日本一周by自転車

定年退職を機に、「もっと日本のことを知りたい」との思いから日本一周に挑戦。
4,800kmを走ったところで事故にあい負傷。
一度、心に決めた目標は絶対に達成する!!
2年後、「北海道開拓の歴史をたどる旅」をテーマとして再チャレンジ!
2008年10月遂に日本一周を達成。
夢はまだ続く。
新しい目標は、自転車で旅をしながら郷土の歴史を調べる。
2008年7月14日の記録
旅の記録 2008年7月14日(月)

発信地:江差(7月15日15:00)
旅行日数:6日目
天候:雨〜くもり
健康状態:良好
本日の走行:福島〜松前、松前周遊
到着時刻:12:25
宿泊地:松前城公園
走行距離:22km
明日の走行予定:松前周遊

昨日、テントを張る前に14日の天気予報を確認しなかった。夕食を終え一段落をつけ、ネットで確認したら一日強雨のマーク。無理をしても松前まで走ればよかったと思ったが後の祭り。案の定、朝、眼を醒ましたら強い雨音。今日一日、福島町にいなければならないのか?雨を押して走るか思案をしつつうつらうつらする。

8時半頃になって、雨脚が弱くなり、ネットを確かめたら後半は曇りマークに変わっている。
よおし、これなら走ろうと急いで準備をする。
そんな時、トイレの横に車が止まっており、何やら準備をしている。朝のあいさつを交わしたら、パートで公園の清掃をしている人だった。トイレットぺーパーがなくてごめんね。備え付ければ20分もしない間になくなってしまうので置かなくなった。また、小さな子供はあいさつもしっかりするしマナーもいいが、高学年になると段々悪くなる。大人のマナーが悪いとか。まったく同感で愚痴をこぼしあった。

昨日、今朝もそうだが福島町で会った人達は皆さん親切でいい人ばかり。

公園を出たのは10:25。福島町は千代の富士の出身地で、のぼりがいたるところ立っている。

福島〜吉岡海底駅の名前で有名になった吉岡を過ぎ北海道最南端の地、白神岬に到着したのは11:05。
記念撮影をしている時に大粒の雨が降り出した。急いで覆道に退避した。横なぐりの雨はやむ気配がなく、45分程雨宿りをした。このままじっとしている分けには行かない。幸い強風は岬の突端だけのようで、追い風である。追い越す車のしぶきさえ我慢すれば走れそうである。意を決して走ることとする。

「白神岬」

写真を撮影した時にザァーと来た

「覆道で雨宿り」


かなり濡れたが、それほど危険でもなかった。松前に12:25に到着し、まず、昼食を兼ねた日記の整理の為そば屋に入る。メニューはニシンそば。店の主人は、親切な方で、雨に濡れ、疲れた身にはうれしかった。
店には1時間半程いた。
当然、店の前で記念撮影をお願いする。

「そば屋の前で」


函館の大円寺の住職から聞いていた光善寺へ、テントを張る場所の提供をお願いするつもりで行ったが、松前の歴史談義になってしまい1時間半程話し込んでしまった。光善寺は墓ばかりでテントを張るところがなかった。
このお寺の中庭はすばらしいですね。と、聞いたら、松前にあるお寺はみんな立派な中庭を持っているよと言っていた。理由は、江戸から遠く離れ幕府の目が届かなかったのでこのような中庭を持つことができたらしい。
当然、観光に来た人の殆どは、桜と城を見るがお寺には来ない。
松前には400年の歴史があることをあまり知らない。

「光善寺」


テントを張ったのは松前城公園。役場の人に聞いたら、あまりテントを張っている人は見かけないが、トイレもあるしいいのではとの弁。
すぐ下が温泉で、ぞの周りには食堂、コンビニ、お墓の横で泊るよりはいいか。

「目立たないところにテントを張った」

15:04 | 日本一周パート2(北海道その1) | comments(0) | -
2008年7月13日(日)の記録
旅の記録 2008年7月13日(日)

発信地:福島森林公園
旅行日数:5日目
天候:くもり〜晴れ
健康状態:良好
本日の走行:立待岬〜七重〜木古内〜福島
到着時刻:16:05
宿泊地:福島森林公園テント
走行距離:87km
明日の走行予定:福島〜吉岡〜白神岬〜松前周遊
     
メガネがない。
06:05出発準備を終え、出発前のことを記すためメガネを取り出そうとしたら、有るべきはずのフロントバックの中にメガネがない。
間違えてしまい込んだかなと前後のキャリアバックのファスナーを開いて確認したが、発見できない。今度は、すべてのバックをキャリアーから下し内容品を引き出して点検したが、それでもない。トイレを含め自分が行動した心当たりの場所を点検してもない。
どうしてもなければ、安いメガネでも買うかと、半ばあきらめつつ、最後の捜索をやった時にやっと見つかった。30分ほど経っていた。
あった場所は、テントを張ったわきの柵の外、写真を撮ろうと身を乗り出した時に落としたみたいだ。
一人旅に出るとこんなことばかり。
出発前からどっと疲れた。

予定1時間遅れの07:25出発することになってしまった。
出発しようとした時、数日前から立待岬に泊っていて、昨朝、テント泊の事について尋ねた方もテントをたたみ終えており、一緒に記念撮影をすることができた。
この人、栃木の方で北海道には2カ月程いると言っていた。互いの安全を祈り分かれた。

「立待岬で一泊を供にした人」


まず行ったのは、五稜郭の工事で犠牲になった人、函館戦争の戦死者の墓が有る大円寺へ。
寺の住職さんは、気さくな方で、松前に行ったら光善寺というのが有るから境内に泊るといいよと言ってくれた。また、檀家で寿司屋をやっているのがいるとか。こんな気軽な話をした。

「五稜郭の工事で亡くなった人の碑」


ところで、この週末の函館はお盆で、昨日からお寺は、墓参りの方で混雑をしていた。しかし、この大円寺は同じ函館市であるが、亀田だから8月だそうだ。

「立待岬手前の墓地で」


その後、海岸沿いのR228を松前へ向けて走る。函館戦争最大の野戦があった矢不来は、茂辺地川の左岸ががけになっており、この地で死力を尽くして戦った理由が分かった。幕府軍は新政府軍の艦砲射撃でかなりの被害を出したという。

「七重付近の浜から函館山を臨む」


「激戦がかわされた茂辺地の河岸段丘」


茂辺地を過ぎたあたりでサイクリングをしている親子ずれを追い越した。
その親子とは、トラピスト修道院で一緒になり立ち話をする。地元木古内の人。お父さんは息子さんと出かけるのが楽しみな様で、我が輩の装備を見ながら泊がけのサイクリングをしたいと言われていた。子供さんは11歳。大きくなったら自転車で旅をすば色々な経験ができるよと言って分かれた。

「サイクリングの親子」


「トラピスト修道院への杉並木」


トラピスト修道院の入り口に「龍杉創」と言うレストランがある。男爵いも料理を食べながら日記を書こうと昼食にする。
居心地が良く結構長くいた。1時間以上も経ってしまった。この時点で、松前まではちょっときついかな?

「その時の料理 おいしかった」


「トラピスト修道院から少し行ったところで咸臨丸が沈没した」

この付近の岩礁で沈没

知内〜福島の間は山深い。こんなところで戦争をしていた旧幕府軍、新政府軍ともに大変だったろうな。地形に不慣れな者ばかり、ちょっと脇に入り込んだだけで、熊の巣の中に迷子になってしまう。
そんなことを考えながら、戦いが行われたと言う市の瀬橋から知内川の写真を撮る。

「この川の回りは山また山」


福島のテントサイトに到着したのは16時を少し回ったところ。松前まで行く元気はない。この公園はキャンプ場ではないが、シーズンになると結構テントが並ぶらしい。
散歩に来ている人達は皆さん親切で気持ちがいい。

ただ、難点は風呂がない。外はブヨの攻撃。
最初は外で食事、日記の打ち込みをと考えたが、手足を腫らしテント内に退散した。
19:44 | 日本一周パート2(北海道その1) | comments(2) | -
2008年7月12日(土)の記録
旅の記録 2008年7月12日(土)

発信地:函館
旅行日数:4日目
天候:晴れ
健康状態:良好、チョットお疲れ
本日の走行:函館周遊
到着時間:17:00(谷地頭温泉)
宿泊地:立待岬
走行距離:25km
明日の走行予定:函館〜木古内〜福島〜松前

ホテルに泊まると快適だけれども、半面、人との接触はない。洗濯をして、隣のコンビニへ弁当を買いに行き、テレビを何となく見ながら缶ビール。いや発泡酒を飲み、弁当を食べる。そこには人との接触はない。それでも、ボーッとする快適さはある。
昨晩、男の子から、「おじさん一人で淋しくないの?」と聞かれた。
たまには、人を気にせずに居るのもいいよ。と、答えたが、実際には携帯電話というものが有るお蔭で一人ではない。このブログも淋しさを紛らわす策で、自分の書いた日記を誰かが見ていてくれるというだけで安心できる。
昨日は神社の境内にテントを張らせてもらったが、土方歳三の軍が戦った二股口から戻ってくる途中、テントを張れそうなところがあったのに、あえて神社の境内を選んだ。それは、人の気配がほしいから。内心やはり淋しい。

ホテルに泊まろうとも年寄りの朝は早い。5時頃からもそもそと行動し出し、朝の散歩ではなく朝のサイクリングで立待岬から函館山ロープウェーの入り口までの散策をする。立待岬にチャリダーが野宿をしていた。聞いたら泊まれそうである。最高のビューポイント。今晩の宿はここに決めた。

「立待岬」

「石川啄木一族の墓」

立待岬の手前にあります。

その後、幕府軍戦死者の墓碑「碧血の碑」、函館公園内にある博物館、護国神社、石川啄木住居跡、高田屋嘉兵衛の像を見学しホテルに戻ってくる。朝の散策を終えたのは8時15分。これで、南半分の見学は終えた。天気もよく気持ちがよかった。

「碧血の碑」

「旧博物館」

「護国神社と新政府軍の墓」


「高田屋嘉兵衛の像」


チェックアウトをしたのは10:00少し前。
まずは、函館山の北西から順番に攻めることとし、外人墓地へ。函館湾を一望できるベストビュー。カメラを方手に墓をまわっていたら、喫茶があった。メニューはロシア風、ついついつられて休憩。
窓の外は最高の眺め。

「外人墓地から函館湾を臨む」


その後、幕府軍の野戦病院であった高龍寺、土方歳三他新選組隊士の慰霊碑がある称名寺、弁天台場跡、函館港浚渫工事碑、この頃までは元気であったが、ペリー会所跡、函館丸、函館運上所跡、北海道第一歩の地東浜桟橋・・・・・さすがに疲れてきた。
休憩を兼ね高田屋嘉兵衛資料館近くの古びた中華料理店で昼食。結構な人の入り。ひょっとして旅行案内に載っているのか?
高田屋嘉兵衛資料館は、思ったほどに資料を揃えていなかった。

「高龍寺にある会津藩士を供養する傷心惨目の碑」

「弁天台場跡」

「北海道第一歩の地東浜桟橋」

「太刀川家」


その後は坂道を再度上り、定番コースのハリストス正教会、旧函館公会堂等、そして、榎本軍幹部が会食をした咬菜園、新政府軍海軍戦死者の碑を訪れ、予定した場所はすべて回った。
そのまま、立待岬まで行きたいのだが、朝聞いたチャリダーの話だと早い時間にはテントを張れないと言うことであったので、近くの温泉に直行した。そして、今日記を書いている。

「ハリストス正教会」

「旧函館公会堂」

「今日のお宿立待岬」

18:13 | 日本一周パート2(北海道その1) | comments(2) | -
2008年7月11日(金)の記録
旅の記録 2008年7月11日(金)

発信地:函館
旅行日数:3日目
天候:小雨
健康状態:良好
本日の走行:大野〜久根別〜R228〜R227〜道道100〜函館
到着時刻:15:30頃
宿泊地:函館(スマイルホテル函館)
走行距離:40km
明日の走行予定:函館周遊

昨晩、大野町の温泉から日記をUPした後、テントにかわいい来訪者があった。宮司さんのお孫さんで小学校4年生の男の子と4歳の女の子。テントの中が不思議の国の世界に見えたのか?
しばし、子供たちと楽しい時間を過ごした。
男の子から色々な質問を受けたが、「おじさん結婚しているの?」て言われたのは、一寸ショックだった。こんなことをする人って珍しいだろうね。

昨晩は、更に貴重な体験を二つした。
コウモリが飛んでいた。男の子から聞いて初めて気がついたのだけれど、イチイの木のすき間に巣があるようで夜になると飛び回っているのだ。コウモリが近くで飛んでいるなんて小学校の頃に見た時以来だ。
それと、杉の大木は天然の屋根になることを知った。昨晩から朝にかけて雨が降っていた。アスファルトに水たまりが出来るくらいだから結構降ったと思う。だが、杉の大木の下は全然濡れていない。当然テントを叩く雨音は聞こえなかった。

07:45、男の子と別れを交わした。
この境内でテントを張っているのを見たのは最初だと言う。いい思い出になってくれたらいいな。

まずは、榎本軍戦死者の墓がある大野町光明寺へ。そして、戸切地陣屋跡を見てくる。この場所に来るのは、当然初めてであるが、陣屋の土塁は原型を留めており、周辺の桜木、杉の木が美しい。今日はあいにくの天気であったが、陣屋の土塁上から眺める眺望はすばらしいのではと思う。

「光明寺」


「戸切地陣屋跡」


「陣屋の土塁と杉の木」


その後、函館市内に向けて走り五稜郭に到着。まずは、昨晩から今朝にかけての日記を記しておきたかったので、五稜郭前にあるハンバーガーショップに入った。
某ハンバーガーショップのものに比べて大きく、店内でかかる50年代のロックが心地よい。

五稜郭の兵糧庫に資料が展示されている。それほどの量はないが、説明員の方と歴史談義になってしまい結構長く居た。その会話中で、来訪者の中で榎本軍のことを呼ぶ時に、賊軍と言う言葉を使うことに憤りを感ずる人がいるそうだ。そう言われれは、そうだと思う。「勝てば官軍、負ければ賊軍」、直接当事者でない地方出身の方は特に気にしないかもしれないが。賊軍扱いを受ける藩の地に祖先に持つ方にとっては、ただ、時の流れに乗れなかっただけ、勝った官軍は正義なのか? もう、いい加減にしろと言いたくなるかも知れないと思う。

「兵糧庫」


「兵糧庫横に展示してある大砲」


雨は止みそうにない。結構濡れた。今日の泊はホテルにした。出来るだけ安い宿をと、道道にある民宿、安そうなビジネス旅館に宿泊料を聞いたら、駅前のビジネスホテルと大して変わりはない。ある親切な宿屋の女将は、安い宿を探しているのだけど、と言う我が輩の質問に、「今時、ビジネスホテルの方が安いよ」との返事。何か申し訳ないやら、むなしいやら。古くからある旅館はビジネスホテルに対抗できなくなってしまったのだ。

「榎本軍が降伏した亀田八幡宮」

「土方歳三終焉の地」


明日の天気はよさそう。
18:28 | 日本一周パート2(北海道その1) | comments(0) | -
2008年7月10日(木)の記録
旅の記録 2008年7月10日(木)

発信地:大野町意富比神社
旅行日数:2
天候:くもり
健康状態:良好
本日の走行:森〜砂原〜鹿部〜大沼〜峠下〜七飯〜大野〜二股口〜大野
到着時刻:16:15
宿泊地:大野町意富比(おおび)神社境内テント
走行距離:84km
明日の走行予定:大野〜戸切陣屋跡〜R227〜函館

昨晩は、やはり不安な気持ちに襲われた。それは、前回の旅の開始に当たり苫小牧から大洗へフェリーで移動中にもあったが、今回のそれとは少し違った。

まず、体力的に、精神的に大丈夫なのかなと思う気持ちと、日本一周がそんなに重要なことなのかと言う疑問に似たものが、一人、部屋にこもっていると襲ってきた。
まだ、旅人になっていないためで、多分、2〜3日もすれば旅に集中し、そんなことを考えなくなるだろうと思う。

窓からの明かりと、カモメではなくカラスの声で目が醒めた。幸い窓の外の路面は濡れていない。最悪の日ではなさそうだ。
携帯端末の電源を入れ、メールが入っているか確かめる。
ところで、この携帯端末であるが、ブログの管理者ページのIDとパスワードを忘れてしまい開けることができないことに気がついた、何度か思い当たるアルファベットと数字を打込んでみたがだめであった。
それでも、日記はメール形式で送れるようにしてあり、読者からの書き込みもメールで送られてくるようにしているのでとりあえずは大丈夫である。

スタートの記念写真を撮り07:15出発

まずは、幕末、海防のために陣屋のあった砂原陣屋跡をカメラに収め、鹿部からJR大沼駅まで走る。そこで、待ち合わせを約束している七飯町歴史館の職員の方に電話を入れ、峠下を下った地点で落ち合う。


現役バリバリの好青年の第一印象を受けた(青年は私から比較し)
そこからは、館員の方の案内で峠下の旧道沿に有る函館戦争勃発の地等の戦跡を見学する。

「函館戦争勃発の地」

この地は、当時宿場町で、街道に面し旅籠が並んでいた。

「戦死者の墓」


「峠下旧道 1庚申塚の前」


その後、ガルトネルブナ林、宝琳寺に立ち寄る。

「宝琳寺」

境内裏には八王子同心が住んだ事を示す地蔵の建立、函館戦争戦死者の墓がある


七飯町歴史館に到着したのは11:50頃、カシワうどんを準備してくれていた。わざわざ私の為に時間を割いて頂き昼食の準備まで。感謝の一字である。
戦跡等の見学を含め色々な説明をいただいた。そのすべてを消化できたわけではないが、函館の影に埋もれてしまっている感があるものの、七飯町の歴史の重みを理解できた。

「七飯町歴史館前で」


七飯町歴史館を出たのは13:45頃、大野町に有る意富比神社に向かう、ここは、函館戦争の銃撃戦の跡がイチイの木に残っていると言う。
どの木か分からず宮司さんに尋ねる。当然自己紹介を終えてからであるが、厚かましく境内にテントを張るお願いまでしてしまう。これで安心と、大野川沿いを約10km程江差方向に上ったところにある二股口古戦場跡に行ってくる。かなり奥深い山間にあり、ここで土方歳三の軍が新政府軍を完璧なまでに阻止をした。

「二股口戦場跡」


二股口見学の後、境内にテントを張っている最中に宮司の娘さんとお孫さんが帰ってきた。ちょっとバツが悪そうに挨拶をする。
その後、お孫さんの案内で近くを自転車で走ったり、夕食のおかずを頂いたりと、急に親しくなってしまい、そして、親切を受けた。

「神社の境内で」


今日一日、本当に気持ちの良い一日だった。
20:35 | 日本一周パート2(北海道その1) | comments(0) | -
2008年7月9日(水)の記録
旅の記録 2008年7月9日(水)の記録

発信地:森町
旅行日数:1
天候:くもり
健康状態:良好
本日の行動:札幌〜森までJRで移動
宿泊地:森「菊水旅館」
走行距離:0
明日の行動予定
森〜砂原〜鹿部〜大沼〜峠下〜峠下旧道
〜七飯町郷土館〜?
宿泊予定:七飯付近テント

2年3ヶ月ぶりに日本一周自転車の旅を再開した。
とは言っても、今日は札幌〜森へJRで移動しただけだが。

準備は出発直前まで行っていた。その準備とは、函館戦争の経過と戦跡を地図上にプロットすることで、時間切れでストップ。それでも、函館周辺の史跡については、その方面に詳しい方を除けば、函館在住の人よりも詳しくなったはずだ。

そして、七飯町歴史館の方に電話をし、明日の行動についてお願いを兼ねた打ち合わせを行った。
お蔭で、明日の行動は何とかなりそう。
自分一人であったら訪れたいと思っているところの半分も回れないだろう。まだお会いせぬ方であるがお礼を言いたい。

自宅を出たのは10:25分、丁度妻が仕事に行くというので一緒に地下鉄に乗ることにした。妻が働き旦那が風来坊というのも変な話であるが、もう少しのわがままを許してほしい。電車の中でお守りは?気をつけてね。うん。わかった。と言うような会話交わし分かれた。それでも、21日には自宅に戻らなければならないので10日少々の分かれである。
昨日は、知人に電話、メールで自転車旅行を再開することについて連絡をした。みんなからも言われた「気おつけて」と。
「一日一日を安全に走る」「無理をしない」「気を引き締める」を合言葉に行動しよう。

森の菊水旅館に到着したのは16.00、先に届いている段ボールを開き自転車のキャリア取り付け、ためし乗りを行い異状のないことを確かめた。
しかし、キャリアの取り付け、自転車の点検に手間取り、最終的なキャリアバックをつけての走行点検まで2時間もかかってしまった。

明日の走行は不安がいっぱい、何とか雨だけは降らないでほしいのだけれど・・・。

それから、昨日メールを下さった方に返事ができませんでしたが、激励ありがとうございました。
19:09 | 日本一周パート2(北海道その1) | comments(1) | -
函館へ2
JUGEMテーマ:旅行


2008年6月15日(日)
○天候:晴れ
○行程の概要
森〜函館
函館〜伊達までJR
伊達〜札幌まで車
○走行距離:57km

朝食前に森桟橋跡を見に行く。その碑はJR線路の内側国道よりにあり、線路の向う側の海に、なんだか石碑が建っていた。
記念撮影の後、鹿部方向(東側)に走っていたら線路を渡る道があり海岸に出る。
先程見つけた碑を確かめるために波打ち際を歩き、近づいたら、明治天皇の上陸を記念する碑であった。

「明治天皇上陸の碑」


たまたま、そこで昆布を拾う年配の方に声をかけたら共通の話題が色々あり少し話し込んだ。そんな話の中で、流れ着いた昆布の事を「お金が落ちている」と言う表現を使ったのが面白く感じた。そして、年金だけでは食べていけないので、少しばかりだが収入の足しにしていると言っていた。

朝食の後、宿屋「菊水」の女将にこの旅館は「いつごろからあるのですか」と尋ねたら「森の大火の後に建てた。それ以前から宿屋をやっていた。明治天皇が泊まった」とも言う。食堂に小冊子があるからごらんになればと言われ、写真を撮って行く。
その時に気がついたのだが、今風でない旅館の過去をたどれば、郷土の歴史が少し見えてくるかも知れないなと思った。

07:15菊水旅館を出発、R5を大沼、峠下、七飯と下り、函館駅までの途中、四陵郭、権現台場、五稜郭に立ち寄った。これらは、函館戦争の激戦地である。
榎本軍は、最後の砦として、五稜郭、弁天台場、千代台陣屋、そして、四陵郭、権現台場に陣地を構えて戦った。

「七重の農場風景」

「松並木の街道」

「四稜郭」

「権現台場跡」

「五稜郭」


五稜郭に到着したのは、10:00頃、中を見学するのは次回にしよう。急いで函館まで向かえば11時台の特急に間に合うのではと、訪れた証拠の写真だけを撮り函館駅に向かった。到着したのは10:30。次ぎの特急の発車時間を確認したら11:00。後30分である。なんとか間に合うか? 20分間でキャリアを外し自転車のパッキングを終わらすことが出来た。

「函館駅前」


伊達に到着したのは12:45分。早速郷土資料館のある伊達の杜に行く。まずは、資料館の手前にある迎賓館を見学する。そこで、この土・日は伊達家の菩提寺である大雄寺で「フェスタ2008」と言うのをやっており、そのイベントの一つとして「画像で見る伊達の歴史」というのをやっている見に行くと良いよと言われた。
大雄寺に行くとお祭りの様な賑わいであった。本尊の横に椅子が50〜60個並べてあり、スライドの準備がしてあった。講師は青年会議所の青年で伊達開拓の歴史についてスライドを交えて「プロジェクトX」のごとく話された。
講演終了のコメントで、子供達にも講演をしている。その際、事前のアンケートの回答では「伊達には何もない。大人になったら都会に出て行きたい」と言う子供が大半であるが、講演終了後のアンケートでは、「伊達にこんなすばらしい歴史があるなんて知らなかった。大人になっても伊達にいたい」と答える子供達が多数となったと言う。郷土愛を持つことが必要であると締めくくっていた。正にその通りであると思う。帰り際、いい話を有り難う。頑張って下さいと声をかけ寺を後にした。

「迎賓館」


「三戸部邸」


その後、再度伊達の杜に行き、郷土資料館と三戸部邸を見学してきた。
伊達を後にしたのは16時をまわっていた。

この週末、妻は次男に会うために八戸へ行っていると言ったが、昨日電話が入った。「岩手で地震があり次男は職場に駆け付けてしまった」とのこと。がっかりしているのだろう。本来であれば、土曜日はドライブにつれてもらうはずだったのに。
06:05 | 日本一周パート2(北海道その1) | comments(0) | -
函館へ向けて1
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2008年6月14日(土)

○天候曇りのち晴れ
○行程の概要
 札幌~伊達まで車で移動
 伊達からR37を長万部~八雲~森
○走行距離:127km

木曜日から妻は次男の住む八戸に行っている。
そこで、5月の連休に達成できなかった函館まで走ろうと思い立った。
立てた計画は、先回走った伊達までは車で移動、そこから約90kmある八雲で一泊、翌日函館まで走りJRで伊達にもどる。しかし、先回見学をしなかった伊達の資料館を見学する場合、12時過ぎ函館発の特急に乗らねば間に合わない。とりあえず行けるところまで行くこととした。

自宅を出発したのは05:30、約2時間のドライブで伊達駅に着いた。
車から自転車を下し出発準備を終えたのは07:55。

伊達の駅前から5km程行ったところに長和と言う所があり、そこからR453を300m程入ったところに東本願寺道路発起点碑がある。この本願寺道路とは、明治4年に東本願寺の門徒達が伊達から中山峠を超え札幌まで開設した道である。今のR230のルートである。室蘭から苫小牧、札幌に続く室蘭街道(後のR36)とともにこの時代の主要幹線であった。

「本願寺道路起点の碑」


その後、有珠にあるバチェラー記念堂、善光寺へ。善光寺は萱ぶき屋根が美しいお寺で、訪れた時には誰もいなかったが、自由に内部を見学することが出来た。お寺の前は入江になっており、水面は油をたらしたように静まり美しかった。北海道にはない海の景色だ。

「バチェラー記念堂」

「善光寺」


長万部に着いたのは11:50。途中、礼文華、静狩峠があり、トンネルも沢山あり結構時間がかかった。
この付近の山々は広葉樹の新緑と深い緑の針葉樹とのコントラスト、また、その山間に水田があり、本州の山村風景のようである。周りからはセミの声、鳥のさえずりの合唱が聞こえ走行に色をそえた。
「山間の風景」


静狩峠から長万部方向へはまっすぐな海岸が10km程続いており、そこを一直線の道が走っている。この海岸沿いを走る直線道路は北海道に住むドライバーにとってはチョット知れ渡っている。

「長万部までの直線道路」


当初の予定では今日の目的地は八雲までであったが、長万部で昼食を取った後、海岸沿いの道路に出たら手ごろな追い風が吹いていた。この分なら森まで走れそうだ。予約を入れてあった八雲の旅館にキャンセルの電話を入れた。

八雲までは30km近くのスピードで走れた。八雲の入り口に遊楽部川が流れている。この河口付近の海岸に尾張藩の家臣84名が第一歩を踏み入れたことを記念する木柱が建っていた。ちょっと寂しそうな碑であったが歴史を伝えることに価値があるのだからと納得する。

「尾張藩上陸の碑」

森の手前にある鷲の木に立ち寄り森駅に着いたのは16:30頃。鷲の木は函館戦争の際、江戸を抜け出し、薩長政府に反発した幕臣や戊辰戦争、東北戦争の残党約2000名以上が上陸した地点である。旗艦回陽以下8隻の艦隊がこの海岸に到着した雄姿は、この地を圧倒するものがあったと思う。しかし、それも翌年の5月までの半年の命。
榎本らは約半年間、蝦夷地の支配者となったが、雪解けの後、乙部に上陸した圧倒的な新政府軍の戦力の前には後退を重ねるのみで、多くの血を流し戦争は終結した。そして、新しい日本国家が出来上がった。森はそんな歴史を持つ地である。

「駒ケ岳をバックに鷲の木の海岸」

森町まで走ったので、明日は念願の函館まで達成できそうである。




22:07 | 日本一周パート2(北海道その1) | comments(2) | -
勇払〜新冠〜静内へ
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2008年5月6日(火)

勇払〜新冠〜静内へ

昨日は何度天気予報を確認したことだろう。
と、言うのも、この連休に子供達が帰省しており3日、4日は動けず。5日は強風で、これまた行動ができず。「6日くらいは走りたい」との思いからである。
そして、今朝起きてネットで雲の位置を確認したら、目的地の苫小牧から静内付近は晴れ間が広がり出している。
そう、今日は吉永小百合が出演した映画「北の零年」の舞台となり二十間道路の桜で有名な静内へ。そして、その途中、国道235号線沿いの勇払、新冠の史跡を訪ねることにしていた。

05:15自宅を車で出発、昨日の天気予報では曇りベースであったが、雨上がりの太陽が顔を出しており、風も殆ど無く、最高のサイクリング日和となった。日高本線勇払駅(苫小牧の隣の駅)に到着したのは06:40。

「勇払駅と電車」


この勇払は、1800年に八王子千人同心(八王子千人同心とは、その名の通り現在の東京都八王子市を中心に在住していた郷士)が入植した地である。私自身、八王子同心がこの地に入植した事などつゆほども知らなかったが、先日、屯田倶楽部におじゃました時、苫小牧へ行くなら勇払の「八王子千人同心追悼の碑」というのがあるから見に行くと良いよと言われていた。
この、八王子千人同心の入植は、ここ勇払と道東の白糠で行われたが寒さと栄養失調、流行病のため、1年足らずの間に3割近くの人が亡くなり、4年間で幕を閉じた。幕末期の北海道開拓はそんなに過酷なものだったのだろう。
八王子千人同心追悼の碑はJR勇払駅近くの「勇武津ふるさと公園」内にあり、そこには、勇武津資料館、蝦夷地開拓移住隊士の墓、開拓使三角測量勇払起点の記念碑がある。

「蝦夷地開拓移住隊士の墓」


また、そこから海岸方向JRの線路を越えたところに勇払会所跡の碑が建っている。

「勇払会所跡の碑」


この地は、アイヌと交易をするための中心地であったというが、その会所は勇払原野のほんの一角にぽつんと存在した。周りはすべて未開の原野である、遠く故郷を離れここで任務に携わた人達の苦労がしのばれる。
「もし自分がここにいたなら」そんなことを考えながら海岸沿いを走った。空気は澄みきり、ヒバリのさえずりも聞こえ、所々に桜のうす桃色の花木が目に入り快適なサイクリングであった。

「勇払の風景」


途中、鵡川を過ぎた当たりで、シシャモを干している店があった。一旦通りすぎたのだが、チョット気になり後戻りをする。
「ここで捕れたものですか?」と聞いたら、「食べていけますよ」との誘いに乗せられ一服、ひと串10匹で1,000円のシシャモを灸もらった。
この先に富川と言うところがあるが、そこのシシャモとは味が違い、ここのシシャモは美味しいとのこと。そう言われてみれば、産卵は川に上がってからすると言うことで、ここで捕れるシシャモと富川で捕れるシシャモとでは遺伝子が違う。そんなことから味も違うのかも知れない。
最初は3〜4本でいいと言ったが、ついつい7本食べてしまった。残り3本は妻への土産にする。

「食べたシシャモ」


新冠に着いたのは11:15。
新冠資料館は、エドウィン・ダンが開拓使牧場(後の御料牧場)にいたことを示す資料が残っていると言うことで、事前に真駒内のエドウィン・ダン記念館の館員の方から紹介の連絡を入れてもらっていた。今日は休館日なのだけれど、わざわざ私一人の為に開けてくれた。感謝の一字である。
色々話をして頂いたが馬の話が面白かった。どさんこと言う馬は北海道の馬ではなく(元来北海道には馬は産していなかった)、北海道警備等のため東北の雄藩が持ち込んだ南部馬が原産だそうである。また、どさんこと言うと北海道の競馬で重石を力強く引く「ばんば」を思い出すが、元来どさんこと言う馬は荷物を引いたり、農耕に適さない小柄な馬であったという。そこで、エドウィン・ダンの登場というわけで「北海道の開拓のためにこんな貧弱な馬では役に立たない」「欧米の馬と掛け合わせた力強い馬を生産しなければいけない」と、この地に馬産の拠点を作り、近代的な馬の飼育方を伝授した。
また、この地が日本オオカミ終焉の地であり、駆除にエドウィン・ダンが一役買った話とか、静内に入植した淡路の稲田家の話、御料牧場の話、アイヌの英雄シャクシャインが和人のだまし討ちに遭い殺害された場所は新冠の浜であるとか色々な話を伺った。
説明下さった方は真駒内のエドウィン・ダン記念館にも2〜3度いらしており、歴史研究で交流をしているとの話であった。
北海道各地にある郷土資料館のメインテーマは北海道開拓時代にあることから、相互に関係している部分が多く有ると思う。資料館同士の交流の中から新たな発見が生まれるのではと思う。

「新冠郷土資料館」


その後、牧場が連なる新冠のサラブレッド銀座を走り、丘を超え静内の二十間道路の桜を見に行く。残念かな、昨日の強風で桜は散ってしまっていた。わずかにピンクの色を残す枝があるのみであった。

「サラブレッド銀座」


「二十間道路の桜」


二十間道路は8kmに渡り続いている。この桜並木を含めた山側に御料牧場があった。そして、海岸側が稲田家が入植をした場所である。当然、その稲田家ゆかりの人達もその牧場で働いている。御料牧場の前身である開拓使時代の二代目所長が稲田家の家臣であった岩根清一という人だそうである。稲田家の人達が、また、畜産に携わった開拓使の人達が、そして、その後、この地に移り住んだ多くの人達が有数の馬産地を作り上げたと言える。
今まで何度か静内を訪れているが、歴史を少しかじることにより深くこの地を知ることができた。

二十間道路の奥に龍雲閣という建物がある。ゴールデンウィーク期間中は解放しており運良く見学をすることができた。御料牧場は宮内庁所管の牧場で、皇室の方等が訪れることから貴賓客の宿泊施設として明治四十一年に建築された。また、その横に御料牧場の事務所が古いたたずまいのまま残されていた。これらの説明は省くが、この地が、北海道開拓に必要な馬の育成、また、その後の日清・日露に続く戦争の中で、軍馬の育成という面で重要な地であった事を理解した。

「龍雲閣」


途中、稲田家屋敷跡に立ち寄り、JR静内駅に到着したのは15:30であった。

「稲田家屋敷跡」


16:09発の普通電車で車を置いてある勇払に向った。
この電車、ゴールデンウィーク間の特別電車でマニアの方が乗っており結構混雑していた。(車掌曰く、マニアの方は朝から乗車しており、終点の様似駅まで何度も往復していると言う)

「がんばれファイターズ」


恵庭の温泉に入り帰宅したのは20:20。朝5時から夜の8時半までの行動。結構疲れた。

「お気に入りの馬」



19:49 | 日本一周パート2(北海道その1) | comments(4) | -
室蘭〜伊達へ
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2008年4月29日(火)の記録
室蘭から伊達へ
まだ、地下鉄は動いていない。
06:24札幌発の電車に乗るため妻に頼み駅まで車で送ってもらう。
列車に自転車を積み込み、先週行った白老まで移動、到着したのは08:16である。
初めての輪行である。

「札幌駅で」


白老の駅前で自転車を組み立て、国道36線を一路登別へ。白老の町を過ぎたところで、室蘭にある中嶋神社に「11時半頃に伺います」と電話を入れる。中嶋神社の宮司さんは室蘭輪西屯田兵の子孫で、事前に屯田倶楽部から紹介を頂いており、お話を聞こうと思っていた。

わずかに向かい風が吹いていたが、まあまあのコンディションで、登別までは順調に走っていた。
登別を過ぎた当たりでガシャというような音がした。あっ、やったかなと思ったその時には空気が抜けていた。空き缶の残骸を踏んづけてしまった。チューブの交換を15分程で終え再スタート。

JR登別駅の隣が富浦駅で、駅前を北方に少し進んだ所に墓地がある。この墓地に知里幸恵(アイヌ神謡集を書した人)の墓がある。昨年、旭川へ行った時に北門中学校に立ち寄り、教頭先生の案内で知里幸恵の資料を見せて頂いた。その時、知里幸恵が登別出身であることを知り、墓地に立ち寄ろうと思っていた。が、入り口を通り越し2km程行った場所で気が付いた。往復4km程だけど、戻ったら中嶋神社の11時半に間に合わない。
あきらめてそのまま進む。
パンクで時間を取ってしまったために焦らせ、途中で地図を確認しなかったのが原因である。

鉄の町室蘭は北海道開拓の中で重要な位置づけにある。
北海道地図を見て頂くと分かるが、内浦湾の入り口にせり出し地球岬として有名な岬の内側に良港を持ち、早くから開けた松前、函館に、その後、北海道政経の中枢になる札幌に近く海陸交通の中継地点として発展した。また、幌内(岩見沢の近く)に石炭が発見され、夕張山系一帯の石炭採掘が機動に乗っていくと石炭の搬出港として重要な位置を占め、同地まで鉄道が敷かれた。その後、石炭をエネルギー源として日本を代表する製鉄が始まった。そして、戦略上の要地として屯田兵1個中隊が配置された。

中嶋神社に着いたのは連絡を入れた11時半を5分程まわった時間。なんとか、間に合った。着いたら、宮司さんは外出中で、代わりに同じく屯田兵子孫の畑さんと言う方が対応してくれた。

「畑さんと」


輪西には明治20年に110世帯、22年に110世帯が入植し1個中隊を編成したが、室蘭の土地は耕作に適さず、全道に入植した37個兵村のうち根室の和田、厚岸の大田に入所した屯田兵とともに最悪の環境での開墾であった。これらの地はロシアからの防衛のため戦略上の要点であったため無理をおして入植させた。その苦難の記録は20年から24年の4年間で逃亡、自殺等により欠落した人員は21名の数字で物語っている。入村戸数の1割に当たる。他の兵村に類を見ない数値である。

室蘭には輪西屯田兵家族会という会があったが、平成15年5月18日で解散したそうである。会員が高齢となり、また、入植した先祖の方と直接接していない4代目の方の理解をなかなか貰えず、会の維持が困難になったという。畑さん自身も奥さんに先立たれ、現在は近くの施設に入所しているという。
言われることは分かるような気がするがチョット淋しい。室蘭の発展は屯田兵の存在を抜きには語れない。子孫の方にその歴史を伝えていってもらいたい気がするのだが。後は歴史研究家に任せるしか無いのか。
室蘭には屯田兵が入植する前の明治3年に、仙台藩伊達の一門で角田石川家(宮城県の南側、亘理と白石の間)の家臣達が入植した地でもある。土地がやせており農業の発展を見ることができず、養蚕、製鋼、製氷等多角的な経営をおこなった。その後、明治20年に石狩平野の東側、栗山町付近に再入植し同地の開墾を行った。現在も角田と言う地名が残る。この地はから長沼、南幌にかけての田園風景が美しい。

「中嶋神社」


「屯田兵の碑」


その後、旧室蘭駅に立ち寄り、白鳥大橋を渡って伊達まで行こうと考えていたが、事前の情報把握不十分。まず、白鳥大橋は自動車専用で自転車は通れず。旧室蘭駅は探し切れなかった。この為に約1時間余分に走ることとなってしまった。

室蘭の外れ、湾の入り口に南部陣屋跡がある。
仙台藩同様に北海道の警備を命ぜられていた岩手県の南部藩が築いたものである。
室蘭市民俗資料館と陣屋跡を見学した。

「陣屋跡」


「杉と桜」


そして伊達へ
伊達は、名前の通り仙台伊達藩が入植した地である。
この地は、仙台藩の支藩である亘理藩(宮城県の南側阿武隈の河口近くを治める)が、藩主伊達邦成以下藩を上げて入植し開拓に成功した場所である。この成功の大きな要因になったと言われているのが仙台藩最後のお姫様である伊達保子の存在である。保子は、11代伊達藩主伊達斎義の姫で伊達の支藩である亘理家に嫁いだ。移住を指揮した亘理藩主の邦成の母である。その姫自らが、亘理家臣と伴に北海道に移り住み、彼らを励まし困難を分かち合い開拓のために尽くした。

伊達に着いたのは、伊達紋別発札幌行の特急が発車する40分前。

またもや、パンクである。
今度は、伊達の手前約4kmの場所で画鋲を踏んづけてしまった。予備のチューブは無い、そのまま修理をするしかない。早くしないと目的の伊達開拓記念館を見学できない。
後一枚しかなかったノリの要らないパッチを貼り付け10分で修理を終えた。そして、空気を入れてみたらエアーが漏れている。焦ってタイヤを組み込んだものだからチューブを痛めてしまったみたいだ。
悪いことにパンク修理用のボンドを持ってこなかった。実は2日前バンク修理セットのボンドがかたまっていることに気が付いた。一日の走行で2回もパンクはしないだろうと思い新しいものを購入しなかったのだ。
悪い時には悪いことが続くものである。
仕方が無く、駅まで4〜5kmの道のりを自転車を押して歩くことになってしまった。

「伊達の風景」


「伊達の駅前」


本日の走行距離
約80km(メーターの故障で詳細不明)
天候は曇り
帰りは17:19JR伊達紋別駅発の特急北斗で帰る。
自宅に到着したのは19:30分
トラブルの連続で参ってしまった。


22:20 | 日本一周パート2(北海道その1) | comments(0) | -