日本一周by自転車

定年退職を機に、「もっと日本のことを知りたい」との思いから日本一周に挑戦。
4,800kmを走ったところで事故にあい負傷。
一度、心に決めた目標は絶対に達成する!!
2年後、「北海道開拓の歴史をたどる旅」をテーマとして再チャレンジ!
2008年10月遂に日本一周を達成。
夢はまだ続く。
新しい目標は、自転車で旅をしながら郷土の歴史を調べる。
世界史観を変えたトルコの旅 完(この旅を通じて。)
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「韓国の勢いを感じた」

コリアン航空の機窓からソウルの街並みが見えてきた。新しい住宅とおぼしきビルの整然とした配列、黄海に注ぐ大河漢江が目に入る。しばらく進むと巨大な飛行場が見えてきた。まだまだ発展途上のようで、区画されただけの空き地、さらに、手付かずの更地がまだまだ存在する。首都ソウルの近く、漢江が運ぶ土砂が堆積した小島をならして作り上げたのが仁川国際空港で、周囲に障害となるものは無いようだ。

今回、千歳から仁川空港で乗り換えイスタンブールに向ったが、羽田から成田で乗り換えイスタンブールに向かう場合と比較すれば、一日旅行日数が節約になる。地方に住む者にとっては仁川経由のほうがはるかに有利である。

仁川国際空港はすばらしい。

仁川国際線ターミナル内は有名ブランド店が軒を並べている。その階上にはリラクゼーション施設が整備され、待ち時間をゆったりと過ごせるようになっている。同じレベルの設備は他のハブ空港にもあると思うが、それよりも感心したのは、そこで仕事をするスタッフの若者である。(若者と記したのは年配者を見かけなかった。)彼らに言葉をかける時、一切英語を使う必要が無かった。免税店の店員、レストラン、売店、・・すべてで日本語が通じる。

ある店員に聞いた。「あなたは何ケ国の言葉を話せるのですか?」「母国語と英語、それと中国語です。」「日本語は?」「少しだけ」、しかし、私との会話は十分に通じている。

他の人にも聞いた。同じ様な返事であった。この空港にいる若者の殆どは4カ国語を話せるのだ。

日本の国際線ターミナルにいる人達はどうだろうか?中国語、韓国語を話せるのだろうか?当然英語は話せる?

ある人から千歳国際線ターミナルの案内のために外国人を雇ったと聞いたが。本当なのだろうか?

トルコからの帰りも当然仁川空港経由である。液体類(酒、香水、その他)はトルコで買っても仁川の税関で没収されると聞いた。トルコ国に御世話になったからトルコで買い物をしたいのに韓国で買わなければ行けない。ハブ空港とはそんな利点がある。

仁川空港を経由し日本に入る外国人は、日本で免税品を買わないで韓国で買って帰ることになる。

 チョット横道にそれたが、羽田よ、成田よ、仁川に負けない国際空港になってほしい。そして、そこで働く人の国際感覚と語学力を高めてほしい。


「仁川空港」






「コリアン航空」


「スリッパのサービスは気に入った。歯ブラシ付き」


「機内食はイマイチ。でも飲み物のお代わりはOK」


 

コリアン航空の客室乗務員の立ち振る舞い、日本語の機内アナウンスの内容はJAL、ANAのそれそのもの。日本のノウハウを受け継いだのだろう。

未だに水色と白のユニホームが目の中にしみこんでいる。

 

「隣国の言葉、歴史と文化を知らない」

イスタンブールから帰りの便は、中央の座席3席の内、右側の2席を希望した。

左側に韓国の女性が座った。目で会釈をしただけで、なんて声をかけて良いのか分からない。日本人と同じような顔をしているから英語を話す気にはならない。約8時間のフライト間、一言の会話もせずに終わった。

 もし、英語圏の人だったら、目の青い人だったら片言の英語で何か声をかけていたのでは無いだろうか?

 中国とは戦略的互恵関係、韓国は大切な隣人。なのに韓国の歴史、文化を何も知らない。ハングル語で挨拶も交わせない。アジアの大国に住む日本人としてチョットあらためなければならないかも知れない。

 

「ぜひ旅を」

今ツアーの平均年齢は65以上か? 若い人は新婚旅行のカップル1組だけ。トルコという土地柄もあるとは思うが、若い人が余りにも少ない。景気が悪く、旅行する余裕のない日本になってしまったのかも知れないが?

しかし、1ドル360円の時代、約半年間の給料を使いカナダ旅行をしたことがあるが、その時の体験は今に生きている。

若い人達にはぜひ旅をしてほしい。

余計な御世話かも知れないが、自信に溢れる韓国の若者の姿を見て特にそう思った。たまには自分のテリトリーから脱し、違った風土、自分以外の人種と接するのも楽しい。

 平均年齢65歳以上?のトルコ旅行。そのメンバーはすべで道産子。最初はぎこちなかった会話も、日一日と内解け仲間意識が生まれる。

 最近個人情報がうるさくて、それぞれの素性は知るよしも無いが、皆さん人生を楽しく生きようとする人種のようで楽しい人ばかりであった。

旅で御世話になった添乗員、トルコ人のガイドを含め、そんな旅の仲間との別れがやってきた。ちょっと寂しい気もするが、これが旅の良さで次への活力につながる。


「旅の仲間(男性)」


「旅の仲間(女性)」



「旅には出会いがあり、別れがあるから楽しい」

17:45 | トルコ旅行 | comments(2) | -
世界史感を変えたトルコの旅(その3)
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「中学校、高校の世界史の授業で習わなかったトルコの歴史」

この旅を通じ、中学校から高校時代に習った世界史の授業に、一時期世界の中心として君臨したトルコの歴史をあまり習わなかったと思った。

何故なのか?

間違っているかもしれないが、そんな時に思ったのは、明治維新から富国強兵に邁進する当時(明治)の国情である。

開国は欧米の列国(イギリス、フランス、アメリカ、ドイツ、ロシア)のもってする力の外交により行われ、明治維新〜近代国家建設へと進んだが、その時代のトルコはどうであったろうか? 中国清王朝末期のことを「眠れる獅子」と言われたのと同様、トルコも近代化から取り残された衰退一途の国であった様である。

日本が師と仰ぐのは欧米列国の新しい政治、産業、文化であり、世界の中心はヨーロッパであると認識させられた。それが明治〜大正〜昭和につながる欧米中心の世界史感になったのではないだろうかと考えた。そんな世界史の中でイスラム圏のこと、トルコのことを詳しくふれる必要はあまりなかったのではないか。

今回の旅で、トルコ人ガイドから聞いたトルコを中心としたヨーロッパ歴史管は非常に新鮮であり、アジアの西端、ヨーロッパの東端の国から見ると世界はこのように映るのだということが分かった。

 

「英雄ケマル・アタチュルクが作ったトルコという国」

イスラム圏でありながらEUの一員であり、NATOの加盟国であるトルコ。近未来にユーロ圏の仲間入りをし、将来の発展が予想される国トルコ。

この素地を作ったのは、有能な独裁者ケマル・アタチュルクである。

トルコの国民にとっては英雄で、100年近く経た現在にあってもその評価は変わっていない様である。

第1次世界大戦に枢軸国の一員としてドイツとともに戦ったオスマントルコは滅亡した。その後のヨーロッパ列国による分割・植民地化の危機から祖国を守ったのがケマル・アタチュルクで、国民の力を結集し1923年10月29日にトルコ共和国を成立させた。

トルコリラ紙幣のすべてには彼の肖像画が描かれている。イスタンブール空港には彼の名前が使われており、あまり調べていないので詳細は分からないが、色々なところでアタチュルクの名が使われているようだ。

イスラム教から脱し、政・教分離を推し進め、特に凄いと感じたことはアラビア文字を廃止しローマ字をトルコの文字としたこと。信教の自由を認め、婦人参政権を自由の国フランスよりも早く認めたことなどで、それらが、イスラム教徒の国でありながらイスラム色の薄いヨーロッパ的な感覚のある国として発展しているのだろうと思う。

トルコのGDPは17番目であるという。国土は日本の2倍、人口は半分の国。日本のように緑豊な野山はないが、一面の大地には麦畑が、エーゲ海沿いはオリーブ、野菜畑が広がり、また、今回の旅行では見ることは無かった黒海沿岸には森林が広がるという豊かな国。


「あらゆる処で国旗が掲げられている」


「広大な大地に麦畑が広がる」


「大地に点在する集落」


「人口の数ほど羊がいる」


「農家の子供」


「こんな家もある」


「トロイで見たトマトの運搬風景」


「果物は豊富、これはスイカ」


「ヨーグルトのジュース(アイラン)」


「ざくろのジュースも美味しい」


「パムッカレ周辺の農村の風景」




「カッパドキアで見た建築現場」


「カッパドキアの住宅跡」


「イスタンブールの市電(トラム)」

これは便利な乗り物

「下町の賑わい(コンヤ)」


「イスタンブール ガラタ塔からの眺め」


「イスタンブールの裏町」


「アンカラ駅にあった鳥よけの針」



「アタチュルク空港にあった自動販売機」

自動販売機ははじめて見た

「トプカプ宮殿にいた野良犬」

トルコは野良犬が多い

「トルコのカラス」

黒白のまだら模様


  旅行に出る前は英語が通じない国だと思っていたが、イスタンブールではかなり通じる。
 観光地では物売りの姿が多く、内陸ではまだ貧しい人々の姿が目につくものの、活気あるイスタンブールの姿を見た時に将来の発展を予期した。

 

05:42 | トルコ旅行 | comments(0) | -
世界史観を変えたトルコの旅(その2)
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「過去トルコは歴史の舞台に立った」

トルコはボスポラル海峡、ダータネルス海峡を挟みヨーロッパ側とアジア側に別れる。ヨーロッパ側に位置するのはイスタンブールで、アジア側の半島部分をアナトリアと言いトルコの国土の大部分を占める。首都であるアンカラはアナトリアの中心に位置する。

イスタンブールは1100万人の人口を有し、トルコの人口の1/6〜1/7を占める経済の中心である。

 

そんなトルコが歴史の表舞台に現れたのは、紀元前2000年頃で、ヒッタイト古王国の時代である。黒海を渡ってきた北方系民族で鉄器を初めて使用した民族として知られ、ワインを作ったのもヒッタイト人である。

このヒッタイト王国は、紀元前1400年頃にはこの地を治める帝国として存在し、一時期、エジプトのラムセス2世の軍隊を撃退するほど強大な力を有していた。

目をエーゲ海に転じると、トロイ戦争の舞台となった地は、紀元前2500年〜2000頃から交易の中心地として栄えていた。

その後のアナトリアを支配し又は覇権を及ぼしたのは、ペルシャであり、ギリシャであり、東ローマ帝国である。

トルコ民族の祖先は中央アジアの遊牧民であり、トルコ(アナトリア)に進出してきたのは11世紀に入ってからで、その時勢力を伸ばしたセルジューク・トルコは、イスタンブールを拠点とするビザンチン帝国と対峙した。キリスト教徒国家が聖地エルサレムを目指し十字軍を派遣したのは丁度この時代である。

セルジューク・トルコもその末期(13Cの半ば)、モンゴル軍の侵入を受け衰退した。後を継いだのはオスマン・トルコで、1453年コンスタンチノーブルを占領し、ビザンチン帝国を滅亡させた。17C末の全盛期にはエジプト、北アフリカ、シリア、イラク、バルカン半島をその勢力下に治める大帝国を築いた。

 トルコ(アナトリア)は、時の覇権国家に何度も支配される歴史を繰り返した。多くの歴史遺産が残るのはこんな歴史があるためである。

 

「東洋と西洋交易の最大のルートとして存在したシルクロード」

トルコ人の現地ガイドから聞いたことの受け売りであるが。

イスタンブール〜西安間6000km。中国からは絹を、トルコからは金、銀、羊毛等を輸出した。隊商宿はそんな隊商たちが身を休める旅の中継点として約30km間隔で設置された。

トルコは隊商に通行手形を発行し、手形を保持するものに対し領地内での安全を確保した。そして、隊商宿には宿泊所としての設備以外に、医師、警護の兵隊も配置していたという。

今回訪ねたコンヤ近くの隊商宿「スルタニハニ」は、そんな説明を十分に根拠付けできる城砦を思わせる立派な施設であった。






「隊商の宿スルタニハニ」

 

 

この、スルタニハニ付近の風景は延々と続く大平原、まさにシルクロードの感じそのものであった。



「車窓の風景」

トルコ人の現地ガイドからこんな質問があった「シルクロードに大きな影響を与えた人は誰ですか?日本にも関係のある人です」と。皆んなマルコポーロだと思ったが、答えは「バスコ・ダガマ」でした。
 ポルトガル人のバスコ・ダガマにより、アフリカ南端の喜望峰まわりでアジアまで延びる海上ルートが発見されたことによりシルクロードの価値が低下し、大航海時代の到来とともに繁栄の中心がヨーロッパへと移って行った。

今まで、シルクロードといえば、喜多郎のシンセサイザーの曲をバックに砂に埋もれた仏塔と砂漠の中を進むラクダの歩み、そんなNHK特別番組の情景が彼の地のイメージを作り上げた。

今回の旅行で隊商宿を見学し、シルクロードとはアジアとヨーロッパを結ぶ交易上の大動脈として存在し、自ら勝手にイメージした「月の砂漠」のようなものではなく、色々な人が集まる賑わいのあるものであったと思った。

何時か時間が取れるようになった時に、詳しく調べてみたい動機に駆られた。

05:37 | トルコ旅行 | comments(0) | -
世界史観を変えたトルコの旅(その1)
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10月6日〜14日、某旅行会社企画のツアーでトルコ旅行に行った。

どうしてもトルコでなければと言うものではなかったが、夫婦で協議した結果、旅行条件の良いトルコになった。

ツアーはごく一般的なコースで、日本から仁川経由でイスタンブールに入り、トロイ〜エフェソス〜パムッカレ〜コンヤ〜カッパドキヤ〜アンカラ及び周辺をバスで観光。アンカラ〜イスタンブールまで寝台列車で移動しイスタンブール一を観光するという9日間の旅。

 

今までトルコのことはあまり知らなかった。現地ガイドの人が歴史に詳しい日本にも留学したことのあるトルコの人で、その人の話しと案内から、トルコという国の一端を知ることができた。良い勉強をさせてもらった。

 

トルコはヨーロッパとアジアをつなぐ場所に位置しており、紀元前数千年前から大航海時代以降その中心がヨーロッパに移るまでは世界の中心的な存在であった。特にオスマントルコ全盛の頃は世界を制覇した。

今回観光したトロイはギリシャ時代、エフェソスはギリシャからローマ時代、パムッカレはローマ時代、コンヤはセルジューク・トルコ時代に栄えた地である。イスタンブールは東ローマ帝国、オスマン・トルコの首都で、コンスタンチノーブル、ビザンチン、イスタンブールとその名を変え、長い間ヨーロッパの中心都市であった。

世界地図を見てもらうと分かるが、4大文明発祥地(エジプト、イラク、インド、中国)から、ギリシャ、ローマ等のヨーロッパ各地へ文明を伝える中継地として位置している。また、シルクロードはトルコを経由しヨーロッパ、アジアへと延びていた。

トルコは色々な文明の影響を受け、イスラム独自の文化を作り上げ、それを近隣諸国に伝えた。トルコは現在イスラム圏の国であるものの、過去はイスラム教徒とキリスト教徒がともに生活した国で、世界遺産、それに匹敵する史跡がいたる処に存在する歴史遺産の宝庫である。

 

「トロイの遺跡」

トロイはBC3000年からAC400年までの間、繁栄と衰退を繰り返した。同じ場所に第1市時代〜第9市時代までの史跡が折り重なって存在している。

トロイの木馬として有名なトロイ戦争があったのは第6市の時代、BC1200年頃である。

 







ホメロスの叙事詩「イーリアス」の記述を信じたドイツ人のシュリーマンが発見したトロイの遺跡。それは、石垣だけが残るだけ。考古学の知識のない私にはチョット物足りない。

 

「エフェソスの遺跡」

エフェソスはローマの五大都市の一つとして栄え、20万人あまりの人々が住むエーゲ海沿いの中心都市であった。因みに、ポンペイの遺跡と同時代。

 

 



 

 


なぜ、この遺跡が世界遺産にならないのだろうか?

見学に行った時、ちょうどクルーズ船のお客さんが大挙して来ており、ガイドブックにあるほどの賑わいがあった。

 



「パレッカム」

曇天のためガイドブックにある白い雪山のような石灰石と、透き通るようなブルーの石灰棚を見ることが出来なかった。

温泉が枯渇気味で出湯制限をしているため、湯の溜まっている石灰棚は一部だけ。






 

 

アンテーク温泉は地震により崩壊した宮殿跡から温泉が湧き出たもの。ロシアからのツアー客が大挙して入浴をしていた。

 





パレッカムのリゾートホテルで入った温泉にはがっかり、やはり温泉は日本が一番。

 

「コンヤ」

セルジューク・トルコ時代の首都で、セーマー(旋回舞踊)を行うイスラム神秘主義の一派メヴレヴィー教団発祥の地として有名である。

 





 

 

人口は130万人を数える大都会であるが、スカーフを被る女性も多くイスラムの伝統を色濃く残す地でもある。

 

 

「カッパドキヤ」

火山の地であるカッパドキアは1000万年前から200万年前の間に、ハサン山とエルジエス山2つの火山の噴火が繰り替えされ、溶岩の上に火山灰が、さらにその上に溶岩が、そしてその上にまた火山灰が積もり、それらが長い年月の間に玄武岩、凝灰岩に変化した。そして風化に奇妙な岩の景観をつくりあげたものである。








 

カッパドキアの洞窟は、キリスト教を認めなかったローマ帝国の時代(BC3C頃)と後にイスラム教徒が支配した時代に迫害を逃れたギリシャ系のキリスト教徒がこの地に隠れ信仰を守り続けた。


 

 

1万人もの人を収容出来たという地下都市があったという。今回見学したのは3000人を収容出来たというカイマルクの地下都市。

 

 

「イスタンブール」

人口1100万人を有する大都会である。何処に行っても人・人・人で、躍動感溢れる中にも、所々に歴史遺産存在する。

(アヤソフィア)

 

 


 

 

 

 
(ブルーモスク)






(トプカプ宮殿)




 トルコの土産というと、絨毯、トルコ石、皮製品、陶器。

企画旅行定番の買い物ツアーでは、催眠商法まがいの販売攻勢に堪えなければならない。





16:02 | トルコ旅行 | comments(0) | -