日本一周by自転車

定年退職を機に、「もっと日本のことを知りたい」との思いから日本一周に挑戦。
4,800kmを走ったところで事故にあい負傷。
一度、心に決めた目標は絶対に達成する!!
2年後、「北海道開拓の歴史をたどる旅」をテーマとして再チャレンジ!
2008年10月遂に日本一周を達成。
夢はまだ続く。
新しい目標は、自転車で旅をしながら郷土の歴史を調べる。
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | - | -
2015年三陸の旅パート1
JUGEMテーマ:旅行
「2015年三陸の旅」
 
旅の経路


 
その
 自宅から仙台へ移動
 仙台〜石巻へ 

5月27日(水)
々堝阿粒詰廖
    自宅〜バス〜千歳空港(09:00)〜ANA4802〜(10:10)仙台空港
    仙台空港〜県道10号〜国道45号〜塩釜〜松島〜石巻
⊇佝時刻: 06:20
L榲地到着時刻:17:15
そ蒜顱Д汽鵝Ε侫.鵝Ε凜レッジ
チ行距離:79km
ε係:晴れ

「旅の記録」
  妻に車で送ってもらい自宅近くのバス停へ、そこでバスに乗り千歳空港へ。09:00発仙台空港行きのANA4802便に搭乗し仙台に着いた。
  自転車を飛行機に積み込むのは今回が初めてである。携行工具は危険物と見なされ機内に持ち込めず輪行バックの中に詰められて貨物室へ、潤滑オイルは可燃物であるため、それも叶わず没収されてしまった。
  仙台空港には予定どおり10:10に到着。空港で自転車を組み立て、所要の準備を行い11:10スタートした。


「仙台空港に到着」

  空港の敷地を出て直ぐのところに貞山掘と呼ばれる小川があるが、そこに架かる橋は傷ついたままで、この時はじめて津波の爪跡を見た。


「壊れたままの橋の欄干」

  空港から県道10号線を少し北に向かった名取川右岸に廃校となった閖上小学校があった。そこには人の気配はなく、校門脇に津波の当時の記録が遺されていた。


「閖上小学校の校舎」

 名取川を渡ると若林区の荒浜地区で、2011年3月11日の夕方のニュースで田畑を飲み込む様に津波が押し寄せる光景が映し出された場所である。
  この付近一帯には家屋がなく、県道10号線の東側、海岸よりの農地は荒れたままの状態で工事用の工作機械が作業をしていた。それは、県道10号線の嵩上げ工事をするための様であるが、さほど工事は進んでいない様子であった。


「かさ上げ道路の高さの基準」

  今回の旅は、4年前の津波で甚大な被害を受けた三陸沿岸を敢えて選んだ、そこには少々の葛藤があったが、やはり自分の目で確かめておきたかった。被災された方の心痛を思うと訪ねるべきではないのかもしれないが、メディアでは取りあげない、現実の姿も知っておきたいと思った。しかし、私の立場は旅行者であるので出来るだけ行動は慎重を期したい。
  仙台空港から塩釜までの県道10号線は大型車両が両車線を埋めて走行しており車道を走ることは出来なかった。歩道も震災以来ほとんど整備をされていないのか、砂櫟が散らばっており走りずらい。塩釜には13:35に到着した。仙台空港から30km走るのに2時間半近くのかかっている。



  少し心配になってきた。やはり、この地は物見遊山で来る場所ではないのかもしれない。
  この時、途中で経路変更、旅行自体の断念も考えた。
  塩釜の役場に立ち寄り玄関ロビーまで立ち入ったが、掲示板には復興計画と、その状況が掲示されていた。
  ところで、空港で没収された自転車用オイルを手に入れなければ、ネットで検索したら東塩釜駅の裏手に自転車屋があったので、オイルを購入するため、その自転車店に入った。しかし、店主は外出中で不在。オイルは購入できず。お母さんなのか、「このオイルなら使っていいよ」との好意に甘え少々拝借した。
  松島には14:30に到着した。ここは、観光客で賑わっていた。松島湾はそれほど大きな津波が来なかった様で爪痕は何も残っていなかった。観光地巡りに来たわけではないので松島でゆっくり見学をすることはなく、そのまま、石巻を目指した。
  石巻には16:00頃に到着したが、町の中は津波などなかったかの如く平常であった。しかし、石巻港周辺は今も津波の爪痕が残る。瓦礫の山、流出された船、車が今も残っていた。






「石巻港周辺の状況」

  塩釜も、松島もそうであったが、被災地と雖も街中は津波など無かったかのように活気が戻っていた。そして、住民の高台移転とよく言われるが、海岸近くにも新築された家屋があり、被災のリスクがあってもそこに生活をしなければならない人も多いのだろうと推察した。石巻は漁業の町であり沿岸からはなれて生活をするのが難しいのだろう。
  今日の宿はサン・ファン・ビレッジというところで、災害復興に携わる人達の為にたてられたプレハブの宿泊施設で最大宿泊人員は250人あると言う。駐車している車のナンバーを確認したが北海道からも数台あった。仕事のあるところには人は集まる。南の地区からは京都、三重からの車もあった。
  今日は仙台空港の近くでは自転車で走ることに危険を感じたが、石巻に近づく頃には車の数も減少し、これなら、明日からも走れそうである。

 
09:00 | 2015年三陸の旅 | comments(0) | -
2015年三陸の旅パート2
JUGEMテーマ:旅行
「2015年三陸の旅」
その◆\亟〜岩井崎

5月28日(木)
々堝阿粒詰廖Ю亟〜国道398号〜女川〜雄勝〜北上〜陸前戸倉〜国道45号〜志津川〜本吉〜岩井崎
⊇佝時刻: 06:30
L榲地到着時刻:16:50
そ蒜顱民宿海野屋
チ行距離:112km
ε係:曇り

「旅の記録」
 昨晩泊まったサン・ファン・ビレッジはサン・ァン・バウティスタ・パークと言うところにある。この『サン・ファン・バウティスタ』という名前、伊達政宗の時代に支倉常長なる人物がスペインに使節として派遣されたときに乗った船の名前である。その船は、このパークに復元されて残っている。少し興味があったが、残念かな、時間がなく中までは見学は出来ず。


サン・ファン・バウティスタ」

 サン・ファン・ビレッジは工事関係者の泊まる宿であり、朝6時になったら食堂は人の列を作っていた。私も早々と朝食を済ませ6時半に出発。


サン・ファン・ビレッジ」

 内海の万石浦を右手に見ながら女川へ向けて走った。この万石浦ではホタテの養殖をしているのか、浜にはホタテの貝殻が山とつまれていた。
 やはり女川の漁港は壊滅的な被害を受けていた。また、付近の道路は工事車両が列を作っており、高台では住宅地建設のためバケットローダーが土砂の堀開と整地を行っていた。海岸淵にはプレハブの漁協と要塞のような建造物があった。これが復興のための工事なのか、住宅は高台へ、職場は海岸で津波に耐えうる頑丈な建物に。










「女川の状況」

 女川からさらに山中を走っていた時、車体の側面に「町民バス」と書かれたタクシーが追い越していった。そのタクシーが御前浜と言うところに停車しており、ドライバーはダンプの運転手と何やら雑談をしていた。
 「写真を撮らせて下さい」と言って話に割り込ませてもらった。この町民バス、話を聞いたら、震災の起こる前からバスに乗る人が少なく、車を持たない高齢者の足としてバスの代わりをしていると言う。そして、この付近の家では3、4台の自家用車を持っているのが当たり前で、この「町民バス」の施策は津波とは直接関係がないようである。



「町民バス」

 この付近までは、海岸線を上ったり下ったりの走行。仮設住宅は不便な山中にもある。工事関係の拠点も山中にあった。三陸のリアス式海岸の地では山中にしか仮設住宅を建てる場所がないようである。そこに住む人達の不便を思うと心が痛むが、新たな土地を求めるためには仕方のない事なのだろう。



「宅地造成の状況」


「女川第1小学校と仮設住宅」


「女川の海」

暫く走ったら雄勝という所に到着した。







「雄勝の海と漁港」

 港の周辺にはプレハブ以外、建物は何も無かった。防波堤も崩壊したままであった。あるのは工事関係の機械と車両だけ。山裾の樹木が折れ曲がっている。こんなところまで波が打ち寄せたのか。雄勝とは雄勝石が産出するところで、この石は硯、更にはスレートとして東京駅の駅舎にも使われている。
 また、サン・ファン・バウティスタと言う帆船を建造したのもこの地である。



『支倉六衛門 造船の地碑」

 雄勝から、三叉路を北上し一山を越え北上川へ抜ける積りであるが、道路標識が無く不安になり、近くのバラ園の前で経路を確認した。
 そう言えば、ここまで県道を走ってきて道路標識があまりない様に感じた。多分、津波で流されてしまったのだろうと思うが、宮城県では道路標識を直すまでの余裕がないのだろう。
 なぜ『バラ園』が、こんなところにあるのだろう?と不思議に思っていたら、このバラ園の管理をされている女性が来られ、「どうぞ見て行ってください」と案内された。そして、話を伺った。







「ローズファクトリーガーデン」

 元々、この付近には800軒ほどの家があったが、海を見渡すことが出来ない細長い町で、住んでいる人は津波が来ることなど予想もしていなかったという。そして、避難するにも両脇は山で逃げ場もなく、この地域では200人ほどが犠牲となり、行方不明者が100人ほど出たという。
 雄勝のことはメディアにあまり出てこなかったが、その被害は甚大である。
 この『バラ園』であるが、美しい雄勝を取り戻そうとこの場所に花を植え始めたという。そして、この場所を拠点に被災地の緑化支援、被災者支援等色々な活動を行っているそうだ。それには、支援に来て下さった多くのボランティアの人達や各種団体の協力があってこそ出来ることで、この小さな町にも心温まる人と人との絆があった。
 色とりどりに咲く花の前には沢山の支援者からのメッセーが添えられていた。
 この花を見て、心を癒され、こみ上げてくるものがあった。

 北上川を渡り、その後も津波の爪痕が残る海岸線を走った。付近は北上川の護岸工事で工事関係の大型車が頻繁に行き来していた。





「北上川」

 段々腹も空いてきたが、行けども、行けどもコンビニは無かった。途中で食料は補給できると安易に考えていたが、それは、間違いであった。
 神割岬という所の手前に来たとき、雑貨屋がありパンを購入し食した。店にいた老婦人に話を聞いたが、この地域で亡くなった人は、勤務先で亡くなった2人だけであるという。なぜかと言うと、下に小     
 滝港という漁港があるが、そこに住む人はわずかで、多くの人は高台に住んでいるという。過去の教訓が生かされた例である。
 暫く走って、陸前戸倉駅に到着した。ここは駅舎だけではなく全ての住居も共に流されてしまったところである。
 鉄道線路にはアスファルトが敷かれバスが走っている。リニューアルした駅舎の他、今は何も無かった。古い地図には小学校、農協、ガソリンスタンド、コンビニの表記があるが今は何も残っていない。






 昼を少し回った頃に志津川(南三陸町)に到着をした。ここは、例の鉄骨だけの防災センターのある町である。高台から町を眺めようと志津川高校に通ずる坂道を上った。今は赤土がうず高く積み重ねられているだけの町になっている。


「防災センター」




『志津川高校の入口から見る市街地方向」

 沢山の犠牲者を出したという元老人ホーム。今そこは農協の建物になっているが、その入り口付近で仮店舗を構えている男性から話を聞いた。登米の仮説住宅から通っているという人であった。
 この付近に住宅を建てることが禁止されている。うず高く積まれた赤土の山は国道45号線の土台であると言う。高さが20mは有ろうかと思われるような代物もあった。
 国は津波から町を守るために万里の長城を築こうとしているようである。この土の山はいたるところにあった。



「かさ上げ工事の状況」

 南三陸町役場は高台に移転を完了していた。そこには、復興計画が掲示されていた。大きくは住宅の高台に移転と沿岸部の再開発である。復興課の職員に進捗状況を質問した。20箇所の宅地を造成中であると言う。国が行う国道のかさ上げ、県、町の行う復興事業、役場は活気にあふれ、まさに国づくりをやっている感がある。
 一代プロジェクトの推進といってもいい。「体を壊さないようにして下さい」。と声をかけ役場を出た。



「南三陸町役場」


「復興構想」


「JR気仙沼線は鉄道からバスへ」

 今日の宿は岩井岬にある民宿崎野屋、当然この岬も津波が襲ったはずだが、何故?
 宿主に聞いたが、半島では、この民宿を含み10軒だけが被害を免れたという。奇跡としか言いようがない。

 
08:58 | 2015年三陸の旅 | comments(0) | -
2014年三陸の旅パート3
JUGEMテーマ:旅行
「2015年三陸の旅」
その 気仙沼〜釜石

5月29日(金)
々堝阿粒詰廖Т箘羣蝓禅だ臂臓噌馥撮苅宜罅僧α姐眦帖疎臍ヅ蓮岨偉Φ班諭租眞亜然石
⊇佝時刻 :06:40
L榲地到着時刻:15:45
そ蒜顱Д曠謄 ルートイン
チ行距離:96km
ε係:くもり〜晴れ

「旅の記録」
 岩井岬はこの旅で知った地名である。今回自転車で走らなければ来ることは無かった。そして、民宿崎野原屋に泊まることは無かったし、この民宿がこの半島で唯一無傷で残った建物であることも知ることは無かった。




 朝の散歩で岬の突端まで散策したが、ここは気仙沼湾の入口に位置する景勝の地である。
宿は6時40分チェックアウトし出発した。右手に3階まで水に浸かり、廃墟となった向洋高校の校舎を見ながら気仙沼を目指した。




 気仙沼も大きな災害をうけたが、志津川の様に町の全てはなく、国道沿いは普段の生活を取り戻していた。また、気仙沼漁港には大小の漁船が係留されており、港は本来の活動を行っているようで、付近の気配から活気が感じられた。そして、やはりここでも土地のかさ上げ工事と復興住宅の建設が行われていた。
 






「復興住宅建設の状況」






「気仙沼漁港」

 陸前高田は奇跡の一本松として有名になったところで、唐桑トンネルをくぐり気仙沼から20km程走ったところにある。
  長部漁港を過ぎたあたりで一気に視界が開け、荒涼たる風景が目に入った。前方左手の山から取り出した土砂を運ぶ長大なベルトコンベヤーが町の中心まで伸びている。そのベルトコンベヤーを下から覗くと巨大な橋の様でもある。
  ここも消え去った街並に代って出現した台地をダンプカーが走り回り、建設機械が動き回っていた。まさに陸前高田一帯で巨大なプラント事業が行われているようであった。





「陸前高田の復興工事の状況」



「一本松見学のお客さんのために茶屋ができた」

 「奇跡の一本松」と言われる松は、高田松原の松林の中にあった一本の松で、津波の被害から奇跡的に免れた。地域の人達から復興のシンボルとして残そうと言う声が持ち上がり保存することとなった。
 今日は平日であると言うのに多くの見学者があった。外国から来た人もいた。
 訪れた人に希望と勇気を与える木である。



「奇跡の一本松」

 元『道の駅高田松原』のあった場所はメモリアル広場となっており、震災から復興を伝える施設があった。





「道の駅高田松原はメモリアル広場に」


「一本松の根は資料館に保存している」
 
 陸前高田は志津川同様に町の全てが無くなってしまったところである。被災現場を残すことには異論のあるところだが、両市・町とも遺跡として残し後世に伝える方向であるのか?
 ここから大船渡へは一旦国道を離れ新しく出来たアップルロードを使った。地元の人から平坦な道だと聞いていたが、やはり自転車で走るには快適な道とは言えなかった。細浦を過ぎた辺りから海岸線が見えてきた。そこは大船渡湾の美しい海の景色だった。今まで赤茶けた土の山ばかり見ていた目に安らぎを与えてくれた。
 ところで、被災地では住宅の高台移転を復興事業の柱としているが、この付近を走っていて、過去から高台での生活をする習慣がこの地にはあったと言うことを気付かされた。国道は海岸線からすこし奥まった台地上を走っており、その両側には住宅が立ち並んでいた。しかし、一部の家屋は海岸線にもあった。年数が経つと津波の恐怖を忘れ去り、便利な海岸線に移転していく構図があるようだ。
 また、町全体が消滅したように思える志津川にしても、陸前高田にしても高台には多くの家並みが残っていた。それらは、先人の知恵を守った人達なのだろうか。





「元々高台にある住宅」
  
 国道沿いの大船渡は被災から復活していた。海沿いにも残った建物で仕事を始めている人、新しく建設されたと思われる工場の姿もあった。





「美しい大船渡湾」

 大船渡川の流れに沿って北へ向かう国道沿いは、以外かな、津波の被害が残っていなかった。大船渡湾は細い入り江で、津波は大船渡川を遡上していたのだろうか?



「昼食を食べたラーメン屋・・被災後新築した店舗」


「被災した町は復活していた」

 大船渡を出てしばらく行くと美しい山間の村落の風景が目に入って来た。その一画に新沼という看板が立てかけてあった。新沼謙治の故郷なのか?






「大船渡は新沼謙治の故郷」

 釜石までの道のりはリアス式の半島を一つ一つ越えて行く形で続いている。6箇所のトンネル以外は殆どが上り下りの道路である。
 トンネルを超えると美しい海が目に入ってくる。きつい走行であるが、海が少しばかりの癒しを与えてくれた。しかし、ここを走行していて、三陸と言う土地は、町・集落がこの国道沿いに分散してあり、行き来が難しい土地であると感じた。



「唐丹湾内」



「唐丹駅」




「釜石の入口平田漁港」

 釜石には15:30に到着した。疲労がたまってきたので、途中でビジネスホテルに予約を入れた。
いつも通りであるが、先ずは缶ビールで喉を潤し、シャワーを浴び洗濯をしたら脱力状態となってしまった。
 7時頃になって、飯でも食いに行くかとホテルを出て食い処を探している中で、釜石の事を誰からも聞いていないことが気にかかりスナックバーに入った。
 「多分この時間ならお客さんはいないだろう」。と予想した通り、客は私だけで、私より少々年回りの行ったママさん一人の店だった。そして、北海道からきた風変わりな旅人の話にしばし付き合ってくれた。この地に住み、生活をしている人でなければ知り得ない貴重な話をきけた。
 そして、帰りにコンビニにより軽食を買ってホテルに戻った。
 泊まったビジネスホテルは釜石市役所の近くにあり、その他にも数軒のホテルがあった。その全てに工事関係者が宿泊をしていて、ほぼ満室状態であった。周辺には繁華街も出来つつあり、立ち寄ったスナックもその中の一軒であった。そして、近くには大手のスーパーが進出してきており週末は駐車場が一杯になるほどに盛況であると聞いた。
 今は復興事業で多くの資金が落ちているが、心配なのは復興事業が終わった後この町はどのようになっているかである。

 
08:42 | 2015年三陸の旅 | comments(0) | -
2015年三陸の旅パート4
JUGEMテーマ:旅行
「2015年三陸の旅」
 そのぁ釜石〜宮古

5月30日(土)
々堝阿粒詰廖С石〜国道45号〜大槌〜陸中山田〜宮古
⊇佝時刻 :08:05
L榲地到着時刻:14:10
そ蒜顱У楔泥札鵐肇薀襯曠謄觀О
チ行距離:75km
ε係:曇り、晴れ

「旅の記録」
 釜石の町は何処へ向かおうとしているのか?
 北海道には室蘭という鉄の町がある。最盛期には16万人の人口を有する活気ある町であったが、今は見る影もない。人口も10万人以下になってしまった。それでも、室蘭はJR室蘭本線の経路上にあり、高速道路でつながり、近傍には登別・洞爺の観光地を控えているのでまだ少しはましかもしれないが、津波の被害を受けた釜石は更に厳しい現状に有るように感じた。製鉄業の今後は見通しが暗い、早期の漁業の復活は可能なのか?
 橋野高炉が世界遺産に登録される気配もあり、東京オリンピックでは、ラクビー競技の会場を釜石にしようとする構想もあるようだが、お客さんを迎え入れ、来られたお客さんに釜石は素晴らしいところだ、また来ようというような町を作り上げなければと思う。



「製鉄所」






「釜石の街並み」
 08:05ホテルを出発。製鉄所、市役所に立ち寄り釜石を後にした。大槌までは13kmで、一時間ほどで到着した。今日は土曜日で役場は休み。現在の役場は元大槌小学校があった建物に入っている。警察署、消防署はその校庭にプレハブをたて待機をしている。役場の横にお寺があり、裏山の急斜面がお墓になっていた。ちょっとお邪魔をして山の頂まで登った。そこには、小さな祠があり、大槌の町と湾を一望できた。
  町は大槌湾に注ぐ大槌川とその支流に挟まれるようにして作られていた。そこは、津波の力が集まる場所でもあったのだろうと想像される。目前には何も残っていなかった。あるのは工事車両の走り回る姿と建設機械の槌音だけである。



「大槌町役場、前のテントは消防車の待機所」


「役場後方の高台から被災を受けた地域を臨む」

 次の目的地は山田町。大槌を出て直ぐにトンネルがあり、それを過ぎると船越湾が眼下に臨める。この頃になると曇り空になり、海岸線を走るときは長袖を着ていてもひんやりとする。「やませ」と言って、この地方独特の気候で、海風の影響を受け夏でも寒く感じる時があるという。因みに、今日の札幌は気温27度。
 山田町は見た目からは大きな被害を受けたように感じられなかった。倒壊した建物は沢山あったと思うが、残った建物を改築して使用しているためかと思う。それに比例して工事をしている建設機械の数も少なかった。また、週末の為か大型車の通行はそれほど多くは無かった。
 山田湾内には沢山のいかだが設置してあった。カキの養殖をしているのだろうか?三陸の海はその殆どが入江を持っており豊かな恵みを受けている。





「山田湾内の風景」

 山田町から宮古までは内陸部を走る。200mの山越えがあるが、この付近まで来ると車の往来はあまりなく快適に下りを走れた。宮古湾にさしかかったところで、コンビニ弁当を買い海岸線に出て昼食を取った。本来であれば浜に出て食べられるのだろうけれど、残念かな、海までの間には護岸工事の現場が広がっていた。それでも海を見ながら食事ができた。
 しばらく走ると右手の海岸沿いに洒落た建物があった。それは、以前テレビの番組で見たものに似ていた。一旦は通り過ぎたのだけれど、その建物から眺める海が美しいそうなので、引き返した。その店は「異人館」という店で、店の前で自転車を立て掛けていたらオーナー氏が出てきて自転車置き場に案内してくれた。何やら親切な対応。
 店に入って直ぐにその理由がわかった。玄関を入った正面に2台の自転車がよく手入れをされた状態で置いてあった。そして、自転車の話となった。
 そろそろ、今晩の宿泊場所を確保しなければと、幾つかの宿に電話をいれたが、全てが満員。工事関係者に週末の行楽客が加わったからなのだろう。宮古駅横にある観光案内所で空き部屋を探してもらった。
 ホテルにチェクインをした後、磨耗が激しい後輪タイヤの交換のため市内のサイクルショップに行き、その足で浄土ヶ浜へ向かった。しかし、雲行きが怪しく、浄土ケ浜の突端まで行くのをあきらめ、宮古海戦の記念碑だけを見学しホテルにもどった。
 宮古は函館戦争時、新政府軍と榎本武揚軍の艦船が海戦を行った場所である。



「宮古海戦記念碑」




「土方歳三と東郷平八郎」



 
08:01 | 2015年三陸の旅 | comments(0) | -
2015年三陸の旅 パート5
JUGEMテーマ:旅行
「2015年三陸の旅」
 そのァゝ楔邸禅彁

5月31日(日)
々堝阿粒詰廖У楔邸噌馥撮苅宜罅租掴掘租通酥〜普代〜陸中野田〜県道268号〜久慈海女センター〜久慈
⊇佝時刻      :07:00
L榲地到着時刻:16:00
そ蒜顱中村屋旅館
チ行距離:102km
ε係:曇り時々晴れ

「旅の記録」
  宮古の町は見た目には殆どの津波の被害は残っていなかった。それは、多分瓦礫を除去し元の町に素早く復旧させたからであろうと思う。
  しかし、土曜日だったからかも知れないが、町の中心街に活気は感じられなかった。晩飯を食べようとすれば弁当屋かコンビニに行かざるを得ず。見る限りにおいて飲食店は開いていなかった。ビジネスホテルには工事関係者を中心にかなりの宿泊者がいるはずであるが、皆さん晩御飯はコンビニ弁当なのか?





「宮古の市街地」


「宮古市役所」


「宮古の遠景」


  宮古から国道45号線は一旦内陸部を走る。最初に出てくる海岸は田老地区である。小さな漁港町であるが、被害の跡はかなり残っていた。
  そこから内陸部に再度入り、少し走ったところに「たろう道の駅」があった。なぜ、山間のこんな所に、特産品は有るのだろうか?そんなことを考えながら一息を入れるために立ち寄った。
  まだ、早朝の早い時間であり、売店はオープンしていなかったので、特産品を確認することができず。
  次に休憩を入れたのは「熊の鼻展望台」というところである。前もって知っていた場所ではないが、国道から少し分け入ったところに展望の良さそうな所があったので休憩場所に選んだ。



「途中 海岸線の風景」

  展望台に着いたら、「大阪から歩いて日本一周」と表示してあるリックサックが椅子に立てかけてあり、暫くしたらその持ち主が現れた。半時計回りで大阪から日本一周を続けているという。どれくらいかけて日本一周をするのかと聞いたら、3年ぐらいかかるかも知れないと言っていた。よく耐えられるなと感心した。しばし旅人同士の会話を楽しみ、記念撮影となった。







「日本一周の旅人と」

  札幌到着時に再会、そして、互いの無事を祈り別れた。
  それから、暫く行った所に田野畑というところがある。この旅で初めて牛舎を目にした。その後しばらくして「道の駅たのはた」に到着した。この道の駅は、田野畑牛乳をメインに色々な物産が置かれ、併設してレストランがあった。地元産の牛乳で作ったアイスクリームとヨーグルトを食したが、どちらも美味しかった。お勧めの場所である。
  ここまで来ると久慈まではもう少し、普代を過ぎるとまた海岸線に入った。国道45号線と並行するように三陸鉄道北リアス線が走っている。途中、海岸を見渡せる堀内駅で休憩を取った。今回の旅で穏やかな漁港の風景を味わうのは初めてである。ここに来るまでは工事現場の赤茶けた土砂の積もる海岸線ばかり見てきた。







「堀内駅で」

  駅のホームに腰を掛け、缶コーヒーを飲みながら海を眺めた。最高の贅沢である。この駅は朝ドラの「あまちゃん」の舞台となった場所でのようで、トンネルから出た途端に瓦礫が線路に打ち上げられた情景を映し出した場所に似ていた。
  久慈へは国道45号線で直接入らず、途中山越えをして海女センターのある小袖海岸に立ち寄った。テレビで見馴れた堤防とウニ採取の現場が目前にあったが、そこには新しい海女センターが建っていた。



「あまちゃんの舞台となった場所」




「津波から唯一被害を免れた漁船」

「右手が新しい海女センター」


「じぇじぇじぇ発祥の地碑」

  今の海女センターはあまちゃんの番組が終わってから建てられた鉄筋コンクリート3階建の立派なものである。観光ガイドの青年に話を聞いたが、矢張ここも大きな津波の被害を受けたと言う。以前建っていた海女センターは土台を残して流され、付近の建物も全て無くなってしまった。被害はそれだけではなく、漁港に係留されていたすべての漁船は損壊してしまったと言う。ただ、一隻だけが沖に出ていたため助かった。それは、あの紫の旗のなびく船である。
  「あまちゃん」は震災の後に収録されたドラマで、津波からの復興を願う作品でもある。
  小袖海岸は形の良い岩礁が続いていて美しい。





「小袖海岸」

 久慈の市街地入口の「すわ緑地」に津波の慰霊碑があり、お参りと見学をした後久慈駅を目指した。




「慰霊碑と その銘板」
 
 久慈でも駅舎内の観光案内所で紹介してもらった旅館に泊まった。宿泊者は我一人。駅前にある旅館であるが、その駅前は寂れてしまい、津波の影響を受ける前からシャッター街となってしまっているようである。

 
06:38 | 2015年三陸の旅 | comments(0) | -
2015年 三陸の旅 パート6
JUGEMテーマ:旅行
「2015年三陸の旅」
 そのΑ久慈〜八戸

6月1日(月)
々堝阿粒詰廖У彁〜国道45号〜種市〜蕪島〜八戸
              八戸発(22:00)〜フェリー〜(翌06:00)苫小牧着〜札幌
⊇佝時刻      :09:50
L榲地到着時刻:18:25(八戸フェリーターミナル)
ち行距離:88km
ヅ係:晴れ

「行動の記録」
  いつもの通り、夜明けを待つかのように目を覚ました。そして、窓を開いたら空は快晴。それなら、と、スマホで三陸鉄道北リアス線の時刻表を検索した。
  久慈発05:13の便で普代まで行き、普代発06:02久慈行きの便に乗れば朝食時間の7時半までに帰ってくることができる。ようし行こうと決心した。そうと決まれば行動は早い。洗顔をした後、とりあえず必要なものを持って駅へ向かった。
 


「三陸鉄道 久慈駅」

「JR久慈駅」

  電車が来るまでの間、駅前を散策した。当然、いたる処に「あまちゃん」の看板が掲げられてある。しかし、それとは別に、錆び付いたシャッター、破れ、朽ちかけた日さしが目についた。
  これが、遠来のお客さんを出迎える駅前なの?









「久慈駅周辺」

  久慈の町の作りは駅を中心に据え、東側に市役所などの公共機関、西側に商店街、飲食店を置いている。そこに、進出してきたのが郊外型の大型店である。それらは大きな駐車場を備え公共施設のある駅の東側に展開した。その結果、駅前はシャッター街になってしまった。北海道にもいたる処にある現象である。折角「あまちゃん」で観光客が来るようになった久慈なのに何とか出来ないものなのだろうかと悲しく思った。
  宮古行きの始発は2両編成で普代へ。そこで、1両を切り離し、久慈まで折り返して運転するらしい。






  宮古行きの電車に乗客は我一人。当然と言えば当然のことで、こんなに早く起きて、ただ電車に乗る物好きはいない。我としては、昨日、自転車で走った時に見た安家川橋梁 、堀内駅から景色を車窓から眺めてみたいと思ったものだから乗車した。もう来ることは無いかもしれないし、自己満足の思い出作りのためである。
  車窓から見る海の景色は、朝陽が海面に反射しキラキラ輝いている。日の出の時間帯にこの景色をみれば感慨無量であるとおもうが、それは、晩秋と初春の頃だろうか?



「安家川橋梁からの眺め」


  「堀内駅からの眺め」

 普代駅に到着して、この電車が折り返す目的がわかった。久慈高校へ通学している子供たちを運ぶ通学電車であった。陸中野田、陸中宇部へと走る中で、高校生の乗客で満員となった。
  宿に戻ったのは7時少し前。朝食時、宿の女将さんと親しく話す機会があった。津波の事、久慈の事、この近所のこと、北海道の事を話題に話をした。このような会話は古びた旅館であるからできることで、昨日チェックインして部屋に入った時は、部屋の窓を開けたらそこは隣の家の壁、夜中は酔い客の話声が耳につき、ひどい宿に泊まってしまったと思ったが、この会話ができたことで帳消しとなった。津波による久慈の被害は、駅の東側にある港と、久慈川沿いが大きかった他、国家備蓄の石油基地が被害を受けたということであった。
  今日の天気予報は快晴。日焼けが気になり町中のコンビニで日焼け止めオイルを買った。
  今日のコースは今までと違い長い上り坂は少ない。天候も味方をして快調に走れた。12時すこし前に種市の海岸に着いた。
  ここには、城壁を思わせる巨大な防波堤があり、それを潜ると左手には漁港、正面はキャンプ場を兼ねた海水浴場となっていた。今まで通ってきた海岸とは明らかに違った静かな海が正面にあった。






「城壁を想像させる様な防波堤」






「種市海岸」



「種市漁港」

  パンをかじりながら海を見ていたら、清掃のおばさんがやってきた。津波の事を聞いたら、防波堤を越えることは無かったが、内側の施設と漁港は被害を受けたという。ここまで北上してやっと防波堤の力が発揮された。もし、津波がこの防波堤を乗越えていたら・・、今ここにある町並は無くなっているのだ。雄勝、志津川、陸前高田、大槌・・・全てを無くしてしまった町の様に。
  種市の小さな街並をみて、津波が防波堤を乗越えなくて本当によかったなと思った。
  この防波堤は平成6年に建設されたもので、高さ4、5mあった。



「途中にあった小さな港」

  暫く進むと種差海岸に出た。ここにも海浜公園がある。よく手入れをされた芝生の先に大小の岩礁が並ぶ、景観はまるで絵画のようだ。老若男女が思い思いに海の景色を楽しんでいた。


「種差海岸の風景」

そして、八戸に着く前に立寄ったのは蕪島。ウミネコの繁殖地で、島全体が神社の境内のようになっており、そこには、繁殖を終えたばかりのウミネコの大群がいた。人間を恐れず、雛も手を取って眺められるほど近くにいた。









「蕪島とウミネコ」

  温泉に浸かり、日が落ちる前の18:30頃にフェリー乗り場に到着した。
  今回の旅は、2011年3月11日の津波で被害をうけた三陸の地を、自分の足で訪ね、自分の目で直に確かめてみたいと思い行った。
  被災地では4年間経過した今でも殆んど手つかずのところもあり、被害状況は想像を超えたものであった。
 それは、人が写した写真の画像や映像では判断をすることが出来ない。現場をおとづれ自分の目で見てやっとその概要をつかめるが、それでも不足し、そこに住んでみて始めてその被害の大きさを知ることができるのではと思う。
  元の美しい町に戻れるのは何時のことなのだろうか、5年後なのか、いやそれ以上、10年もかかるのか。口で言うのは簡単なことであるが、そこに住む人のことを考えると、今までに4年の年月が経過し、更に5年、10年である。気の遠くなるような話である。「頑張って下さい」。と声をかけるのも辛く感じる。
  最近、北海道において被災地のニュースが話題になるのは、震災が起きた3月11日と、その前後くらいで、段々話題から遠のいているのが現実である。
  私にできることは何もないが、今回の旅で見聞きした三陸の姿をしっかり脳裏に留めておこうと思う。そして、何か機会があれば周りの人に被災地の皆さんの置かれた厳しい現実を伝えて行こうと思う。
  普段の三陸の海は波静かで美しい。そこには豊かな漁場が広がっている。今も仮設住宅で暮らしている人が沢山おられるが、早くこの美しい故郷の地に戻れることを祈りたい。

 
05:59 | 2015年三陸の旅 | comments(1) | -