日本一周by自転車

定年退職を機に、「もっと日本のことを知りたい」との思いから日本一周に挑戦。
4,800kmを走ったところで事故にあい負傷。
一度、心に決めた目標は絶対に達成する!!
2年後、「北海道開拓の歴史をたどる旅」をテーマとして再チャレンジ!
2008年10月遂に日本一周を達成。
夢はまだ続く。
新しい目標は、自転車で旅をしながら郷土の歴史を調べる。
もう一度、深川、滝川、美唄へ
2007.10.6(土)
もう一度、深川、滝川、美唄へ
2ヶ月半前の7月17日から24日の間、自転車で屯田兵の史跡を訪ねた時に見学し損なった深川、滝川、美唄の郷土資料館を見学するために車で走った。
7月17日〜24日の記録はカテゴリー「2007年の記録」に残している。7月23日、24日は月曜日と火曜日で、それぞれの資料館は休館日であったため再度訪れなければと気になっていた。そして、遂に今日その目的を達した。
これで、7月のサイクリングは完了。

感想を一言
どの資料館も人出は殆どなく、深川、滝川は我輩が見学していた1時間の間に入館した人はなかった。美唄ではたまたま親子づれ3人組の入館があったが寂しい限りである。
これでは、勤務員の人件費も出ないだろうし、館を開放するための維持費に冶自体は四苦八苦しているのではと、変なことを考えながら見学をしていた。

今までに見学した郷土資料館は大概、縄文土器から始まりアイヌの歴史、開拓の歴史、そして、近世の日常生活品等を展示する、あまり代わり映えのしないものであった。
そんな中でも、その土地にゆかりのある人物をテーマにすえている資料館、その土地の特色を強く打ち出している資料館は印象に残っている。
それから、歴史的建造物を大切に保存し、それを資料館としているところは興味をそそった。
建物にお金をかけ、鉄筋の立派なものを建てるより、歴史的建造物を大事に保存することの方が大切だと思う。茅葺屋根の古い家屋を見るだけで中を覗き込みたくなる。古びた板張りのあばら家のような家にも興味を覚える。石壁の家、白壁のモダン建物、そんな建物を大切に残してほしいと思う。
私が時々顔を出すエドウィン・ダン記念館と言うのが近くに有るが、何度行っても飽きない。この建物は種蓄場の事務所として使っていたものであるが、現在は資料館となっている。
中には多くの展示品はなく、それがゆえに建物を有効に活用できるようになっている。
時々、建物のホールでコンサートを開いたりしていると言う。こんな活用の仕方はすばらしいと思う。コンサートを開くことにより多くの人が集まり、建物に入ることにより、歴史を知る。
多くの人に故郷の歴史のことを、もっと知ってもらいた。
ちょっと脱線をしてしまったが、郷土資料館のあり方について思うところを書いた。

画像は途中に立寄った滝川市街から少し上がったところにある丸加高原の写真
この丸加高原はコスモス、そして、春先の菜の花が美しい。





06:18 | 歴史散策 | comments(0) | -
農村風景と樺戸集治監
先週は江別と野幌の屯田兵。
今日は、その江別から石狩川を渡ったところの篠津にある町村農場に車を置き、石狩川流域の農村地帯を月形まで走行し、樺戸集冶監を見学してくる。

篠津は、江別屯田兵の一部が入植した場所である。ここは、札幌の山鼻、琴似、新琴似、江別の野幌、江別屯田兵入植跡と違い今なお農村風景が残る。
この付近は、米、麦、野菜の混作で黄金色の麦、緑の水穂、そららが、青い空に生えパッチワークの様で美しい。
美瑛の丘にはかなわないが、それは丘陵と平野の差で、空から見れば遜色ないかもしれない。
そんな農村の景色に見とれながら、時々カメラを構え、約2時間半の走行で月形にある樺戸集冶監に着いた。

「篠津の農村風景」
篠津農村風景





「屯田兵の名残」


樺戸集冶監は、西南戦争が終わって間もない明治14年に開庁し、大正8年まで存在した。
多い時で2000人以上の囚人が入監していたと言う。それらの囚人の中には自由民権運動、秩父事件等で捕らえられた多くの政治犯も含まれ、明治初期の開拓の中で道路の建設、水道の敷設、治水等の労力として使役された。そして、多くの犠牲者を出した。
月形から当別方向に3km程戻った篠津山霊園に無縁仏となった1022人の囚人達の墓がある。
また、月形は、石狩川に面しており、交通の要衝として、また、物流の中継点として栄えた。

「樺戸集治監」


「篠津山霊園」


09:10、篠津の町村農場を出発し戻って来たのは14:30頃、走行距離は85km
日焼け止めクリームを塗らなかった脚と腕はかなり赤くなっていた。
18:06 | 歴史散策 | comments(2) | -
江別と野幌
江別、野幌の屯田兵跡
江別は札幌市の北東隣にある市、野幌はその江別市の一部である。
この付近は札幌市のベットタウンとなっており、文教都市でもある。
この江別には明治11年から19年にかけて160戸の屯田兵が入植し、石狩川を渡った篠津分村の屯田兵60戸とともに第3大隊1中隊を編成した。
また、この江別にはアイヌ民族の苦難の歴史がある。それは、明治8年にロシアとの間に締結された「樺太・千島交換条約」により、それまで樺太に住んでいたアイヌが強制的に石狩川左岸にある対雁(ついしかり)というところに移住させられ和人への同化が行われた。その後、日露戦争の勝利により南樺太が日本の領土となった明治38年、全員樺太に帰って行った。その間、伝染病が蔓延したり水害に見舞われたりして多数の人々が亡くなった。

江別の屯田兵跡としては、JR江別駅の近くに江別神社というのがあり、そこに、大隊の火薬庫が現存するのみで、往時をしのばせるものは殆どなくなっている。また、樺太アイヌが移り住んだ対雁(ついいしかり)の居住地は石狩川河岸の草原の中に埋もれてしまっている。

「火薬庫」


「アイヌの住んだ対雁」


野幌には明治18年に138戸、19年に87戸が入植し第3大隊2中隊を編成した。
JR野幌駅から国道12号線を渡ったところにある錦山天満宮の横に中隊本部の建物が残り屯田兵資料館となっている。そのほかに、近くの湯川公園と言うところに屯田兵屋も復元されている。
この中隊本部は新琴似にある中隊本部とは配置が逆で、屋根裏の2階も見学することができた。また、館には日本式、アメリカ式(開拓期の建て方)、ロシア式(コサックの家屋)の3通りの兵屋の模型があり、その説明の中で、江別の屯田兵屋は3種類を建てたが、ロシア式は10年くらいしかもたなかったと言っていた。各地に現存する兵屋はすべて日本式のものである。

「中隊本部」


「2階の屋根裏」


それと、今回知ったことで、もう一つ。
戦時中、江別の王子製紙で木製の飛行機を作っていたそうである。実際3機の試作機が完成し、丘珠空港まで空を飛んだと言っていた。その為に、江別には2000m級の滑走路もあったそうで、終戦間近には米軍の空襲も受けたそうである。

「木製飛行機の資料」


その他に町村農場の資料館、江別から恵庭へぬける道道46号線(江別恵庭線)を少し行ったところにある千古園に立ち寄り帰ってくる。この千古園は、この野幌一円の地を開墾した北越植民社(明治19年設立)支社長の屋敷跡である。残念かな石碑が建っているのみで昔の建物は無かった。
17:42 | 歴史散策 | comments(2) | -
厚田と当別
厚田と当別
2007年6月16日(土)の走行記録
当別町手前の太美温泉まで自転車を車で運び、同意地点から走行開始、まずは、農道を北西に向けて走り石狩川河口へ、そこから国道231号線を北上し厚田へ、その後、ほぼ同一経路を引き返し当別へ。走行距離は約90kmであった。

厚田は石狩川の河口から海岸線を約20km北上したところにある村で、「勝海舟」「新撰組始末記」「座頭市」「厚田日記」などの作者である子母澤寛が生まれた地である。
「厚田日記」は、彰義隊の生き残りとして函館戦争を戦い、この厚田村に住み着いた子母澤寛の祖父を題材として書いた小説で、この本を読むことにより急に近しい場所と感じるようになっていた。
車で走った場合、ただ通り過ぎるか、日本海を展望できる駐車場で一息つく位でしか立寄らない厚田村であったが、小説の舞台となった痕跡がないか意識しながら走った。
厚田村は鰊業最盛期であった頃には、1万人以上の人が住んでいたと言う。また、資料館を見学することにより知ることが出来たのだが、42代横綱の吉葉山、北海道屈指の鰊漁の網元であった佐藤松太郎、創価学会2代目会長の戸田城聖の出身地でもある。

函館戦争の敗残者、江戸の侍が蝦夷石狩の厚田の村にひっそうりと暮らしていた。

「子母澤寛の碑」

当別は石狩川の河口から約20km遡ったところにある町で、明治5年に仙台藩の支藩である岩出山藩の藩主伊達邦直以下161名が入植した地である。
当別も仙台藩が行った北海道開拓の歴史を勉強しなければ、わざわざ立寄ることもなかったかもしれない。殆どの人は、その当別の歴史を知らないと思う。
仙台藩では、その支藩の亘理家が伊達市に、片倉家が白石・手稲に、角田家が栗山町の角田に、そして、岩出山家がこの当別に入植した。特に、この岩出山家の入植は悲劇と苦労の連続で、本庄睦男の小説「石狩川」や映画「大地の侍」として取り上げられている。
「伊達記念館」に入って説明を聞いてところ、やはり伊達邦直の子孫の他、岩出山から入植した士族の子孫の方が多く住まわれているとのことでした。つい少し前まで殿様の子孫の方が、また、ほんの1時間ほど前には岩出山から市長さんがお見えになっていたと言っていた。
挨拶をすることができず残念。


「当別の豊かな農村風景」

07:11 | 歴史散策 | comments(0) | -
角田と砺波
角田と砺波
これらは、北海道石狩平野の東端にある町、部落の地名。

宮城県の南、福島県との県境、阿武隈川沿いに角田と同名の町があり、仙台藩の支藩があった場所でもある。砺波は、富山県の西方を流れる庄川の流域にある地名と同じである。そして、富山県の砺波は父の生まれ故郷、我がルーツの地でもある。

この週末の5月20日、自転車をマイカーに積み込み、石狩平野東側にある長沼へ。そこから、由仁〜栗山〜栗沢〜南幌〜長沼へとサイクリングをしてきた。
今回のサイクリングの目的は、北海道開拓の歴史の舞台となった角田、そして、砺波部落を訪れること。
ここで、歴史の話を少しだけ
戊辰戦争に敗れた仙台藩は、その領地を奪われ家臣を養えなくなってしまった。
仙台藩の支藩である亘理藩が開拓をした地として、洞爺湖の南側にある伊達は有名であるが、それ以外に、角田藩、岩出山藩、白石藩が、それぞれの地に入植し開拓をした。
今回訪れた角田藩の開拓について。
重臣である泉麟太郎は、明治3年に藩士家族51名を率いて当初、室蘭に入植をした。しかし、その地は、農耕に適する土地が少なく、更なる地を求めて、明治21年、同士24名とともに阿野呂原野(今の栗山町付近)に分け入った。この地は、後に角田と言う地名になるが、石狩川の支流である夕張川の流域にあることから、夕張方面への中継地点として発展した。
この街では開拓記念館を建て開拓の歴史をしっかり後世に伝えようとしている。
この館に勤務していた女性は、泉麟太郎の4代目の嫁に当たる方で、お願いし、その4代目の方に挨拶をすることができた。

「泉麟太郎の住宅」


 次いで砺波部落について
この開拓は、明治26年、国の施策で保護を受けた屯田兵や士族移民によるものではなく、開墾の経験も特殊な装備も、経済的援助もない自由移民の人たちの手によって行われた。
この砺波部落へ入植をしたのは、富山県砺波の108戸の人たちで、本田幸彦を長とした。
 この開拓団は、禁酒令を布令するなど厳しい規律を維持し開拓に成功した。現在でもの多くの方が在住し、砺波の伝統と文化を維持している。
 私が訪れた「常照寺」で対応してくれた方の言葉には富山なまりが少し残っていた様な気がした。

「砺波開拓の碑」


「砺波のチューリップ」


サイクリングをしたこの付近は、田園風景が広がり、遠くには雪を頂く、南に定山渓・支笏湖の峰、北に暑寒別岳の峰、東に夕張山系の峰が望め絶景でした。

「田園風景」

06:36 | 歴史散策 | comments(0) | -
島松駅逓
○駅逓とは:交通の不便な地に駅舎と人馬を備え、宿泊と運送の便をはかるために設置されたもので、開拓期の北海道において重要な役割を果たした。

○島松駅逓は:明治の始めに札幌〜千歳〜室蘭〜函館へ延びていた札幌本道上にある駅逓で、札幌から約25kmの位置にあった。

この駅逓は歴史に残る3つの出来事の舞台となった。
 その1:かの有名なクラーク博士が「Boys be ambitious」と言う言葉を残した場所
 その2:明治14年の明治天皇北海道巡幸に際して御昼行在所に当てられた。
 その3:蝦夷地で最初に水稲栽培を成功させた中山久蔵と言う人が、一時期この駅逓を     経営した。

今日は島松駅逓の見学を第一の目的として、自宅〜道道支笏湖線〜漁川沿い〜恵庭〜島松駅逓〜自宅の経路、約72kmを走ってきた。
この駅逓に到着した時、見学客は誰もいなく、一人資料館の館員から説明を受け、そして、歴史散策談議になった。

「島松駅逓」


「Boys be ambitious」


「寒冷地稲作発祥の碑」


「明治天皇御昼行在所」


自宅を07:00出発、帰宅したのは11:30でした。



21:27 | 歴史散策 | comments(0) | -
道立近代美術館と道庁赤レンガ
昨日の飲み疲れのため、中々ベットから起きあがることが出来なかったが、意を決し、大通りの近くにある道立近代美術館ま歩いて行って来た。

其処では、「アイヌの文様の美」と言うのを開催しており、北海道開拓の歴史を知る上で、アイヌの歴史、文化も知る必要があると思い見学をしてきた。
アイヌには文字がなく、また、資料等を残すと言う習慣がなかったために、昔の日本人が記録に残したもの、アイヌから授かった物等を見るしかない状況であるらしい。
それでも、アイヌの子孫の方々が子から子へと伝統と文化を伝えている。


「道立近代美術館」
ちょっと見学しただけで2時間近くになってしまった。そのため、帰りの歩きをやめ地下鉄で帰ることに決する。

そして、「それではついでに」と三岸好太郎美術館に立ち寄り、道庁赤れんが庁舎の資料館を見学してきた。
わが輩には、絵画を評価するセンスと能力がないため、三岸好太郎の作品はあまり分からなかった。

道庁赤レンガ庁舎は何度か行っており、一度中にも入ったことがあったが、目的意識がなかったため殆ど覚えていない。今回は特に、樺太関係の資料、その中でも当時の写真を見ることにより、樺太は開拓者精神をくすぐる魅力的なところであったことが分かった。


「道庁赤レンガ庁舎」
19:01 | 歴史散策 | comments(0) | -
遠友夜学校
歩いて散策2週目
今日は、札幌時計台から南東方向に約1km、豊平橋のたもと付近ある「遠友夜学校」跡まで、往復約18km程歩いてきた。

この「遠友夜学校」は、「武士道」を書した新渡戸稲造が、家庭の事情で勉強がしたくても学校に行けなかった不幸な青少年達のために無料で開かれた私設の学校であった。
明治27年に創設され、多くの札幌農学校の学生達が教鞭をふるった。

「初代の校舎」


「教壇」


「記念碑」


現在学校教育が問われているが、ボランティア活動の原点、教育の理想とも言える活動であったと思う。詳しくは著書等で

資料室は、札幌中央勤労青少年ホール内に遠友夜学校記念室として開設されている。
ここへは、先週、札幌時計台内の資料を見学した時に、札幌農学校のこと、新渡戸稲造のことに興味を持ち、それが興じて行ってみようと思った。

記念室を見学のあと、受付にいた女性と立ち話の中で言ったことだけど、歩いて散策していると、今まで無意識の中で通過していた道道にはっと気が付くことがある。今日も途中の中島公園の池に氷が張り、わずかに残った水面に水鳥たちが寂しくたたずんでいた。

「わずか水辺」


先週のざわめきは嘘の様な静けさであった。
冬の間、鳥たちは何処に行くのだろう?

紅葉の時期にも自転車で2回ほど立ち寄ったが、日々景色が違っていた。

また、ススキノから中島公園にかけての地域に神社仏閣が多いことが気になった。
「なぜ、この付近に集まったのだろう?」とか、色々と気が付くことがある。
そして、興味をそそる発見がある。

08:04 | 歴史散策 | comments(0) | -
時計台と永山武四郎邸
自転車は2週間前に部屋の中に格納した。
まだ走れそうなのだが、最近は雪が降ったり晴れたりの天気、また、週末に仕事が入ることが多く、雪の降る日に手入れをするのもおっくうで、雪の解ける来年の4月までサイクリングは中断。

では、歩くしかない。
今日は、自宅から真駒内〜中島公園〜時計台〜永山武四郎邸まで約15km程をナップザックにカメラ入れ、ぶらぶらと歩いてくる。

紅葉シーズンも終わり、中島公園の人影はまばら、公園のベンチがひっそりと寂しそう。


「誰もいないベンチ」

池は薄氷が張り、水鳥が羽を休め、時折飛び立つ鳥も、湖面だけは騒がしい。


「飛び立つ水鳥」

その後、ススキの経由で時計台へ、どうすればビルの入らない写真が撮れるか、周囲を徘徊し撮影ポイントを探す。そして、はじめて時計台の資料館に入る。


「ビルのない時計台」


「ビルの谷間の時計台」


「時計台の中」

永山武四郎邸は、札幌ファクトリーの隣にあるが、殆どの人は知らないだろう?
建物の中に入ったら、わが輩一人だけ、敷地には小さな子供を連れた2組の家族づれがいただけでひっそりとしていた。


「永山武四郎邸」

15:43 | 歴史散策 | comments(0) | -
北海道開拓記念館へ
1300までフリータイム

妻に「1300に帰ってくるから」と断り、0915自宅を出発
「4時間弱で何処へ行けるか?」と言うことで、野幌森林公園にある北海道開拓記念館へ行くことに。
館内見学時間が1時間しか取れなく、かなり無理があるが?往復40km程度距離で手頃な場所がない。

R36〜平岡〜厚別〜野幌森林公園(開拓記念館)〜南郷通り〜札幌ドーム〜自宅の経路
  (ローカルな経路でサッポロ人でないと分からないと思いますが)

ここへは、約35〜6年前頃に一度だけ入館したことがあったが、記憶は殆ど無い。
今日見学してみて、「う〜ン、なかなかいい。」結構資料が整理されいる。
今回、入らなかったが、「情報サービス室」と言うのもある。今後、資料調べに利用出来そうである。冬になって、雪で自転車に乗れなくなった時、車で来よう。

やはり1時間では、時間が全然足りなかった。まじめに資料を見るには半日単位の時間が必要

1315に自宅に到着、妻から「遅い。」と怒られた。


「懐かしい。パブリカだ。」

22:12 | 歴史散策 | comments(0) | -