日本一周by自転車

定年退職を機に、「もっと日本のことを知りたい」との思いから日本一周に挑戦。
4,800kmを走ったところで事故にあい負傷。
一度、心に決めた目標は絶対に達成する!!
2年後、「北海道開拓の歴史をたどる旅」をテーマとして再チャレンジ!
2008年10月遂に日本一周を達成。
夢はまだ続く。
新しい目標は、自転車で旅をしながら郷土の歴史を調べる。
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【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(旅の前夜)
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【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(旅の前夜)

「5月7日(土)」
明日から自転車の旅に出る。
ここ数年、青森、岩手を中心に「東北の歴史をたどる旅」を行っているが、今回は、少し南下し本州の真ん中を横断するコースを選んだ。
なぜ?



「2016年越後〜信濃〜上野の旅経路図」

 これは私の周りにいる数人の仲間しか関心を持っていない事でもあるが、1876年(明治9年)、私の住んでいる北海道に、開拓使の雇われ外国人の一人として米国人のエドウィン・ダンと言う人が赴任してきた。今年は、彼が来道してから丁度140年にあたる。
 そのエドウィン・ダンが牧牛場を開いた場所が、現在の札幌市南区真駒内であり、私の散歩コースの中にある。そんな事で以前から少し彼のことを調べている。
 それがなぜ、今回の自転車旅行と関係があるのか?
 このエドウィン・ダンという人は、北海道、いや日本に最先端のアメリカ式の畜産・酪農技術を伝授した人であるとともに、後年、駐日米国公使として日清戦争の講和に多大の貢献をした人でもある。更には、新潟(直江津)に米国インターナショナル石油会社の資本を導入して石油事業を行った人でもある。彼は、昭和6年5月15日84歳でその人生の幕を閉じるまで、約半世紀にわたり日本の近代化の為につくした。永眠先は東京の青山墓地にあり、奥さんのツルさん、ヤマさん(後妻)とともに眠っている。
 今回は、そんなエドウィン・ダンが後年過ごした地(直江津)を訪ねるとともに、越後〜信濃〜上野間に残る歴史的踏み跡をたどり、最後に東京に残るダンの踏み跡、そして、お墓をお参りするというものである。
日本一周を行ってから早いもので10年になるが、自転車で走ることから、自転車を利用した歴史探索にシフトしてきた。歳相応というか、老年齢なると自分の周りのこと、自分のルーツ、故郷のことを知りたくなるものである。そんな好奇心と自転車での旅行を結びつけると心がわくわくする。
 妻からは、「もう歳なのだから考えなさい」と言われ続けているが、まだやめるわけにはいかない。しかし、歳を重ねるごとに体力・気力、思考力・判断力が低下しているのも確かである。それが為、日頃からのトレーニングが必要で、週に1・2回ほどスポーツジムに通い、山歩き、スキー、サイクリング、軽いジョギング等年間を通して行なっている。頭の体操も少々。



 
17:43 | 2016年越後〜信濃〜上野の旅 | comments(0) | -
【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(その1)
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【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(その1)

「5月8日(日)」
々堝阿粒詰廖
  自宅〜バス〜千歳空港(09:15)〜JAL2872〜(10:25)新潟空港
  新潟空港〜新潟県庁〜国道402号〜角田岬〜寺泊〜出雲岬
⊇佝時刻(自宅):06:20
L榲地到着時刻:17:30
そ蒜顱Сい硫ネットワーク宿泊旅館
チ行距離:71km
ε係:晴れ
 
「旅の記録」
 朝起て、先ずは新潟から長野の天気予報をネットで確認。
 今日・明日の天気は良さそうである。
 妻に自宅近くのバス停まで車で送ってもらい、バスで千歳空港へ。
 今年最初の自転車旅行、何か落ち着かない。「準備は良いのだろうか?」と、少し不安な気持ちはあるが、それ以上に海と、青空と、山の緑の中を走る期待感の方が大きい。新潟行の便は一列4人乗りの小型ジェット機であったが、天気が落ち着いており揺れもなく快適な飛行だった。千歳空港を飛び立ち暫くすると、眼下には3年前に走った下北半島の断崖が現れた。仏が浦の奇岩も目に入った。下北半島のまさかりの刃の部分は険しい山岳地帯で、津軽海峡に直接落ち込んでいる。よくも、こんな険しい山地を老体にむち打って走ったものだと関心をする。そして、喘ぎ喘ぎ登った恐山へのジグザグの坂道を思い出した。
 1時間もフライトすると眼下に新潟平野が広がった。そこは水を引いたばかりの一面の田圃で、太陽の光が反射しキラキラ輝いて美しかった。



「空から見る新潟平野の田園風景」

 日本一周の旅で新潟を走ったのは10年前の5月5日〜6日で、その2日後の5月8日に山形県の新庄から酒田にぬける国道47号線の道路上で転倒事故を起こし、鎖骨と肋骨を折る怪我を負った。10年前の今日である。いやな記憶のよみがえる日。
 新潟空港には定刻通り10:30に到着した。
 今日の走行はそれほど距離ではないが、早く目的地の出雲岬へ着きたいとの思いがある。空港のレストランで早めの昼食をとり、手早く自転車を組み立て、11:45分には空港前を出発した。



「新潟空港前」


「新潟空港ターミナル」

 今回の旅に備え新しい携行工具をそろえていたので、組み立ては手短に行うことが出来た。
 ここまではいたって順調。
 と、思いきや、走りはじめて2kmほど行ったところでりパンク。昨年は一度もパンクをしていないのに出発していきなりである。何やら悪い予感が脳裏を過る。
 そして、案の定2度目のトラブル。パンクを修理したあと、近くにあったスーパーで小用を達した時に自転車を固定するワイヤーを開錠する鍵を無くしてしまった。気付いたのは、その後10kmも走ってからであったので、場所は特定できているが今さら戻る訳にもいかない。幸いお守りをつけた予備鍵が1つあったのでなんとかなった。  
 やはり年のせいなのか、注意散漫で無意識の間に物事を行っているときがある。気を付けなければ。
 途中、サイクルショップがあったので、ボンドの要らないパンク修理用のパッチゴムを購入した。理由は千歳空港での預託荷物の点検で輪行バックを開けられ、揮発性のものはないかと調べられた。そして、パンク修理用に持参していた小さなボンド入りのチューブを没収された。こんな物までと思ったが、昨年仙台までフライトした時より厳しくなったようだ。(この時はANA)
 今日の宿は出雲岬の手前にある民宿であるが、食事の準備は一斉なし。事前に電話をして近くに食料品を買える店があるかと聞いたら、2km程先に店があるとの返事。宿に到着してから、さらに往復4kmも走りたくない。「それでは」と、新潟の町はずれあったコンビニで夕食と朝食の食糧を買った。
宿に着いたのは17:30。
 本当はもっと早く到着するはずであったが、民宿入口の看板が不親切で、民宿の名前ではなくオーナーの名前が掲げてあり、2度も行ったり来たりした。最後は電話のやり取りと宿に奥さんの出迎えで、やっと分かった。
今日の走行は、新潟空港を出てから新潟県庁に立ち寄り、



「新潟県庁」

 その後は、海岸線の国道402号線を西に向けて走った。最初は若干の迎え風が吹いていたが、その後風が収まり、至って順調であった。
 新潟の中心から約25kmの角田岬までの国道402号線は殆どの箇所で防風林が植わさっており、海岸線を臨むことができなかった。角田岬の手前は海水浴となっており、そこから先の寺泊までの海岸線は変化に富んでいた。



「国道402号線 防風林が植えられている」


「角田岬」


「角田岬の海水浴場」


「沿岸の風景」

 今日はゴールデンウィーク最後の日曜日でサイクリングをしている何人かの人とすれ違った。この付近は、殆どが平地で、地元の人にとっては格好のサイクリングコースの様である。



「田植えの風景 手植えが珍しい」

 寺泊は佐渡への航路があり、漁港もあり、温泉もありと三拍子そろっている観光地で、国道沿いの物産店には沢山の行楽客の姿があった。
 ここから、出雲岬までの景観が少し今までのものとは変わって来た。それは、古い建物が多く残っていたことと、神社の多いことである。昔、越後と言われていた時代、この付近は開けていたのではではと感じた。あす、直江津の郷土史家に聞いてみよう。



「神社仏閣」

 今日の宿は、海に沈みゆく夕日を眺めるには絶好のポジション。



「今日のお宿」


「宿前の海に沈む太陽」
17:38 | 2016年越後〜信濃〜上野の旅 | comments(0) | -
【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(その2)
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【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(その2)

「5月9日(月)」
々堝阿粒詰廖
  出雲岬〜国道352号〜柏崎〜国道8号〜柿崎〜直江津
⊇佝時刻(出雲岬):05;45
L榲地到着時刻(信越本線犀潟駅):10:10
   その後、直江津周辺を散策し高田へ
   ホテル到着17:40
そ蒜顱Ч眦張拭璽潺淵襯曠謄
チ行距離:68km
ε係:晴れ
 
「旅の記録」
 今日は10:30分に直江津の手前5kmにあるJR信越本線の犀潟(さいがた)駅で地元直江津の郷土史家と待ち合わせをしている。出雲岬から約70kmでそれほど遠い距離ではないが、この時間までに絶対到着しなければならない。そんな事もあり5時45分に宿を出た。



「出発前の写真」

 暫く走ると北国街道の標識があり、旧街道であるその道を進んだ。



「北国街道」

 分け行って心躍った。そこは古いが街並みが延々と続いている。出雲岬の港まで2km近く続いていた。出雲は江戸の時代佐渡金山で産出された金・銀を陸揚げした港である。古い街並みが現在まで残っているのは、そのためであった。



「古い町並み」


「郵便局」


「神社」

 岬には道の駅があり、そこには『天領の里』とデスプレーさた標示があった。



「道の駅 天領の里」

 また、出雲は良寛和尚が生まれ育った地でもある。町の至る所に関係する史跡があった。更に、出雲は明治の中ごろ石油を採掘した地でもあった。そんなドラマテックな地が出雲岬である。



「良寛の生まれ故郷」


「出雲岬は石油産出の地」

 丁度、出雲岬にある道の駅に到着したとき、犬の散歩に来ている女性がいて、「今までの出雲岬という地名は知らなかったが、古い街並みが残る美しい地でとても感激している」と話したら、「嬉しいです」と喜んでくれた。そして、ここに来るまでに感じた幾つかの疑問をぶつけた。
岬には、沖に向けて一本の桟橋が伸び、展望柵へと続いている。多分佐渡島を眺めるために作られたのだろう。そして、その柵にはチェーンに繋がれた鍵が沢山かけられていた。



「海に伸びる展望柵」


「柵に繋がれた鍵付きのチェーン」

 さっきの女性に「何故?」と訪ねてみた。若いカップルがずっと結ばれていたいためにつけるのだという。なんとも怖い話である。
 その後は、国道8号線を柏崎〜柿崎と進んだ。
 柏崎は刈羽原発のあるところである。今まで走って来た古い町並みとは一転した。原発により発展していった町なのだろう。



「刈羽原発の遠望」


「刈羽原発ミュージアム」

 柿崎から先は途中海水浴場があったり、温泉があったりと、直江津まで街並みが続いている。そして、10:10に信越本線の犀潟駅に到着し、待ち合わせのY氏と合流した。
 このY氏は、今回の旅行の最大の目的であるエドウィン・ダンとその家族の人達の直江津で過ごした踏み跡を調べ るために事前に協力をお願いしていた人である。
 Y氏の軽ワゴン車の荷台に自転車を積み、ダンとその家族ゆかりの地を車で案内してもらった。
最初に行ったのが、ダン二番目の奥さんであったマヤさんの葬儀が行われたと言われる龍覚寺 と本敬寺。実は色々な説がありどちらの寺で葬儀が行われたかははっきりしていない。
 どちらのお寺でも住職さんが対応して下さり、親しくお話ができた。直江津の特徴は付近のお寺は全てが浄土真宗であること。親鸞がこの地に流された関係もあり浄土信仰が根付いたのだろう。



「龍覚寺」


「本敬寺」


「本敬寺の内庭」


「親鸞上陸の碑」

 その後、向かったのは、ダンが石油事業を行ったという場所で、現在の信越化学の敷地の中にある、ダンの家族とその従業員の住居があったという場所は信越化学の敷地内に含まれていた。



「信越化学の工場入口」


「石油を積み出したと言われる信越本線の線路と黒井駅」


「石油施設の搬入のために艀が往来したと言われる関川の支流保倉川」


「ダン一家と外国人従業員の住居があった場所」

 その後、ダンの子供達が通学し、ダンの次男であるジェームス・ダンが校歌を作曲したという直江津小学校等を案内してもらった。校長先生は不在で教頭先生に応対してもらった。



「ジェームス・ダンが作曲した校歌」

 また、直江津小学校にはジェームス・ダンが選定し同窓生により寄贈された高価なピアノが置いてある。当時のお金で3,300円(現在に換算するとその1万倍?)



「ベヒシュタイン」

 直江津小学校の学校だよりの名前は「ジェームス・ダン」であり、伝統を受け継いでいる。



「直江津小学校正門」

 更に、直江津・高田に来たのだからと上杉謙信の居城である春日山城跡、日蓮上人上陸地、福島城跡、会津藩士の墓地、戊辰戦争で戦死した薩摩・長州藩士の墓地、レルヒ中佐の像等時間の許す限り案内してもらった。



「福島城跡碑」


「春日山城」


「上杉謙信の像」


「会津藩士の墓」


「長州藩士の墓」


「薩摩藩士の墓」


「レルヒ中佐の像」


「金谷山からのぞむ直江津の街並み」

 Y氏には、今日の宿泊場所である高田駅前はまで送ってもらい、再会を願って別れた。

 
17:29 | 2016年越後〜信濃〜上野の旅 | comments(0) | -
【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(その3)
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【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(その3)

「5月10日(火)」
々堝阿粒詰廖
  高田〜国道18号〜関山〜道の駅しなの〜豊野〜長野
⊇佝時刻(高田):08:00
L榲地到着時刻:15:05
そ蒜顱中央館 清水屋旅館
チ行距離:85km
ε係:曇り、一時小雨
 
「旅の記録」

 高田には戊辰戦争の敗戦で罪人扱いを受けた会津藩士1,700名が幽閉されたと言う歴史がある。その場所は高田城下にあった寺町で、現在のJR高田駅の西側にある。
 朝食前の小一時間を利用し、これらの寺を自転車で散策してきた。



「寺町の配置図」

 できるだけでは多くの寺の写真を納めておきたい。と、カメラを首にかけ、走り、止まり、シャッターを押す。この連続で、殆んどの寺の門前を画像におさめた。もし歩いて廻ったら半日以上の時間がかかったのでは。自転車は本当に便利な乗り物である。










「お寺の写真」

 実は今回の旅のテーマの中に高田に幽閉された会津藩士の歴史についても設定していた。それは、普段、私が行う歴史研究のテーマが『屯田兵と北海道の開拓』で、札幌の琴似(明治8年)、山鼻(明治9年)に入植した屯田兵の中に多くの元会津藩士が含まれており、其の中に、高田に幽閉され、その後斗南に移住し、そこから屯田兵に志願した者が何人かいるためである。高田に残る其の歴史跡を見ておこうと思った。
 幕末〜維新当時、高田の榊原家は徳川譜代15万石の小さな藩で、戊辰戦争時は他の譜代大名と同様その進退を決するのに悩みます。そして、戦争が北越正面に及ぶようになると、苦渋の決断をし、幕府側ではなく新政府側につくことになります。そして、以降の戦争において先鋒を務めさせられることになり、大きな人的・財政的な被害を受けました。
 その高田藩榊原家は戦後処理の会津藩士1,700名を預かることになる訳です。
 敵味方として戦った血気はやる会津藩士を預かるのですからたまったものではなかったことでしょう。そんな事を思い起こしながら朝の散策を終えホテルに戻って来た。
 朝食を取り身支度を整えホテルを出たのは08:00。



「高田駅」


「ホテル」

 今日の天気は芳しくない。雨がくる前に目的地の長野へ入りたいと思いつつ、先ずは高田城跡へ。



「高田城」

「高田城の配置図」

「旧軍の第13師団司令部が置かれていた」


「上越市立総合博物館」

 そこには上越市立総合博物館がある。事前に連絡を入れていたのであるが、その時アポ取をしていた学芸員は不在で代わりの学芸員が対応してくれた。そのため、詳しい話を伺うことができず。丁度企画展で展示してある高田藩にお預けとなった会津藩士の名簿資料を見せてくれた。それは、高田藩榊原家に残る資料で、その中に、新撰組の齋藤一が一瀬伝八の名前で記載されているのが確認できた。
 長居は禁物。雨に会いたくないので、その資料を見せて頂いただけで博物館を後にした。



「高田の名物“がんぎ”」

 長野まで、途中、特に見学をする予定はないので時々休憩を入れながら18号線を南下した。
 妙高手前で、今旅行中2度目のパンク。3日間で2回のパンクである。「どうなっているのか」と腹立たしく思う。



「パンク修理」

 国道18号線、これが一級国道なのと思えるほどの継ぎはぎだだらけのポンコツ道路である。これならパンクもするはず。



「道路はがたがた」

 妙高高原の最高地点は腕時計の高度計で計ったら750m位あった。この付近は名だたるスキー場の標識が続いていた。



「妙高高原へ向けて走る」


「妙高高原 名だたる温泉とスキー場の看板」


「もうすぐ長野県」

 12時を過ぎて少し空腹を覚えた。信州の入口に来たのだから蕎麦でも食べるかと考えながら走っていると、対向車線側に手打ち蕎麦の“のぼり”が旗めいていた。蕎麦屋は当たりもの、期待半分で店に入った。
 食べ終えて大満足。蕎麦通ではないが、味、噛みごこち、蕎麦湯、それ以外に出された二種の漬物、番茶、店の雰囲気の全てが花○でした。更に、『並み』を注文したのに、少しい多く茹でましたのでと言って大盛りを運んでくれた。店の名前は「樹香」、ペンションもかねている。場所は「一里塚 妙高」にある。



「そばの店」


「一里塚 妙高」

「北国街道の宿場」 
 野尻峠から豊野へは約300mの下りで快適この上ない。道路も新潟県から長野県に入り少し良くなったように感じがする。
 長野の宿に着いたのは3時過ぎで、幸い雨に当たることもなく、パンクはあったものの大したトラブルもなく到着した。
 長野には兄夫婦が住んでおり、兄に善光寺のガイド役を買ってもらい説明を受けながら見学をした。この善光寺。噂程度にしか知らなかったが、由緒あるお寺で、茅葺き屋根の重厚な建て方は、京都や奈良の寺とは違ったたたづまいで、「伊勢を見ずして、伊勢を語るな」と言われるのと同様、一度はお参りをするべき寺であると感じた。拝観料を払うと本堂下の回廊に入りお参する機会を得ることができる。まるっきり灯りのない暗闇の中を、壁・柱を伝いながら歩くのは一度体験の価値あり。




「善光寺」


「善光寺旧寺跡」


「善光寺門前」

 明日は上杉と武田が覇権を争った地を走る。
17:10 | 2016年越後〜信濃〜上野の旅 | comments(0) | -
【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(その4)
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【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(その4)

「5月11日(水)」
々堝阿粒詰廖
  長野〜県道35号〜松代〜国道403号〜国道18号〜上田〜小諸
⊇佝時刻(長野):07:50
L榲地到着時刻(小諸YH):17:30
そ蒜顱Ь諸YH
チ行距離:74km
ε係:小雨〜曇り〜晴れ
 
「旅の記録」
 昨晩のお宿中央館清水屋旅館は気に入った。
元々建てられたのは明治の終わりで、昭和のはじめに後ろ側の部分を増築したと言う。人によっては感じ方が違うだろうと思うが、アンティークなところが良い。特に建物の中央に螺旋状の階段があり、迷路の様に各部屋と結んでいる作りが特に気に入った。



「清水屋旅館」


「旅館内部」

 今日の長野県の天気は前半雨、昼頃から徐々に良くなる予報。では、午前中は博物館・資料館等での時間を多くとり、出来るだけ雨に当たらぬように。そして、天候が回復するであろう午後から距離を稼ぐ。そんな構想をもって07:50宿を出た。
 出発した時は丁度通勤通学時間帯で長野の町中は人・車で溢れていて非常に走りづらい。
 長野と言えば善光寺、それと、川中島の合戦である。
 今日の最大の目的は、その「川中島の古戦場」の跡地を探索するである。
 最初の目的地、八幡原の古戦場は千曲川と犀川にはさまれた中州一帯である。今はその多くが住宅地、工場用地、商業用地となっている。その一画に古戦場である八幡原史跡公園がある。数時間の合戦で武田、上杉の軍勢合わせて6000人もの人が亡くなったというから、ここは鎮魂の地である。





「犀川を渡る」


「甲越直戦地碑」


「信玄対謙信 一騎打ちの場面」


「武田・上杉戦闘配備図」

  武田は信濃から越後へ向けて領地拡張を目指し、上杉は領地の安堵を図るために一戦を交えた。第4次川中島の合戦。戦いは上杉方の勝利と言われているが、上杉が戦場から兵を引き上げたあと、武田は善光寺を含めた妙高までの一帯にまでその勢力を伸ばし武田の支配下となった。
この合戦で色々な逸話がのこっている。「謙信と信玄直接交えた」「敵に塩を送る」「娩静粛々 夜川を渡る」等であるが、それほどにこの戦いは日本人の心をくすぐる戦いであったと言える。
 「夜川を渡る」この川とは千曲川のことであるが、今日(5月中旬)の千曲川の流れは濁流の様で到底渡河のできるものではない。犀川と千曲川の中州には沢山の小河川の流れていた当時の千曲川と今のものとは比較ができないと思うが、よくも一万もの大軍が暗夜にまみれて整斉と渡河ができたものだとつくづく感心する。





「千曲川を渡る」




「海津城跡」

 千曲川を渡り武田が陣を構えた海津城(松代城)、その後、隣接する真田邸、真田家の藩校であった文武館を見学した。



「真田邸」


「文武館」

 海津城から名を変えた松代城は真田幸村の兄信幸(信之)の城である。ここに、真田家は幕末まで続いた。
 この松代にはもう一つ貴重な遺産がある。それは戦争遺産で、終戦間近この山中深くに政府機関を移すそうと、巨大な洞窟を作ったのである。それが、「象山豪」と呼ばれる。よくもまあ、こんな山中に、こんなにモノを作ったものだと思う。正気の沙汰とは思えない。こんな壕の中で、一億人民のいる国家の統治ができると考えたのだろうか?
 この洞窟。戦争とは狂気の沙汰である感じとることのできる歴史遺産である。






「象山豪」

 「象山」この壕の呼び名。どこかで聞いた名前はである。そう、あの偉大な佐久間象山である。かの人の出身がこの土地で松代藩士であったとは、ここに来るまで認識が無かった。



「佐久間象山の像」


「象山神社」

 そして、幕末の松代藩が作った藩校『文武館』に函館の五稜郭を作った武田斐三郎が招かれたとの記述が展示資料の中にあった。北海道の歴史に名を残した人の名前を見つけ何か嬉しくなった。
松代を出た時には正午をまわっていた。上杉軍が陣を張ったという妻女山を左手に望みながら国道18号線の合流点を目指し県道を走った。



「雨宮の渡し方向から見る妻女山」

「上杉の軍勢が闇と霧の中千曲川を渡ったと言う”雨宮の渡し”付近」
 左へ行くと千曲市街、右に行くと国道18号の標識。咄嗟に左へハンドルを切ったものの、やはり右だと強くブレーキをかけた。その途端にタイヤが小砂利にとられて頭から転倒、幸いヘルメットのお陰で頭部はなんともなかったが、左肩の打撲と膝に裂傷を負った。新潟県、長野県の道路整備は行き届いていない。車道脇の路側はアスファルト道路に使用した小さな砂利が散乱していて大変危険だ。昨日も妙高付近でパンクをしたが、国道18号線はこれが一級国道なのかと思いたくなるような維持状況。「一時期、コンクリートから人へ」という言葉が流行ったが、車の走る道路には補修の経費をつぎ込んで欲しい。これも、人の命を守るため。




「上田手前の千曲川」


「上田城」

「上田神社」 

 今日の宿は、小諸ユースホステル。浅間山麓の1,000mの高地にある。
 何でまたこんな高地の宿にとまるの?
 多分「ここからの眺めは最高だろう」。どうせ、標高1,000mの軽井沢まで明日走るのだから、今日の内に1,000mまで登っておけ。そんなことで、ここに泊まることにした。だけど、一日の走行の後半にこの急な登りは流石につらい。登れど登れど目的地に到着しない。
 やっとの思いで1,000台まで到着した。そして、下界の視界が開けた。



「1,000m台からの小諸の遠望」

 やはり、ここを選んで良かった。
 17:30到着YH小諸に到着
16:55 | 2016年越後〜信濃〜上野の旅 | comments(0) | -
【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(その5)
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【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(その5)

「5月12日(木)」
々堝阿粒詰廖
小諸〜中軽井沢〜国道18号〜軽井沢〜碓氷峠〜富岡
⊇佝時刻(小諸YH):07:50
L榲地到着時刻(富岡製糸場):15:15
そ蒜顱Д曠謄襯▲潺紂璽塞找
チ行距離:65km
ε係:晴れ
 
「旅の記録」
 昨晩は、ユースのオーナーから、もし良ければホールに来てください。と誘いを受けていたが、部屋に戻り、日記の整理をしていたらそのまま寝入ってしまった。申し訳ない。
 その分、朝早く目が覚めた。
 天気が良ければ、日が昇る時の景色を眺めようと期待をしていたが、生憎深い霧がかかりなにも見えず。この霧も朝食を終えた頃に晴れ上がり我の出発を歓迎してくれているかの様。
 朝食後、食卓テーブルの脇に立て掛けてあった立体型の信州周辺の地図が気になりテーブルに広げて眺めていると、ユースホステルの奥さんが近寄ってきた。大河ドラマの「真田丸」を見ているとのことで、この付近の地形と真田一族の生き方等の話で盛り上がった。ちょっと知ったかぶりをしてしまった様だが、楽しい会話ができた。
 昨日の宿泊者は私一人で、ユースホステルの皆さんは道路脇まで見送って下さった。
 また、機会があれば是非訪ねたいユースである。



「小諸ユースホステル」


「出発前の自転車」




「標高900m付近から眺める風景」



「何か北海道の牧歌的な感じに似ている」

 昨日は1,000mまで登っているので、軽井沢へは逆に下りが多かった。途中絶景ポイントで写真を撮りながら走ったが、09:30には軽井沢に到着した。



「軽井沢駅」

 ゴールデンウィークの終わった平日、あまり行楽客はいなかった。その分、目についたのがアジアの人たち。やはりこの高原の別荘地は魅力的なのだろうか。昨日行った真田家所以の松代や上田は熟年の日本人ばかりであったのとは対象的である。軽井沢では国の重要文化財である三笠ホテルを見学した。




「三笠ホテル」

 その場所は高級別荘が立ち並ぶ奥にある。ここは我ら平民にとっては異次元の世界で、そんな異空間を体験しようと走ってきた。




「高級別荘が立ち並ぶメインストリート」


「旧軽井沢」

 今日は何人かの自転車仲間と接触をした。最初はこの三笠ホテルで、見学を終え帰ろうとした時、施設の入口で写真を撮っている熟年の男女がいた。写真撮影の手伝いをした後、自転車談義となった。その方達、最近夫婦で自転車を始めたそうで、趣味が合い話が弾んだ。そして、旦那さんは日本一周の夢を語った。
 軽井沢は小さな街。すぐに町はずれの碓井峠に到着した。しかし、この場所、地図には『碓氷峠』と名前が載っているが、実際の道路上には『碓氷峠の』表記はなかった。



「碓氷峠にあった表示物」

 次に会った自転車仲間は碓氷峠のピーク。この場所に群馬県の横川側から走ってきた2人の若者(私より大分若そうだから)が休んでいた。「登りは大変でしたかと声をかけた」「いや、そんなにきつくはなかったです」との返事。彼らは、旧道の登り口の近くにある職場の同僚だそうで、最近自転車仲間が増え時々皆で走っていると言う。暫く自転車談義が弾んだ。
 碓氷峠から184曲がりの下りコースを右に左にハンドルと切りながら走った。誠に爽快である。カーブはきついが勾配はそれほどでもなく。適度にブレーキをかけながら楽に走れた。そして、鉄道遺跡「めがね橋」に到着した。そこにも自転車愛好家がいた。
 眼鏡橋は明治26年ドイツの山岳鉄道の技術を取り入れ造られたものである。よくもまあこんな橋を作ったものだ、その技術力の高さには感服する。






「めがね橋」

 この旧国道18号線は自転車愛好家にとって最高のトレーニングコースなのだろう。バイパス道路、上信越自動車道が近くを走っているので、この道を車で通る人は殆どいない。



「変わった形をした山 妙義山」

 途中、空腹を覚え今回の旅行中3度目の蕎麦をたべ富岡についた。小さな富岡の町は世界遺産の富岡製糸場一色あった。連休明けの平日であったが、製糸場の入場者は引きも切らない様子で多くの観光ボランティアの方が案内役を務めていた。
 この建物の設備には感動をした。明治5年〜6年にかけて建設されたと言うが、徳川の世からほんの数年しか経たない時に、良くもこんな近代的な建物を日本人が建てたなと思った。



「配置図」


「富岡製糸場碑」


「製糸場繭置」



「製糸場繭置所内部」


「繰糸所」


「首長館(ブリュナ館)」

 ここから生まれら生糸が日本の近代化に大きく関わってくるのである。北海道にも明治8年に製糸場が作られ養蚕が盛んとなってくる。この富岡で育った技術が全国に伝達されていったことを理解するのは容易である。
 宿には15時過ぎに到着した。旅も5日目に入り、かなり疲労がたまっている。
 宿ではシャワーを浴び、洗濯をして、食べて、寝るだけ。
 テレビが置いてあるがほとんど見ることは無い。
16:24 | 2016年越後〜信濃〜上野の旅 | comments(0) | -
【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(その6)
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【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(その6)

「5月13日(金)」
  々堝阿粒詰廖
      富岡〜国道254号〜吉井〜児玉〜嵐山〜川越
  ⊇佝時刻(富岡):07:50
  L榲地到着時刻(川越):15:00
  そ蒜顱Ю遽杪莪譽曠謄
  チ行距離:88km
  ε係:晴れ

「旅の記録」
  今日は川越まで最後の走行。天気予報は最高気温25度と少し暑いが湿度なく北海道の初夏の気候で最高のコンディション。
  昨日富岡製糸場を見学した時、奥に見えた鏑川に掛かる橋が気になっていた。あの橋から製糸場を眺めてらどのように見えるか?
  朝食前、自転車の点検をかねてその橋まで行った。そして、そこから写真を撮った。



  「鏑川にかかる橋から眺める富岡製糸場の縁」

  その時、腰に着けているポシェットの口が開いており、中に入れていた老眼鏡を橋の欄干から川へ落としてしまった。「ああ〜と」ため息が出るのみ。眼鏡のケースはみるみる下流へ流れていく。ただ呆然と見送るのみ。
 
 

  「眼鏡が川の中に」
 
   朝、駐車場の置いていた愛車を確認したら、タイヤの空気が抜けていた。すぐに予備のタイヤと交換したが、メガネの件も重なり、何やら不吉な予感がする。
  そんな思いを抱きホテルを出発した。
 


  「ホテルの前で」

  正にその兆候がすぐさま現れた。走行を開始して5kmほど走ったところで、タイヤの空気が無くなっているのに気が付いた。そして、取って置きの新品のチューブに取り替えた。もう予備はない。最後の一日だけれど予備が必要だ。と、反対車線を見たら自転車屋の看板。こんなに早い時間に開いているだろうかと店に行ったら開いていた。店には、軽快車用のチューブが1本だけあった。
  これは「凶なのか?吉なのか?」
  朝からトラブル続きで、今日は安全運転に心掛けねばと心に誓い。そこで、以降は道路の状況をチェックしながら走ろうと決めた。
  碓氷峠を超え、昨日から群馬県内を走っているが、長野県側と群馬県側では補修の状態が違う。長野県側、新潟県の国道18号線は最悪で、以前にも記したが、アスファルトの表面が剥がれ小砂利が路側に散乱し、これが一級国道なのかと思いたくなる様なものだった。 群馬県側それほどでもない。今日走っている国道254線であるが、群馬県側と埼玉県側では、また、少し違う。埼玉県側は道路の建設時のお金をかけたのだろうか、歩道部分の植樹もなされていたりする箇所もあったが、今は草がぼうぼうでみる影もないところがある。



  「路側が無い」


  「路側は危ない」


  「なんでこんなところにバックミラーが」

 



  「歩道に作った花壇は草ぼうぼう」

  ところで、目を転じて地元北海道のことを言うと、最近の北海道の道路もガタガタのところが多い。昔、湯水のごとくにつぎ込まれた北海道開発予算が途絶えたせいである。
  高齢化が叫ばれ、医療、介護に税金を投入せざるを得ない現状では道路の維持・整備にかける予算は制限がかかるのだろう。最近はさらに子育てや福祉にも予算を回さなければならないご時世。国の予算は打ち出の小槌ではない。国が貧しくなれば道路はガタガタになる。
  今日は、国道254号線の標示を追いかけて走ったが、寄井の入り口でその数字がなくなった。変わって出てきた国道140号線の表示に暫く従ったが、次の交差点でも254号線の標示がない。不安になり元来た道を引き換えした。そして、地図を確認し、スマホの地図ソフトを開き現在地と地図の位置関係を見比べようとしたが、「ああ老眼鏡がない」。液晶の道路番号が読み取れない。この時に川に落とした眼鏡が効いてきた。途方に暮れ地図をにらみながら思案していたら、後から「どうしましたか?」と声をかける女性の声がした。
「二つ目の交差点を右に曲がり、次の信号を右に曲がると254号線の標識がある」と、天の助けであった。
  この女性の父親はブルベというサイクリングに打ち込んでいる人で、本人自身も200kmの走行をする様なサイクリストであった。
  それ以降の、走行は何の不安もなく予定より早く目的地の川越についた。
 


 

「川越の旧街道筋」
 
  今日・明日と川越で2泊し、5月15日成田発千歳行きの便で札幌の自宅に帰る。
  川越2泊は東京と埼玉にいる子供達に会うのと、東京でエドウィン・ダンの踏み跡をたずねるとともに東京在住の郷土史家と会うためである。
  自転車旅行は今日で終わる。
15:42 | 2016年越後〜信濃〜上野の旅 | comments(0) | -
2016年越後〜信濃〜上野の旅(旅を終えて)
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【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(旅を終えて)

「5月15日(日)」

  昨日(5月14日)は、東京におけるエドウィン・ダンの踏み跡の探索と、ダンのお墓にお参りをするため都心に向かった。
  川越から東武東上線〜山手線〜東京メトロ日比谷線に乗り継ぎ地下鉄広尾駅へ。



「広尾駅」


「広尾駅周辺」

  そこからは歩いて日赤医療センターや聖心女学校のある広尾ガーデンヒルズ一帯を散策した。
  この場所は、エドウィン・ダンが明治6年に北海道開拓使の農業技術者として日本政府に雇われ最初に赴任した場所で、開拓使の第三官園のあった場所である。江戸の時代は下総佐倉領主堀田家の下屋敷のあった所である。現在は樹木の生い茂る閑静な地域に高層住宅群が立ち並ぶ東京の一等地である。田舎から来たものには東京人のステータスの高さに嫉妬心さえ覚える場所である。



「聖心インターナショナルスクール」


「広尾ガーデンヒルズ」


「高層マンション群」


「堀田家当時からあった銀杏の古木」


「ガーデンヒルズゲート」


「日赤医療センター」

  そこから、さらに歩いて向かった場所は青山墓地である。この墓地には著名な人物の墓も沢山あるが、それらにはわき見も振らずエドウィン・ダンの墓をさがした。



「青山墓地南入口」

  エドウィン・ダンの墓は、南北に伸びる中央通りの北寄り、外国人の墓が集められた墓地の一角に二人の奥さん(ツル、ヤマ)の墓とともにあった。



「エドウィン・ダンの墓」


「ツルの墓」


「ヤマの墓」


「ダンとその家族の墓群」


「中央通り」


「青山墓地管理事務所」

  その後、ダンが晩年過ごしたと言う代々木付近を訪ねるため、青山墓地から青山一丁目まで歩き、そこから、大江戸線に乗り代々木まで行った。
  ダンが晩年過ごした場所は特定できていないので、小田急南新宿駅〜参宮橋駅付近の一帯を散策した。今までの訪ねた広尾、青山一帯とは正反対の入り組んだ小道が縦横に伸びる住宅地で、新宿、代々木の繁華街のすぐ隣にある場所である。ダンが生活した時代には新宿の繁華街は無く明治神宮前の森に接した閑静な住宅地であったのあろう?






「明治神宮の緑地」

  小一時間ほど歩き回ったが、この付近に住んでいる人達なのか外国人の姿が多くあった。今まで何度か東京見物はしているが、それは、東京、上野、新宿、渋谷、品川等、駅周辺の繁華街や観光名所であり、今回のように、さらに一歩踏み込むことがなかったので、今まで気が付かなかった東京の一面を見ることができた。
  その後、14:30に東京在住で直江津におけるエドウィン・ダンとその家族の人達の踏み跡を調査している方と代々木で面談した。小一時間ほどの時間であったが、真駒内の話、直江津の話、今東京で見聞したことなどを話題に話が弾んだ。
  そして、真駒内での再会を願い面談を終えた。
 
 今日は5月15日。
  成田から飛行機で千歳空港へ、そして、札幌の自宅に戻り旅を終える日である。
  移動中のバスの中、飛行機の中でこの旅を振り返っている。

「旅を終えて」
  私が住む札幌市南区の真駒内に『エドウィン・ダン記念館』という施設がある。この建物の原形はエドウイン・ダンが明治9年この地に牧牛場を開いた時に、その事務所として建てられたものが、その後、北海道の種蓄場へと発展して行く中で、数次の増・改築が行われ現在に至ったものである。
  この建物はエドウィン・ダンに関する歴史資料を展示する記念館となっている。そして、私のテリトリーの中にあり、時々館に顔を出す。
  昨年末頃、北海道JRの車内誌にエドウイン・ダン記念館のことが取り上げられていると仲間内で盛り上がった。このJR機関誌には『エドウィン・ダンの「日本愛」』と題したコラムか掲載され、その中に直江津でエドウィン・ダンが行った石油事業のこと、ダンの子供であるジェームスが直江津小学校の校歌を作曲したことなどを取り上げていた。
  今年(平成28年)は、ダンが北海道に赴任して丁度140年になる年である。
  この記念すべき年に、エドウイン・ダンと関わりがあった直江津とダンの墓がある東京を結びつけて自転車旅行をしようと計画した。経路としては、10年前の日本一周で走らなかった越後〜信濃〜上野を結びつける国道18号線とした。
  事前に直江津、東京在住の郷土史家とコンタクトをとり情報を得るとともに、ご当地での応対をお願いしていた。そして、お世話になった。

  今回の旅の一番の成果は、これら、ご当地でお世話になった人達と近しくなれたことであり、エドウィン・ダンという人物の歴史を通じ直江津と真駒内を結びつける架け橋の基を作ることができたことである。
  最近行っている東北の旅では北海道の開拓に関わりのある津軽、下北、南部をテーマとし、大きな成果を得ているが、今回は、自分が住んでいる町に直接関係のあるテーマを選んだことにより、より一層身近なものとして成果が残った。
  それと、副次的な成果としては、今まであまり関心を持っていなかった。越後〜信濃〜上野に至る戦国時代の歴史舞台に立つことができたことである。現地の山河をのぞみ、自転車で走ると少し見えてくるものがある。それは、地形眼というもので、この川の流れ、この山の起伏、この平地、この斜面、この川渕、この田畑、この山並み、等等がこの地の歴史と深くかかわっている。そんなことが分かったような気がした。
  今年の大河ドラマは『真田丸』で真田家の生き方を取り上げているが、真田家の盛衰をこの信濃という地とのかかわりから眺めると見えてくるものを感じた。
  戦国時代の歴史も面白く、あまりレパートリーを広げすぎると大変ではあるが、自転車の旅を東北から関東、中部、北陸へと進めて行くと必然的にそれらの歴史がテーマとなってくる。
 
 自転車の旅はさらに楽しくなる。
08:04 | 2016年越後〜信濃〜上野の旅 | comments(0) | -
2015年三陸の旅パート1
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「2015年三陸の旅」
 
旅の経路


 
その
 自宅から仙台へ移動
 仙台〜石巻へ 

5月27日(水)
々堝阿粒詰廖
    自宅〜バス〜千歳空港(09:00)〜ANA4802〜(10:10)仙台空港
    仙台空港〜県道10号〜国道45号〜塩釜〜松島〜石巻
⊇佝時刻: 06:20
L榲地到着時刻:17:15
そ蒜顱Д汽鵝Ε侫.鵝Ε凜レッジ
チ行距離:79km
ε係:晴れ

「旅の記録」
  妻に車で送ってもらい自宅近くのバス停へ、そこでバスに乗り千歳空港へ。09:00発仙台空港行きのANA4802便に搭乗し仙台に着いた。
  自転車を飛行機に積み込むのは今回が初めてである。携行工具は危険物と見なされ機内に持ち込めず輪行バックの中に詰められて貨物室へ、潤滑オイルは可燃物であるため、それも叶わず没収されてしまった。
  仙台空港には予定どおり10:10に到着。空港で自転車を組み立て、所要の準備を行い11:10スタートした。


「仙台空港に到着」

  空港の敷地を出て直ぐのところに貞山掘と呼ばれる小川があるが、そこに架かる橋は傷ついたままで、この時はじめて津波の爪跡を見た。


「壊れたままの橋の欄干」

  空港から県道10号線を少し北に向かった名取川右岸に廃校となった閖上小学校があった。そこには人の気配はなく、校門脇に津波の当時の記録が遺されていた。


「閖上小学校の校舎」

 名取川を渡ると若林区の荒浜地区で、2011年3月11日の夕方のニュースで田畑を飲み込む様に津波が押し寄せる光景が映し出された場所である。
  この付近一帯には家屋がなく、県道10号線の東側、海岸よりの農地は荒れたままの状態で工事用の工作機械が作業をしていた。それは、県道10号線の嵩上げ工事をするための様であるが、さほど工事は進んでいない様子であった。


「かさ上げ道路の高さの基準」

  今回の旅は、4年前の津波で甚大な被害を受けた三陸沿岸を敢えて選んだ、そこには少々の葛藤があったが、やはり自分の目で確かめておきたかった。被災された方の心痛を思うと訪ねるべきではないのかもしれないが、メディアでは取りあげない、現実の姿も知っておきたいと思った。しかし、私の立場は旅行者であるので出来るだけ行動は慎重を期したい。
  仙台空港から塩釜までの県道10号線は大型車両が両車線を埋めて走行しており車道を走ることは出来なかった。歩道も震災以来ほとんど整備をされていないのか、砂櫟が散らばっており走りずらい。塩釜には13:35に到着した。仙台空港から30km走るのに2時間半近くのかかっている。



  少し心配になってきた。やはり、この地は物見遊山で来る場所ではないのかもしれない。
  この時、途中で経路変更、旅行自体の断念も考えた。
  塩釜の役場に立ち寄り玄関ロビーまで立ち入ったが、掲示板には復興計画と、その状況が掲示されていた。
  ところで、空港で没収された自転車用オイルを手に入れなければ、ネットで検索したら東塩釜駅の裏手に自転車屋があったので、オイルを購入するため、その自転車店に入った。しかし、店主は外出中で不在。オイルは購入できず。お母さんなのか、「このオイルなら使っていいよ」との好意に甘え少々拝借した。
  松島には14:30に到着した。ここは、観光客で賑わっていた。松島湾はそれほど大きな津波が来なかった様で爪痕は何も残っていなかった。観光地巡りに来たわけではないので松島でゆっくり見学をすることはなく、そのまま、石巻を目指した。
  石巻には16:00頃に到着したが、町の中は津波などなかったかの如く平常であった。しかし、石巻港周辺は今も津波の爪痕が残る。瓦礫の山、流出された船、車が今も残っていた。






「石巻港周辺の状況」

  塩釜も、松島もそうであったが、被災地と雖も街中は津波など無かったかのように活気が戻っていた。そして、住民の高台移転とよく言われるが、海岸近くにも新築された家屋があり、被災のリスクがあってもそこに生活をしなければならない人も多いのだろうと推察した。石巻は漁業の町であり沿岸からはなれて生活をするのが難しいのだろう。
  今日の宿はサン・ファン・ビレッジというところで、災害復興に携わる人達の為にたてられたプレハブの宿泊施設で最大宿泊人員は250人あると言う。駐車している車のナンバーを確認したが北海道からも数台あった。仕事のあるところには人は集まる。南の地区からは京都、三重からの車もあった。
  今日は仙台空港の近くでは自転車で走ることに危険を感じたが、石巻に近づく頃には車の数も減少し、これなら、明日からも走れそうである。

 
09:00 | 2015年三陸の旅 | comments(0) | -
2015年三陸の旅パート2
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「2015年三陸の旅」
その◆\亟〜岩井崎

5月28日(木)
々堝阿粒詰廖Ю亟〜国道398号〜女川〜雄勝〜北上〜陸前戸倉〜国道45号〜志津川〜本吉〜岩井崎
⊇佝時刻: 06:30
L榲地到着時刻:16:50
そ蒜顱民宿海野屋
チ行距離:112km
ε係:曇り

「旅の記録」
 昨晩泊まったサン・ファン・ビレッジはサン・ァン・バウティスタ・パークと言うところにある。この『サン・ファン・バウティスタ』という名前、伊達政宗の時代に支倉常長なる人物がスペインに使節として派遣されたときに乗った船の名前である。その船は、このパークに復元されて残っている。少し興味があったが、残念かな、時間がなく中までは見学は出来ず。


サン・ファン・バウティスタ」

 サン・ファン・ビレッジは工事関係者の泊まる宿であり、朝6時になったら食堂は人の列を作っていた。私も早々と朝食を済ませ6時半に出発。


サン・ファン・ビレッジ」

 内海の万石浦を右手に見ながら女川へ向けて走った。この万石浦ではホタテの養殖をしているのか、浜にはホタテの貝殻が山とつまれていた。
 やはり女川の漁港は壊滅的な被害を受けていた。また、付近の道路は工事車両が列を作っており、高台では住宅地建設のためバケットローダーが土砂の堀開と整地を行っていた。海岸淵にはプレハブの漁協と要塞のような建造物があった。これが復興のための工事なのか、住宅は高台へ、職場は海岸で津波に耐えうる頑丈な建物に。










「女川の状況」

 女川からさらに山中を走っていた時、車体の側面に「町民バス」と書かれたタクシーが追い越していった。そのタクシーが御前浜と言うところに停車しており、ドライバーはダンプの運転手と何やら雑談をしていた。
 「写真を撮らせて下さい」と言って話に割り込ませてもらった。この町民バス、話を聞いたら、震災の起こる前からバスに乗る人が少なく、車を持たない高齢者の足としてバスの代わりをしていると言う。そして、この付近の家では3、4台の自家用車を持っているのが当たり前で、この「町民バス」の施策は津波とは直接関係がないようである。



「町民バス」

 この付近までは、海岸線を上ったり下ったりの走行。仮設住宅は不便な山中にもある。工事関係の拠点も山中にあった。三陸のリアス式海岸の地では山中にしか仮設住宅を建てる場所がないようである。そこに住む人達の不便を思うと心が痛むが、新たな土地を求めるためには仕方のない事なのだろう。



「宅地造成の状況」


「女川第1小学校と仮設住宅」


「女川の海」

暫く走ったら雄勝という所に到着した。







「雄勝の海と漁港」

 港の周辺にはプレハブ以外、建物は何も無かった。防波堤も崩壊したままであった。あるのは工事関係の機械と車両だけ。山裾の樹木が折れ曲がっている。こんなところまで波が打ち寄せたのか。雄勝とは雄勝石が産出するところで、この石は硯、更にはスレートとして東京駅の駅舎にも使われている。
 また、サン・ファン・バウティスタと言う帆船を建造したのもこの地である。



『支倉六衛門 造船の地碑」

 雄勝から、三叉路を北上し一山を越え北上川へ抜ける積りであるが、道路標識が無く不安になり、近くのバラ園の前で経路を確認した。
 そう言えば、ここまで県道を走ってきて道路標識があまりない様に感じた。多分、津波で流されてしまったのだろうと思うが、宮城県では道路標識を直すまでの余裕がないのだろう。
 なぜ『バラ園』が、こんなところにあるのだろう?と不思議に思っていたら、このバラ園の管理をされている女性が来られ、「どうぞ見て行ってください」と案内された。そして、話を伺った。







「ローズファクトリーガーデン」

 元々、この付近には800軒ほどの家があったが、海を見渡すことが出来ない細長い町で、住んでいる人は津波が来ることなど予想もしていなかったという。そして、避難するにも両脇は山で逃げ場もなく、この地域では200人ほどが犠牲となり、行方不明者が100人ほど出たという。
 雄勝のことはメディアにあまり出てこなかったが、その被害は甚大である。
 この『バラ園』であるが、美しい雄勝を取り戻そうとこの場所に花を植え始めたという。そして、この場所を拠点に被災地の緑化支援、被災者支援等色々な活動を行っているそうだ。それには、支援に来て下さった多くのボランティアの人達や各種団体の協力があってこそ出来ることで、この小さな町にも心温まる人と人との絆があった。
 色とりどりに咲く花の前には沢山の支援者からのメッセーが添えられていた。
 この花を見て、心を癒され、こみ上げてくるものがあった。

 北上川を渡り、その後も津波の爪痕が残る海岸線を走った。付近は北上川の護岸工事で工事関係の大型車が頻繁に行き来していた。





「北上川」

 段々腹も空いてきたが、行けども、行けどもコンビニは無かった。途中で食料は補給できると安易に考えていたが、それは、間違いであった。
 神割岬という所の手前に来たとき、雑貨屋がありパンを購入し食した。店にいた老婦人に話を聞いたが、この地域で亡くなった人は、勤務先で亡くなった2人だけであるという。なぜかと言うと、下に小     
 滝港という漁港があるが、そこに住む人はわずかで、多くの人は高台に住んでいるという。過去の教訓が生かされた例である。
 暫く走って、陸前戸倉駅に到着した。ここは駅舎だけではなく全ての住居も共に流されてしまったところである。
 鉄道線路にはアスファルトが敷かれバスが走っている。リニューアルした駅舎の他、今は何も無かった。古い地図には小学校、農協、ガソリンスタンド、コンビニの表記があるが今は何も残っていない。






 昼を少し回った頃に志津川(南三陸町)に到着をした。ここは、例の鉄骨だけの防災センターのある町である。高台から町を眺めようと志津川高校に通ずる坂道を上った。今は赤土がうず高く積み重ねられているだけの町になっている。


「防災センター」




『志津川高校の入口から見る市街地方向」

 沢山の犠牲者を出したという元老人ホーム。今そこは農協の建物になっているが、その入り口付近で仮店舗を構えている男性から話を聞いた。登米の仮説住宅から通っているという人であった。
 この付近に住宅を建てることが禁止されている。うず高く積まれた赤土の山は国道45号線の土台であると言う。高さが20mは有ろうかと思われるような代物もあった。
 国は津波から町を守るために万里の長城を築こうとしているようである。この土の山はいたるところにあった。



「かさ上げ工事の状況」

 南三陸町役場は高台に移転を完了していた。そこには、復興計画が掲示されていた。大きくは住宅の高台に移転と沿岸部の再開発である。復興課の職員に進捗状況を質問した。20箇所の宅地を造成中であると言う。国が行う国道のかさ上げ、県、町の行う復興事業、役場は活気にあふれ、まさに国づくりをやっている感がある。
 一代プロジェクトの推進といってもいい。「体を壊さないようにして下さい」。と声をかけ役場を出た。



「南三陸町役場」


「復興構想」


「JR気仙沼線は鉄道からバスへ」

 今日の宿は岩井岬にある民宿崎野屋、当然この岬も津波が襲ったはずだが、何故?
 宿主に聞いたが、半島では、この民宿を含み10軒だけが被害を免れたという。奇跡としか言いようがない。

 
08:58 | 2015年三陸の旅 | comments(0) | -