日本一周by自転車

定年退職を機に、「もっと日本のことを知りたい」との思いから日本一周に挑戦。
4,800kmを走ったところで事故にあい負傷。
一度、心に決めた目標は絶対に達成する!!
2年後、「北海道開拓の歴史をたどる旅」をテーマとして再チャレンジ!
2008年10月遂に日本一周を達成。
夢はまだ続く。
新しい目標は、自転車で旅をしながら郷土の歴史を調べる。
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2013年7月17日(水)
JUGEMテーマ:旅行
=2013年下北の旅=
 その  孱祁遑隠憩(水)輪行で札幌〜大間へ移動」

 々堝阿粒詰
  札幌駅10:37発=スーパー北斗10号=13:52函館駅着
  函館港16:30発=津軽海峡フェリー 大函丸=18:00大間港着
 ⊇蒜饐貊蝓民宿「海峡荘」
 E係:晴れ・曇り

 昨年は津軽(弘前)潘と蝦夷地をテーマとして弘前〜津軽半島を旅した。今回は同じ青森県にあってもその歴史と風土が全然違う下北の地を、津軽の旅同様に蝦夷地と関わり、斗南藩(旧会津藩)の踏跡を訪ねながら半島のマサカリ部分を走ることとした。
 この地区は、サイクリングコースとしての厳しさから、先の日本一周の旅で割愛したルートであるが、反面、特に西海岸沿いの海峡コースは山あり、谷にあり、海ありの絶景を楽しめるコースでいつかは走らねばと思っていた。

 ここ数日は天気予報とにらめっこの日々が続いた。梅雨前線は東北地方に停滞している。それが、上に行くのか下に行くのか、あるいは消えて無くなるのか?決行はお天気次第である。
 昨日来の津軽海峡沿いの天気予報は回復基調にある。「ようし行こう」。と最終決心は出発前日に行った。
 札幌駅10:37発の特急スーパー北斗10号に乗車。輪行バックは客車の最後尾座席と車体後尾壁間のスペースに入ることが可能と分かっており、最後尾車両の最後尾席に乗車した。




「津軽海峡フェリー」

 13:52函館駅着。そこで、車体を組み立て函館港まで走り、函館港16:30発の津軽海峡フェリーに乗船。18:00大間港着した。
 宿泊した民宿「海峡荘」は、本州最北端大間崎の碑の直前にあった。


「大間港」


「本州最北端の地」


「マグロの碑」

09:11 | 2013年下北の旅 | comments(0) | -
2013年7月18日(木)
JUGEMテーマ:旅行
 =2013年 下北の旅=
 その  孱祁遑隠呼(木)大間〜むつへ」

  々堝阿粒詰
   出発時刻:08:00
   経  路 (本州最北端の地)〜易国間〜下風呂〜大畑〜恐山〜むつ
  ⊇蒜饐貊蝓屬爐薜耄拘曄
  A行距離:78km
  づ係:曇り・霧雨

 昨晩泊まった大間崎にある民宿「海峡荘」の夕飯は凄かった。大間だからマグロ料理は出るとは思っていたが、テーブルにのっかる料理の山には面食った。
 宿泊者の多くは原発工事関係者なのだろう。福島の原発事故の関係で作業員の数が減ったと言うが、まだ、1,000人ほどの人達が日々の建設工事に当たっているという。
 この原発特需のため民宿は大盛況で、この民宿も新たに別館を建て増して対応している。豪勢な料理が振る舞われるのも、原発特需のおかげで、客の入りが多いからなのだろう。


「民宿海峡荘」


「大間漁港」


「弁天島」

 朝、宿を出て、まず向かったのは『会津斗南潘資料館』である。実は昨日、フェリーを下船し民宿までゆく途中、郵便局の向へ側でこの資料館の看板を発見した。事前情報は一切なし。何故、こんなところに会津藩関係の資料館があるのだろうか?大間にも会津藩士がきていたのだろうか?
 昨夕、そんな看板を発見したことから、是非確かめてみたと、まず其処に足を運んだ。
 まだ時間は08:30で開館していない。連接する住宅のチャイムを鳴らした。出てきた初老の人は、この資料館の館長であり併設する商店の店主であった。そして、この地に配置となった元会津藩士を祖先に持つ4世の方であった。
 訪問の目的を話し見学をお願いした。最初はまだ店が開いていないからと断られたが、北海道からきて自転車で会津藩の踏跡を訪ね歩いている。是非見学をしたいと頼み込み開けてもらった。
 この方の曾祖父が斗南潘庁から「史生」と言って、斗南潘の資料整理・保管を命せられたという。源浩(斗南藩権大参事 山川浩)からその役目に任ぜられた証書が展示してあった。
 この記念館にはお宝が幾つもあった。その中で特に貴重なものとして松平容保が嫡男で斗南藩を引き継いだ容太に宛てた直筆の書状があった。
 昨夕、たまたま自転車で通りがかり、「会津斗南藩資料館」という看板を見つけたから、見学をすることが出来た訳で、さらには、大間に赴任した会津藩士を先祖にもつ子孫の方から直接大間の話しを聞けたことは大変貴重であった。


「会津斗南藩資料館」
 
 当初の計画では、初日に大間から佐井〜仏ケ浦〜脇野沢へ向かう海峡ルートを走る予定であったが、発達した低気圧が近づいており山岳地帯を走るのは危険と判断し、東回りのルートに変更した。
 大間の街を抜け、国道279号線に入ってすぐ右手に塔が見えてきた。丁度良いところに高層建築物がある。高いところから大間を眺めようと思い入館した。北通
「き総合文化センター「ウイング」という施設で、中には図書館、プールもある立派な施設であった。大間関連の歴史をつづる展示ブースもあったのでカメラの画像におさめた。残念かな霧がかかっており遠望は利かなかった。


「北通総合文化センタ(ウイング)

 大間から10kmほど行と易国間というところがある。ここに大石神社という社があり、そこに、安政4年の蝦夷地を描いた絵馬があると言うので訪ねようと思っていた。これに間違いないと思って上った神社の名前は違っていた。近くに商工会議所があり、入口の看板に観光課のネームが記されていたので中に入った。そして、そこに一人いた事務の女性に目的を話したら、大石神社は今し方上がった神社で間違いない。そして、神主は居ないが、向かいの鉄工所の主人が神社の総代をやっているので、そこで、聞いて下さいとの話しであった。
 鉄工所では年配の方が作業中であったが、手を休め対応してくれた。なかなか親切な方で、総代表が詳しいと言うことで電話で呼び出してくれ、車で神社まで案内してくれた。そして、展示してある絵馬に関して説明を受けた。

「松前を画いた絵馬」


「易国間の漁港」

 神社見学の後、鉄工所に戻り3人で雑談となった。その中で、下北半島北側地区の特色、易国間と蝦夷地との関わりなど興味ある話しを聞くことができた。
 下北半島の津軽海峡に面している大間、易国間、下風呂、大畑は漁業という面で深い関わりがあることを知った。逆にむつ湾側に位置する佐井、脇野沢、田名部、野辺地等は良好な湊を有し蝦夷地との交易で栄えた。
 ところで、会津潘士は易国間にもいたのかと聞いたら、「下北にあっては学校の先生の9割は元会津潘士で(信眉性については?)、村長の多くも会津藩士であったという。下北にあって教養のある人は全て会津の人だった」。そんなことを話された。
 大間の『会津斗南資料館』の資料の中に、明治14年現在における青森県に所在する旧会津藩士の名簿があったが、かなりの人数の会津藩出身者が残っていた。それらの多くは、地方役人であり、学校の先生であったようだ。
 
 易国間を出たのは12時少し前で、まだほとんど走っていない。これからの行動が少し心配で走行を急いだ。しばらく走ると下風呂に到着した。
 ここは、蝦夷地から湯あみの人が多く訪れた地で、地名も、そのものズバリの「下風呂」となっている。そんな湯あみ客の一人に新島襄がいる。説明書きにはアメリカへ密航する2か月前に訪れたと記されていた。


「新島襄 寄港記念碑」


「下風呂の漁港」
 
 次に着いたのが大畑という所である。この地は、現在のむつ(田名部)から下北半島の北端である大間に向かう場合に、最初に海峡に面する場所で、防衛上も重要な地で南部藩はロシアの南下により情勢が緊迫し出した時期、ここに陣屋を築き300余人の人員を配置していた。 
 この地でさらに興味深い歴史史話は、1789年(寛政1年)、根室半島から根室湾岸、国後島一帯でクナシリ・メナシのアイヌ蜂起という事件(71人の和人が殺害された)があったが、その際、殺害された和人のうち40人が下北出身者、さらに、大畑出身者が27人を占めたと言うのである。アイヌは手当たり次第に和人を殺害したわけではなく、過酷な仕打ちを行った特定の和人をねらった様である。
 では、大畑出身者がなぜねらわれたか?
 クナシリ・メナシのアイヌ蜂起の時、場所請負人をやっていたのは飛騨屋久兵衛と言う人物であるが、その飛騨屋は以前から大畑に檜の伐採、積み出しのため進出しており、大畑に支店を設けていた。そんなことから、大畑出身者が飛騨屋の手代として国後、根室周辺の漁場へ多数進出していた。大畑出身者が多数殺害されたのは飛騨屋と大畑漁民との関係。理由はその辺にあるのではないだろうか?


「大畑漁港のイカ釣り漁船」

 自転車の走行は大畑から恐山へ向かった。
 このコースの厳しさは半端ではなかった。途中の薬研温泉入口まではそれ程でもなかったが、そこからの上りは、当に山越えると言った感じで、右に左にと急勾配の上り坂が延々と続く、菩提寺のある宇曽利湖湖岸はカルデラ湖で、一旦坂を上り詰めた後には、急勾配の下り坂が待ち受けていた。ブレーキをかける両腕の握力が無くなるほどの坂であった。
 飛騨屋久兵衛の話しに戻すが、飛騨屋は今日走ったこの付近から檜を伐採していたのだろうか?檜の一大産地と言われる下北半島にあっても、今生えている木の殆どは杉である。今日はじめて檜を見たのは薬研温泉近くまで上った時である。


「急な上り坂」

 飛騨屋が大畑に支店を構え時から現在に至るまでの間に檜を乱伐しつくしていたのであればもったいない話しである。翌日、円通寺にうかがった時、檜が建築材として使えるようになるまでに300年の年月がかかると言っていた。なぜ、跡地に檜の苗木の植林をしなかったのだろう。


「檜の林」

 苦労をしたが恐山まで走行して良かった。
 そこは死者の霊が集まる場所と言われているが、荒漠とした菩提寺の境内は当にそんな雰囲気を醸し出していた。火山礫が一面に散在し、其所かしこから火山ガスが噴出する様はまさに地獄の様相で、宇曽利湖の白砂の浜は極楽浄土のようである。一度は訪ねるべき場所であると思った。祖先の霊に向かい会えそうな気がした。


「菩提寺」




「無間地獄」


「極楽浜」

 宇曽利湖はカルデラ湖。むつ市街へ下って行くには、また一山を越えなければならなかった。
 そして、下りきったところで今日の宿屋を探し、一番近くの手頃な宿に向かった。

08:51 | 2013年下北の旅 | comments(0) | -
2013年7月19日(金)
JUGEMテーマ:旅行
=2013年 下北の旅=
 その  孱祁遑隠稿(金)むつ〜脇野沢へ」

 々堝阿粒詰
  出  発:08:30
  経  路:むつ市内にある会津潘ゆかりの地を散策〜大湊〜川内〜脇野沢
 ⊇蒜饐貊蝓В截函嶇凸鄲堯
 A行距離:63km
 づ掘 仝:くもり

 現在のむつ市の中心は、過去田名部と呼ばれ、現在もその地名は残っている。この地は、戊辰戦争に敗れ賊軍の扱いを受けた会津潘が転封された所である。ちなみに会津藩が新たにもらった領地は、二戸、三戸と、今回自転車の旅で回った下北半島のマサカリ部分である。 
 会津藩が下北の地に転封処分を受けたのは、会津戦争から1年半経過した明治3年の春で、その翌年には廃藩置県が行われ潘そのものがなくなってしまった。


「むつの全景 後方釜臥山」

 今日の予定は、むつ市内の会津藩ゆかりの地を巡り、その後、陸奥湾沿いを脇野沢まで走ること。

 宿を出て、まず向かったのは斗南潘庁(この時、会津藩は斗南潘と呼ばれていた)の置かれていた円通寺。そして、隣にある徳玄寺。


「円通寺」


「円通寺にある招魂碑」


「徳玄寺」

 この二寺と、昨晩泊まった宿とは目の鼻の先で、簡単に行けるものと思い地図を眺めつつ、寺が建立されていると思われる方向へ向けペタルを漕いだ。
 たぶん此の林の中に寺があるのだろうと、その林内に分け入ろうとした時、前方から歩いてくる女性がいた。
 「円通寺はこの先の林内ですか」。と聞いたら、「違います。あちらの方角です」。と全然違う方向を指さした。「私もその方向へ行きまので途中まで案内します」。とのことでついて行った。
 むつは、旧田名部川の流れにあわせて拡がった町で、国道そのものが直線的に走っているわけではなく、その国道もバイパス道路がある。そんなことで、一歩国道を外れると、視界の悪い日には方角が分からない。(釜臥山が望める時はある程度の方向は分かるが)土地勘のないよそ者には、特定の場所を発見するのは難しい。
 そんな経緯もあり、二寺以外に見学を予定する場所は、安全を期すため市役所の観光課で聞くことにした。その市役所の場所。地図上に記されている場所にはなく、そこには文化会館の建物があった。
 また、道行く人に聞いた。
 新しい市役所はバイパス道路(国道338号線)の沿線で、市街地から離れた場所に建っていた。そして、観光課の職員から懇切丁寧に説明を受け場所を特定することが出来た。


「むつ市役所庁舎」

 会津藩ゆかりの場所を探すのに3人の人に道を尋ねた。皆さん親切に対応してくれた。
 私もスマホは持っている。そのスマホには地図ナビソフトも入っている。別に人に尋ねなくてもそのソフトを使えば目的地にたどり着けるはずである。しかし、それでは、あまりにも味気ない気がする。旅する楽しみは、其の土地、其の土地に住む人を知ることである。
 今回も、親切な下北の人達に旅の楽しみを味あわせてもらった。

 市役所を出で、まず最初に行った場所は斗南丘と言うところである。そこは、市街地を出て田名部川を渡り、しばらく東に進んだところで、当時その場所は、藩士達の住宅が建ち並んでいたと言う。その跡地に「秩父宮両殿下御成記念碑」が建っていた。
 これは、昭和11年に秩父宮殿下夫妻が巡遊されたのを記念して建てられたものであるが。松平容太(松平容保の嫡男で旧斗南藩主)の令姪、勢津子妃が天皇家に嫁いだことから、これで、賊軍のそしりをぬぐい去ることが出来たと涙ながらに喜んだという。


「秩父宮両殿下御成記念碑」


「斗南藩士住居跡地」

 「秩父宮両殿下御成記念碑」からさらに東に進んだところに会津藩士の墓がある。数こそ少ないが、会津藩士子孫代々の墓が建っていた。子孫の方が守っているのであろうか、古い墓石に混じり新しく建てられた墓も数基あった。


「斗南藩士の墓」

 次に向かったのは呑香稲荷神社。会津藩出身者で唯一陸軍大将まで上り詰めた柴五郎の住居があったという場所で、むつ運動公園東端の林内にひっそりと社殿が建っていた。
 立て札の説明書きの中に「ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」という柴五郎の父佐多蔵の言葉が目に焼き付いた。


「呑香稲荷神社」

「柴五郎住居跡地」

 最後に向かったのは、むつ港にある会津藩士上陸地である。海のない盆地にすむ会津の人達にとってこの航海は大変な苦労であったと思うが、波静かな陸奥湾に入り、釜臥山が眼前に迫った時、何を思ったであろうか?この景色、猪苗代湖畔からのぞむ磐梯山の姿に少し似ている。

「斗南藩士上陸の地」

 これら会津藩ゆかりの場所の見学を終え、昼食をとったのは12半過ぎ、もし時間があれば立ち寄ろうと思っていた『北洋館』に連絡を入れた。これは、海上自衛隊大湊基地にある記念館で、旧海軍士官達の社交場であった水交社の建物を利用して資料館にしている。
 電話を入れたら何時でもOKと言うことで見学させてもらうこととした。
 大湊と北海道との関わりは、明治23年、室蘭に海軍第5鎮守府を設置する計画であったが、明治26年に大湊に変更設置する方向で検討に入った。結果は実行に移されることはなく、明治35年に水雷隊の設置をもって旧海軍基地へと動き出した。現在は海上自衛隊大湊地方総監部ある。
 この『北洋館』には旧海軍の資料がしっかり残されており、見ごたえのあるものであった。
 入館無料であり興味のある方にはおすすめの場所である。


「北洋館」

 むつと脇野沢の中間地点川内に着いた時、祭りばやしの音が聞こえ、町役場の庁舎前広場に浴衣姿の女の子、ハッピ姿の男の子達の輪があった。そして、太鼓の伴奏に合わせ、浴衣姿の女の子が輪を作って踊り出した。近くで応援する父兄に聞いたら高校生達が文化祭の一環として行っているとのことだった。今日、日中から夕方にかけて色々と催しが計画されているようだ。その様なアナウンスが車のスピーカら流れた。


「川内での高校生のまつり」

「川内の浜」

 脇野沢まであと20km弱。川内から更に10kmほど進んだ時、蛎崎という地名の場所に到着した。海と山に囲まれた小さな漁村であるが、松前藩のルーツはこの蛎崎出身の豪族であると言われている。そんな蠣崎氏が勢力を張っていたころの城跡があった。




「西通道」

 脇野沢YHに到着したのは5時少し前であった。


08:26 | 2013年下北の旅 | comments(0) | -
2013年7月20日
JUGEMテーマ:旅行

 =2013年 下北の旅=
 そのぁ 孱祁遑横案(土)脇野沢〜大間 そして帰宅」

 々堝阿粒詰
  出  発:04:30YH「脇野沢」
  経  路:国道328号線(海峡ロード)〜牛滝〜仏が浦〜福浦〜佐井〜大間
        14:10大畑港発=津軽海峡フェリー 大函丸=15:40函館港着
        19:41函館発=スーパー北斗21号=22:56札幌着
 天候:くもり〜晴れ
 A行距離:80km



 旅の初日(17日)、天候が悪く、コースを時計周りに変更したのは正解であった。
 今日の天気は、スタートした早朝こそ雲の多い天気であったが、徐々に雲も晴れ、最大の景勝地『仏ケ浦』に到着した時には素晴らしい青空に変わっていた。それ以降も青空が続き、下北半島の美しい海岸線を堪能させてもらった。
 しかし、今日のコースは中々の難コースで、脇野沢から佐井まで約60kmの道程のほとんどが上りか下りであった。

 何時ものことだが、今日も朝早く目が覚めた。これからの行動のことを考えると、頭が冴えてしまいもうこれ以上眠れなくなってしまった。ならば、早く出てしまえと、明るくなったら04:30にYHを出た。YHのペアレント夫婦には「朝食はいらない。朝早くこっそりと出て行きます」。と言っていたので問題はない。
 脇野沢YHのご主人は多才な人で、その一つの趣味が自転車。玄関脇には3台もの自転車が壁に掛けてあった。そして、自然観察と写真。食堂・廊下等のスペースにはサルの写真が掲示されていた。奥さんも気さくな方で、なにか、ゆったりとした気分になることができた。ロケーションも良いしオススメのYHである。


「脇野沢の街並み」

「牛ノ首岬と鯛島」

 今日の行動に戻すが、スタートして暫くしたら道の駅『わきのさわ』があり、そこまでは、ほぼ平坦か少しの上りである。
 そこから本格的な登りのコースが始まる。勾配も約8°位あり、場所によっては10°のところもある。



行けども、行けども登りの連続である。ピークに近い『流汗台ゆとりの駐車場』まで来るのに脇野沢から17km程走った。そこから、稜線上を走ることとなるが、まだ暫く、上り下りが続く。ピークは524mある。







 下りは一気に行きたいところであるが、カーブがきつく、斜度もかなりあり、安全を期してスピードを押さえながら走った。
 一旦、牛滝漁港の手前まで下り、再度、「仏ケ浦」の駐車場まで上がる。この上がりはそれほどでもなくすぐに到着した。
 到着した時間は07:15で、脇野沢を出発してから2時間45分、走行距離は38kmであった。
 この駐車場から『仏ヶ浦』の海岸縁まで遊歩道がついており、往復30分程度の時間が有れば海岸線に降りることができる。


「野平付近の牧場風景」

 朝食を兼ねたパンをかじりながら準備をしていたら、一台のワゴン車が止まった。北海道から戻ってきた千葉の2人ずれで、何となく一緒に下ることとなった。話しによると北海道の旭川でバイクのレースがあり、仲間が選手として参加したそうで。その仲間は飛行機で帰ってしまい、われわれ2人は、バイクを運びながら北海道を旅行を楽しみ、その帰途の途中であるということだった。そんな、会話をしながら降りていった。そしたら、仏ヶ浦の海岸線に出た。そして「あっ」。と声をあげた。




「仏ケ浦」

 どこかで見たような岩。2年前に行ったトルコのカッパドキアを思い出した。それが、透き通るように美しい海の上に起立しているのである。そこにいるのは、駐車場で合流した二人ずれと我輩の3人だけ、この素晴らしい景色を独占した。
 駐車場に人が集まるからなのか、ここ付近には野生の猿の群れがいる。
 「下北半島は野生のサルが生息する北限の地である」。と昨晩泊まった脇野沢YHの主人が言っていたのを思いだした。



 本州以南の人には野生のサルはさほど珍しく無いのかも知れないが、熊と鹿、キタキツネの住む北海道からやって来た者にとって、サルを目の前で見るのは感動もので、暫くサルと睨めっこをしていた。 
 『仏ヶ浦の展望台』を下ったところに福浦漁港がある。ここで、今日初めて自動販売機を見つけ、ペットボトルのお茶を補充した。


「展望台からの仏ケ浦」

 仏ヶ浦、福浦、牛滝、この付近は水上勉の「飢餓海峡」の舞台となったところである。この小説の背景は、昭和22年9月20日に起こった台風による連絡船(洞爺丸)の沈没と、同日起こった岩内の大火(岩内の3/2が焼失したという)で、これらを巧みに組み合わせたサスペンス小説である。
 主人公である殺人犯が、函館の海から手こぎの船で、仏ヶ浦付近の海岸に闇夜を利用してたどり着くのである。今し方走った場所、見学した場所はまさにその現場である。小説の情景が思い出された。
 この『飢餓海峡』。物語の現場となった場所の多くが、過去、我輩が住み、訪れた地で、その情景描写が非常にリアルで、引き込まれるように読み干したのを記憶している。

 福浦漁港に着いたとき、停泊中の漁船に大漁旗と日章旗が掲げられていた。また、子供達がバトントワラーの格好をして通り過ぎて行った。近くの小中学校の生徒達で「こんにちは」と声をかけたら「こんにちは」と大きな返事が返ってきた。バトントワラー、船の大漁旗と何か関係があるのだろうか?


「福浦漁港」
 
 福浦からもう一山越えた後も、上り下りの海岸線が続く。長後、磯谷、矢越と小さな漁港を通過し佐井に到着した。
 ここは、北前航路の湊で、本州最北の地にあった湊である。丁度、明日の7月21日に復元した北前船が接岸し21日〜22日にかけて色々なイベントを行う様に計画されていた。
 佐井に来るまでに通過した各漁港には、停泊する漁船それぞれに大漁旗と日章旗が掲げられていた。


「佐井の港」

 北前船の来航に併せたイベント準備を行っていた一人の若者に「何故?」と聞いたら、今日は「海の日」だからと言うことであった。
 昨日通過した川内では、地元の高校生が文化祭を兼ねた村祭のイベントを行っていた。富浦では小中学校の子供達がバトントワラーの出で立ちをしていた。「海の日」を含むこの週末は海人達にとっては大切な日なのだ。


「佐井の津軽海峡文化館(アルサス)に展示している蝦夷錦」

 もうすぐ、ゴールの大間である。その直前に大きなクレーンが遠望できた。大間原子力発電所の工事現場である。建屋なのだろうか巨大な建造物が出来つつある。


「大間原発の工事現場」

 我輩の考えは文化的で快適な生活を望むのであれば、少しのリスクは当然である。できればそのリスクを可能な限り0に近づけて欲しいのであるが。
 下北半島のマサカリ部分、この中で近代的な建造物があるのは、むつ市街地と大湊の海上自衛隊基地だけである。この原子力発電所、是非は別として、今まで自転車で走ってきた中、目前に現れた風景の中で異彩を放っていたことだけは確かである。
 多くの人の快適な生活のために、一部の人がその負担を背負っていることを忘れてはならない。

 11:40分に大間温泉に到着した。
 途中、フェリーに乗る前に温泉に浸かりサッパリようと考え、休憩もそこそこに、予定より早い時間に到着した。
 14:10大畑港発のフェリー、19:41函館発のJRに乗り、旅を振り返りながら帰途についた。


「函館港と函館山」

05:22 | 2013年下北の旅 | comments(0) | -