誇れる郷土の歴史である。
 館長さんの説明にも熱が入り、熱弁を聞くこと一時間半におよび、閉館時間はとっくに過ぎてしまっていた。
 今日は南部藩初期の歴史、十和田開拓の歴史の一端を伺い知ることができた。
 宿に入ったのは5時半前。食事に飲む地元の酒は「南部美人」。


「南部美人」


「今日のお宿 村田旅館」

16:25 | 2013年南部の旅1 | comments(0) | -
南部の旅第1段(その4)
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 南部の旅第1段(その4)
2013年10月15日(火)
々堝阿粒詰
 出発時間:07:20
 二戸〜国道4〜三戸〜国道104〜八戸港〜苫小牧港へ
八戸港到着時間 14:30
 苫小牧港へのフェリー乗船 22:00
宿泊場所:船中
ち行距離62km
ヅ係:晴れ〜曇り

「旅の記録」
 今年一番の大型台風が近づいている。当初予定した久慈行きは取り止めた。
 そして、荒天にさらされないためには出来るだけ行動を早めた方が無難だと思い朝食の前に九 戸城跡を見学してきた。城跡には建物こそないが城郭の構造は敷地の中にしっかり残っていた。
 昨日、二戸民族資料館の館長から説明を受けていたので、その堅牢さをつぶさに感じとることができた。馬淵川、白鳥川とその支流の猫淵川で三方を囲まれ、谷は鋭く深い断崖となっている。
 天下統一を控えた秀吉方の軍勢6万5千を九戸政実はたった5千の兵で約1ヶ月間阻止をしたと言うが、この絶壁を見れば頷ける。


「九戸城の図面」


「本丸跡」


「白鳥川の崖」

 城跡公園には小一時間ほどいて小道を散策した。台風が通過する前の静けさというか、空気が澄んでいてすがすがしかった。
 相馬大作の墓がある龍岩寺は宿屋のすぐ裏手にある。二戸一の著名人の墓である。何らかの案内表示があるだろう。簡単に発見できるだろうと思い、暫く墓地内を歩き回ったが発見できず。だからと言って、こんな早くに住職に尋ねるのは何だろうと思い、一旦、宿に戻り朝食を済ませた。


「龍岩寺」

 宿をチェックアウトしたのは07:20。直ちに龍岩寺に戻り住職に墓の場所を聞いた。南部藩の祖、南部信直候の碑のすぐ横に屋根で覆われた墓があり、それが相馬大作の墓であるとのことであった。しかし、墓石は無惨にもその前面が削り取られていた。過去から現在に至る間に、御利益を信じ墓石のかけらを持ち去る者がいたためだという。では、そのかけらはどうなったのか?粗末に扱い、御利益どころか罰のあたった人もいたのでは?


「相馬大作の墓」


「南部藩の祖南部信直候の碑」

 墓碑の前で声をだし説明書きを読んでいたら、その声が届いたのだろうか、後ろの方から住職の声が聞こえ、「熱心に調査をされているので、これを差し上げます」と寺で作成した小冊子を差し出された。
 今日は連休明けのウィークデー。二戸市街地のメイン通りと言っても車が2台通行するのがやっとの北海道であれば路地に毛が生えた様に細い道。しかし、通勤時間帯のこの道は車の流れが止むことがない。ここを自転車で通行するのはかなり勇気がいる。古い街並みを暫く走りたかったが、仕方がなく右折し国道4号線に出た。


 そこから、相馬大作が演武場を開いたという場所に向かった。その場所は国道4号線を挟み、西側山裾にあった。今は少しばかりの畑があり、その奥まった高台に碑と相馬大作の胸像が建っていた。それは眼光鋭く凛々しい顔であった。演武場があった場所からは二戸の街並みが一部見渡せた。相馬大作に従った若者達は日本の行く末を論じあったのだろう。


「相馬大作の像」


「演武場からの二戸城下の眺め」

 その後、昨日走った国道4号線を三戸へとって返した。
 昨日は二戸民俗資料館に16時前に到着しなければと、五戸、三戸は通過する程度しか滞在できなかった。幸いまだ天候は安定している。八戸まで一時間少々で到着できるだろう。そんなわけでゆっくり三戸を見学することに決めた。


「南部氏にとって母なる川 馬淵川」

 城山には6年前の日本一周の時に上っており、キツイ登りの道程も、時間が止まってしまったような街並みも覚えていた。それは、今も変化がなかった。昼前という時間の関係もあるのだろうか、道行く人の多くは高齢者達で、寂れ行く町の姿を感じた。


「三戸の街並み」

 今回も自転車を押して城山に登った。今日は休日明けのため資料館を見学をすることができず、館前の掲示物を見るだけで我慢するしかなかった。
 ここは、南部藩の祖である三戸南部氏が城をかまえた場所で、その後、三戸南部氏は九戸南部氏が滅んだ後、その居城であった二戸へ移り、その8年後に盛岡に城をかまえた。そして、盛岡が廃藩置県まで南部藩の中心であった。
 本丸跡の碑の前で座り込みながら休んでいたら同年配の旅行者に声をかけられた。自転車にバックを積んで走っている人は旅行者の看板を背負っている様なもので、色んな人から声をかけられる。今回もそんなことで、最近は熟年の人が古い日本を訪ね歩く姿をよく見かけると言う話しになった。全くその通りで、歩く人、車で回る人、バイク・自転車の人、皆さん仕事を終え、自分自身と日本を見つめ直す旅に出かける。


「三戸城図面」


「三戸城本丸跡」


 城山を下り、古い街並みの中を走っていたら。「きんかんもち」と書いた看板がある小さな店があった。「ちょっと立ち寄るか」と店に入った。90歳になろうかと思われるおばあちゃんとその息子さんとおぼしき同年配ぐらいの男の人が餅を作っていた。この餅は麦の生地に胡麻、クルミ、黒砂糖を混ぜたものを包みこんで作っているという。1パックを食べるのは無理なので、単品で注文し食べさせてもらった。できたばかりで柔らかく美味かった。


「きんかんもちの店」

 この餅は地域特産で、作る場所によっては少しばかりアレンジをしているそうだ。そう言えば八戸の朝市でも同じ様な餅があった。
 おばあちゃん。元気そうで笑顔が可愛かった。
 八戸へ向け暫くいったところに地元の果物、野菜、特産品等を販売している直販所があり、家の土産にリンゴでも送るかと、そこにも立ち寄った。津軽がリンゴの本場であるが、この付近でも沢山のリンゴを栽培しており、収穫したばかりのリンゴ、なし、葡萄等がところ狭しと並んでいた。
 「味見できる」と聞いたら、「うちで栽培したリンゴならいい」と言うことで、そのリンゴを試食し、「うん。美味しい。これにした」と言って応対した方が生産したリンゴを注文した。今は早生の富士が食べ頃である。


「三戸のりんご」


「近くの風景」
 
 ここまで来ると八戸まではもう少し、八戸の市街地に入ってから昼食をとり根城跡に向かった。しかし、博物館、根城の屋外施設は休みで見学ができず。外観だけの見学となった。

 
「博物館」


「復元した根城の建物」


「レプリカ」

 今日は久慈行を中止し、八戸発22:00の便で北海道へ帰ることにしたので、時間に余裕ができた。心配は雨・風が何時来るかだけで時間を気にせずに行動できた。そんなわけで、色々なところに立ち寄り、何人かの人と話しもでき楽しく行動できた。いつも思うのだが、もう少し余裕のある計画にすればもっと楽しいのにと。しかし、時間がもったいないとついつい多くのメニューを詰め込んでしまう。
 八戸港に到着したのは14:30。少し風が強くなり霧雨が降りだしたが、なんとか雨に当たらずに到着した。フェリーが出港するまで後7時間半。それまでどうするか。
 天気の良くない日の自転車旅行はつらい、好きこのんで雨の中を自転車で走る人はいないだろう。フェリーターミナルから出るには徒歩かタクシーしかない。
 売店の人にこの付近で一番近い温泉は何処ですかと聞き、そこへ時間つぶしを兼ねて行くことにした。実は道に迷ったのだが、行きは1時間、帰りは30分歩くことになった。
 この温泉、源泉かけながしの温泉で料は金380円。「りんごの湯」という銭湯であったが、きれいな風呂で気に入った。
 帰りのフェリーは4人部屋の寝室を一人独占した。
 明日朝の苫小牧の天気は?

 

15:29 | 2013年南部の旅1 | comments(0) | -
南部の旅第1段(その5)
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 南部の旅第1段(その5)
2013年10月16日(水)
々堝阿粒詰
    苫小牧港到着  06:00
    06:46発の高速バスで札幌へ移動
    09:00自宅着
天候  雨

「旅のまとめ」
 やはり苫小牧港は横殴りの強い雨で、走行して自宅に帰るのを断念。札幌行きの高速バスにて札幌へ向かった。
 今回の旅は斗南藩の歴史、南部藩の歴史、新渡戸家による十和田の開拓に焦点をあて旅をした。
 現地を訪ねることにより見えてくるものがある。それは、その土地であり、そこに住む人である。昨年訪ねた津軽の地と南部の地はとでは明らかに違うと感じた。
 過去不毛の地と言われた下北の地は土地改良が進み農作物の生産が可能な土地へと変化しているが、しかし、津軽ほど豊かさを感じることができなかった。○戸、○戸、○戸とよばれる南部氏が統治していた古い町並は、ある時から時間が止まって仕舞ったのではという感じさえもった。
 しかし、そこに住む南部の人は心豊かで、人なつっこいういと言うか、誰でも受け入れる寛容さのある人達であると感じた。これは、南部独特の風土から派出したものだろう。戊辰戦争に敗れ賊軍扱いを受けた会津藩は旧南部藩の領土に転封をされたが、そこに住んでいた下北を始め旧南部藩領地の人達との軋轢はなかったと言う。(一部はあったと思うが)もし、逆であった場合、会津藩の領地に南部藩士が転封された場合同じことが言えるだろうか?
 今回、歴史探究のため斗南先人記念館、新渡戸記念館、二戸民俗資料館の館長、学芸員の方に事前に連絡をいれ対応をお願いした。勉強不足の一旅人に、その地の歴史について熱意をこめて語ってくれた。おかげで、少しはこの地のことを理解できたような気がする。そして、さらなる知識欲が芽生えた。
 来年は、南部の旅第2段を計画したい。

 

15:22 | 2013年南部の旅1 | comments(1) | -