日本一周by自転車

定年退職を機に、「もっと日本のことを知りたい」との思いから日本一周に挑戦。
4,800kmを走ったところで事故にあい負傷。
一度、心に決めた目標は絶対に達成する!!
2年後、「北海道開拓の歴史をたどる旅」をテーマとして再チャレンジ!
2008年10月遂に日本一周を達成。
夢はまだ続く。
新しい目標は、自転車で旅をしながら郷土の歴史を調べる。
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2017年十勝の旅(旅の前夜)

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2017年十勝の旅(旅の前夜)

【明日『十勝の旅』に出発する】


「8月21日(月)」
 今回の旅は、昨年計画を立てたものの行くことができなかった旅のリベンジである。
 1年前の平成28年8月25日から4泊5日の予定で、今回とほぼ同様の旅を計画していたが、8月23日に台風第9号が北海道に再上陸し、道北・道東一帯に大きな被害をもたらしたことから、出発直前になって中止を決心した。結果オーライで、もし、行っていれば、通行止めの道路に遭遇するだけではなく、被災地を廻ると言うことになって仕舞った。
平成28年は、北海道に5つの台風が上陸(内3つが再上陸)するという、過去の記録に無いような事態が発生していたことを記しておく。
 今回の旅のテーマは、昨年考えたものと同じであり、当時の日記に書いたものを載せる。
 「今から30年近く前、2年間ほど帯広に住んだことがあった。その時は、まだ、元気バリバリの時で、趣味はと言うとスキー、山登り。特に山登りは、帯広が日高の山、裏大雪山の山のベースキャンプ的な位置にあることから、日高の名峰と言われる多くの山を仲間たちとともに登った。
 夜中に家を出て、夜明け前に登山口に到着。空が白む頃に登山を開始し、その日のうちに下山すると言うのが常だった。地下足袋に草鞋を結び、清流に見え隠れする川石を、右に左にと踏みしめながら沢を遡上し、時には水しぶきを被りながら岩肌を登ることもあった。その先には、雪渓が待っており、さらに進むみと、そこは高山植物が咲き乱れる天上の世界が広がっていた。遂に辿り着いた細尾根から眺めた360度のパノラマは、そこに立った者でないと分からない感慨があった。
 あの頃は、歴史に特段の興味はなく、帯広の博物館である『百年記念館』にも行くことも無かったし、十勝開拓にその名を残した依田勉三という人物の名前すら知らなかった。
 今回の自転車旅行のテーマは『十勝開拓の歴史をたどる』とした。
 日本一周を達成した平成19年以来、屯田兵の入植地を中心に北海道開拓の歴史のテーマとして色々なところを自転車で走ってきた。しかし、それらの経路を記した北海道地図の中で、唯一とも言うべき空白地帯が十勝平野から北見へ抜けるルートである。
「なぜか?」それは、屯田兵が入植しなかった場所であるからである。
 今回の旅のテーマのメインは、十勝に開拓に尽くした「依田勉三、二宮尊親、関寛斎の踏み跡をたどる」である。
札幌からサイクリングを開始するJR新吉野駅まで輪行で移動し、十勝川沿いを北上し、晩成〜豊頃〜帯広〜幕別〜池田〜本別〜足寄〜陸別〜置戸〜留辺蘂〜遠軽まで約350kmを走るものである。
 旅を予定している22日〜26日までの天候は、落ち着いており良い旅が出来そうである。

 

【2017年十勝の旅経路図】

 

 

 

12:33 | 2017年十勝の旅 | comments(0) | -
2017年十勝の旅(その1)

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2017年十勝の旅(その1)
【十勝入植玄関の地・大津からスタート】


「8月22日(火)」
々堝阿粒詰廖
 自宅〜札幌駅発 「スーパーおおぞら1号」 帯広駅着・発 ローカル線 新吉野駅着 新吉野〜大津〜R336〜湧洞〜晩成
⊇佝時刻(自宅):06:00
L榲地到着時刻:15:30
そ蒜顱Д札レイ館
チ行距離:49km
ε係:雨
旅の記録
 昨日の天気予報では22日の天気は一日曇りであったのに、今朝起きて出発準備をしていたらポツポツと雨が降り出した。ネットで最新の天気予報を確認したら、これから向かう、十勝の天気予報は午前中曇りで午後から雨のマーク。「何なんだ」とつぶやいてしまった。
 近くの地下鉄駅まで車で送ってくれた妻に「天気が悪いから止めれば」と言われ、逆に発奮する。
 JR札幌駅07:00発釧路行きの特急「スーパーおおぞら」で帯広へ、09:24帯広着。

 「乗車中の輪行バック」

 「帯広駅」

 

 「仙台から来た大学生」

 

 「豚丼の店の壁に書かれていた」

 「開拓のはじめは 豚と一つ鍋」依田勉三が詠んだ句である。

 

 そこから各駅停車に乗り換え十勝川河口近くにある「新吉野」駅に11時18分に到着した。

 

 「釧路行普通列車」

 

 「新吉野駅」

 

 当然新吉野駅は無人駅で、駅前の両側に数件の家が立ち並んでいたが人の気配はまるきりなかった。
 この駅が実質的な旅のスタートで、自転車の組み立てを終えて12:00に出発をした。先ずは、15km程南に下ったところにある十勝川河口の町「大津」に到着。

 

 「十勝川河口」

 

 「十勝川河口橋」

 

 「大津の町」

 

 そこからサケ釣りの竿が延々と続く海岸線を湧洞湖に向けて走り、生花苗というところに到着した。

 

 「サケ釣りの竿の列」

 

 「湧洞・豊頃の標識」

 

 「生花苗」

 

 この場所は、今回の旅の目的の一つである「依田勉三が創設した晩成社の二度目の入植地である」

 「晩成社集落の図」

 

 「依田勉三の住居(復元)」

 「現在の牧場の風景」

 「牧場の牛」

 

 依田勉三とは帯広開拓の祖と言われている人物で、伊豆松崎で結成した晩成社の同志13戸27人を率いて明治16年5月に帯広に入植、翌明治17年に生花苗に再移住。過酷な状況にもめげず開拓に励み、今日の帯広・十勝発展の基礎を築いた。晩成社が最初に入植した場所でもある中島公園に依田勉三の銅像が建っている。
新吉野からここに来るまで約2時間半は雨に降られぱなしであった。時には強く降る時もあったが、走行に支障を与えるほどのものではなかった。
 今日のお宿の「セキレイ館」には15:30に到着した。普通の農家の建物をそのまま宿にしたような造りで、横手には元々家畜小屋だったのか?車庫を兼ねた物置小屋があり、そこに自転車を格納し濡れた衣類を干した。そして、16:00過ぎごろ館に入った。私が一番乗りで、そのすぐ後に、大阪から来たサイクリング部の大学生、そして、同じく大阪の女性ライダーが到着した。
17:00、近くにある晩成温泉ツアーがあり、宿の主人が運転する車で送迎してもらった。中々いい湯で、雨に打たれ疲れ切った体を癒した。
 風呂仲間3人を含め7人の旅人が、この日に宿泊した、その内、5人がサイクリング、1人がライダー、1人はサイクリングの付き添いとうメンバーで、夕食時、食後の会では旅行談義で盛り上がった。
この場所(晩成)は、丁度、襟裳から広尾、大樹、厚内、白糠、釧路へ抜けるルート上にありライダーや、チャリダーのメッカになっている。
 「セキレイ館」の主人はバイクを、奥さんは自転車愛好家で、旅人の交流を促すもてなしをしてくれた。ありがたい。

 

12:31 | 2017年十勝の旅 | comments(0) | -
2017年十勝の旅(その2)

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2017年十勝の旅(その2)
【依田勉三、二宮尊信入植の地を走る】


「8月23日(火)」
々堝阿粒詰廖
 晩成〜R336〜生花苗〜湧洞〜二宮〜豊頃〜R38〜幕別〜帯広
⊇佝時刻セキレイ館: 08:45
L榲地到着時刻:16:30
そ蒜顱Д肇ぅ團ル北帯広YH
チ行距離:89km
ε係:晴れ・薄曇り
旅の記録
 4時半頃に目が覚めた。窓から差し込む光線が今日の天気を象徴していた。
 大阪の大学生は、昨晩、明日は早朝の4時に出発して釧路に向かい、部活の仲間と合流すると話していたが、彼のベットの上は整理をされていたので、その通りの、行動を行ったようである。
 朝の光線が牧草に反射して美しかったので、朝食前の時間を利用し、自転車の点検を兼ねて宿の回りを少し走った。

 

  

 「晩成の景色」

 

 「日高山脈を遠望」

 

 同室であった東京から来ていた自転車仲間は7時頃に出発をしたので、宿の主人とともに見送った。
 残った旅の仲間は5人となり皆一緒に朝食をとった。
 たった一晩のお付き合いであるが、温泉ツアー以来の人もいて、かなり、親しい話が出できる間柄となっていた。
もう少し話をしていたい気持ちもあったのだが、豊頃の郷土資料館に「10頃に行きます」と連絡を入れていたので、「そろそろ出発します」と言って腰を上げた。
 宿の夫婦、残った旅仲間全員で見送ってくれた。

 

 「セキレイ館」

 

 これから向かう豊頃は二宮尊信と興復社の人達により拓かれた地である。
 二宮尊信とは、二宮金次郎こと二宮尊徳の嗣孫である。尊信以下、興復社の人達たちは明治30年、まだ手付かずの未開の原野であったこの地に入植。当時、資本家が小作人を雇い入れて開拓事業を推進する中で、尊信は入植者を独立させた自作農に育成する報徳精神に基づく開拓を行った。これは、開拓事業の模範例となり多くの開拓を牽引する指導者たちへ影響を与えた。
 昨日と打って変わった強い日差しの中を、朝のひんやりした空気を切りながら走った。心地よかった。2時間程で豊頃の二宮地区に入いり、更にしばらく行ったところにある報徳二宮神社で小休止を入れた。
 

 「二宮の農村風景」


 「二宮報徳神社」

 

 入口の鳥居をくぐってから参道が続いており、拝殿は丸山の頂上にあった。距離にして200m以上で、休憩がてらお参りしようと思ったのに、自転車で走っている時よりもきつかった。報徳記念館に到着したのは11時前であった。

 

 「二宮小学校の銘板」

 

 「報徳記念館」

 

 「二宮尊信の墓」

 

 この館は、廃校になった豊頃町立二宮小学校の校舎を利用したものであったが、二宮尊徳、二宮尊信や報徳思想学んで開拓を行った人達を紹介する資料も展示されており充実した内容のものだった。館におられた方は元高校の世界史の先生のS氏で、その知識は豊富で二宮尊信、豊頃のことだけではなく、興味をそそる事象を沢山教えてもらえた。
 あっという間に12時を過ぎてしまった。まだ、昼食も取っていない。帯広までまだ50km以上ある。この炎天下である。今後の研究のため、自己アピールと今後の協力をお願いし、後ろ髪を引かれる思いで報徳記念館を後にした。
昼食は豊頃町役場の近くにあった唯一(?)一軒の食堂で取った。暑さのため食欲が湧かなかったが、塩分多めのメニューを選んで食べた。
 幕別〜利別の町を過ぎて、札内川を渡ってすぐのところが依田勉三と晩成社の社員が入植した場所で町名も依田町と付けられている。そこに、「帯広発祥の碑」建っている。

 

 「帯広発祥の碑」

 

 「依田町の標識」

 

 それから、3町ほど行ったところに中島公園があり、依田勉三の凛とした銅像が建っている。

 

 「依田勉三の像」

 

 「晩成社の同志」

 「十勝川」

 「札内川」

 

 そして、中島公園の向かえ側にある帯広神社に参拝し、今日宿泊予定のトイピルカ北帯広YHに向かった。
 帯広百年記念館の見学を計画していたが、炎天下の走行で疲れてしまい、割愛をした。
 YHに到着したのは16時30であった。

 

 「トイピルカ北帯広YH」

 

 

12:18 | 2017年十勝の旅 | comments(0) | -
2017年十勝の旅(その3)

2017年十勝の旅(その3)
【利別川沿いの入植地を走る】


「8月24日(火)」
々堝阿粒詰廖
 幕別〜R242〜池田〜本別〜足寄〜陸別広
⊇佝時刻トイピカル北帯広YH: 08:10
L榲地到着時刻:15:50
そ蒜顱 オーロラハウス
チ行距離:99km
ε係:曇り
旅の記録
 トイピカル北帯広YHでも印象的な出会いがあった。宿泊客は多くいるのに何故か夕食、朝食をとる人は数人だけ、夕食は4人、朝食はその4人と、3人父子?であった。そのため、夕食、朝食を共にした4人は話が弾んだ、プライベートな話はしなかったが、私を含めそれぞれが変わった人であった。一人は70歳前の長髪の自由人で、一年の殆んどを旅行に費やしていると言う大阪の人。一見、川端康成風の容姿で、今回の旅行の目的は8月22日に増毛・留萌に行くこと。その理由は、昭和20年8月22日が留萌沖でソ連の潜水艦に樺太から引揚者を載せた三隻の船が攻撃を受け多くの殉職者を出した「三船殉難事件」があった場所であったからであり、その一年前に沖縄から学徒をのせた疎開船「対馬丸」が撃沈された日と重なると言うことで、今回の旅の目的としたと話していた。こんな旅をしている人に会ったのは初めてで中々興味深い。もう二人は千葉からきたという母娘?帯広に一週間滞在すると言う。このYHをでた後は、「糠平」のYHに2泊、「八千代」のYHに2泊すると言う。特に観光地を巡るとかという考えはないらしい。お母さん?は聴き手上手で、我々初老の男性二人の話を熱心に聞いていた。そして、娘さん?は、二人の話を興味深そうに聞き入っていた。
 YHは宿泊した人達と交流するには最適の宿で、そんなことが理由で宿泊し食事を共に旅人も多いのだろう。
 7時からの朝食を済ませ、準備を整えたあと08:10に出発をした。
 今日の天気は曇りベースで、暑くもなく、寒くもなく、走行には不安材料な何もない。十勝川温泉から池田に入り、利別川沿いを北上した、途中高島にある池田町立郷土資料館に立ち寄った。
 池田町の高島地区は、横浜の実業家である高島嘉右衛門が332万坪の未開の原野を買い付け、小作人を入植させた地である。この郷土資料館にはそれらに関する資料が展示してあり、興味を持って入館した。

 

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「利別川」

 「池田町立郷土資料館」

 「池田町立高島中学校の門柱」

 「高島の農場の風景」

 

 次に訪れたのは本別町の郷土資料館である。こちらの方は、ネットでバロン西こと(ロサンゼルスオリンピックの馬術で金メダルを受賞し、硫黄島で戦死した西中佐)や戦前本別にあった軍馬供給部に関する特別展を開催していたので立ち寄った。貴重な資料が沢山展示してあり1時間ほど興味深く見学させてもらった。
 帰り際、本別町の歴史に詳しい館長さんにも挨拶をすることが出来た。その時、館を案内しますかと話されたが、これから、50kmほど走り陸別に15時30分頃には到着しなければならないのでと、「残念ながら」との言葉を添えお断りをした。そうしたら、関係する資料を郵送しますというありがたい言葉をいただき感謝感激した。

 「本別町歴史民俗資料館」

 「西中佐」

 

 館を出た後は、亡くなった馬を慰霊する忠魂の碑に参拝し、軍馬供給部十勝支所のあった現在の北海道立農業学校、それと、軍馬を送り出した旧仙美利駅に立ち寄り、足寄〜陸別へ向かった。


 「軍馬忠魂の碑」

 「北海道立農業学校」

 「軍馬供給部で使っていた古い建物?」

 「仙美利駅」

 

 通過しただけが足寄は松山千春の故郷である。走りながら千春の歌を口ずさんだ。
陸別の郷土資料館のある旧陸別駅舎に建てられたオーロラハウスには15:50に到着した。事前に連絡を入れていた郷土史家のS氏が待っていてくれていた。とりあえず、現場を案内しますと言うことで、S氏が運転する自家用車に乗せてもらい、関神社跡、寛斎の住居でもあった陸別駅逓跡、寛斎とその妻であるあいの墓所、そして、関牧場のあった場所を小一時間ほどで案内をしてもらった。

 「関寛斎の像」

 「オーロラハウス」

 

 関寛斎と言う人物は、現在の千葉県東金市の農家の子として生まれ、迎えてくれた養家の計らいで医学の道に進み、戊辰の役では官軍の奥羽出張病院長になるほどの大人物。72歳になった時に一念発起し北海道の陸別の開拓事業に全財産を投入し移住した。あまりメジャーになっていないかも知れないが、もし、彼の人生をNHKの大河ドラマにしたら、多くの人の心を引きつける物語になりそうな人物である。
 今日の夕食は関家寛斎顕彰会のメンバーとの懇親会を予定していますと言うことで、感謝感激をしてお受けした。私以外に、千葉県から一週間ほど調査研究のため滞在している方にも案内しているという。本当に心のこもったもてなしに陸別の人の温かみを感じた。
 18時からの開始であったが、あっという間にホテルの門限時間23時になって仕舞った。5時間近く何を話したのか?その一部は覚えているが、楽しく有意義な時間を過ごすことが出来た。
明日は陸別に滞在である。心置きなく眠ることが出来る。

12:01 | 2017年十勝の旅 | comments(1) | -
2017年十勝の旅(その4)

2017年十勝の旅(その4)
【関寛斎と関牧場の今は】


「8月25日(金)」
々堝阿粒詰廖
  資料館見学、陸別周辺
⇔κ迷攤
宿泊:オーロラハウス
ち行距離:25km
ヅ係:晴れ時々曇り
旅の記録
  6時近くまで眠ることができた。いつも4時頃には起きているので久しぶりである。
  朝食の後、道の駅にもなっているオーロラハウスの前の出店で、採れたての野菜を買い自宅に宅急便で送ることにした。
  なぜか、昨晩ご一緒した関寛斎顕彰会のメンバーの中に農業を営む方がいて、その晩餐の料理の中で出されたカボチャが美味しくて、「何処で買えばいいの」と聞いたら、「明日は朝市の日だからオーロラハウスの前で買うことが出来るよ」と言っていたためである。出店の前には、昨日そのように話されたご本人も来られており、昨晩のお礼の挨拶をした。
今日の行動は、先ず、資料館の展示物に一通り目を通し、その後、現地を廻る。そんなことで、9時頃からオーロラハウス内の資料館を小一時間ほど見学した。資料は関寛斎の歩んだ道に沿って系統だって整理・説明されてあり、かつ、分かり易く展示されていた。また、閲覧室スペースには関寛斎自らが書いた日記などの複製本が閲覧できるように本棚に置かれていた。素晴らしいの一言に尽きる。一般的な資料館、博物館では、これらの古文書に類する資料は倉庫の資料室に仕舞って在り、人目には触れないように扱っている。
  地元郷土史家のS氏は、見学の申出を受けた場合、資料館での説明、現地の案内も引き受けて下さると言うがその情熱には頭が下がる思いである。
  資料館を見学した後は、自転車で現地を廻って来た。先ずは、昨日S氏に案内して頂いた史跡のある場所を。


 

 「関神社跡」
 

 「関寛斎顕彰の碑」
 

 「関寛斎とあいの墓」

 「墓の銘板」

「我が身ををば焼くな埋むなそのまゝに斗満の原の草木を肥せよ」と記されている。

 妻のあいは明治37年6月12日札幌で亡くなったが、本人の遺言により、札幌で埋葬されることなく、寛斎が亡くなった大正元年に遺骨をこの地に移し合葬された。

 

 「やちだもの家」

 

  澄み切った青空の天気での中で陸別の牧場風景に浸ることが出来たのは幸せであった。

 

 「陸別の農場風景 
 

 「陸別の農場風景◆
 

 「陸別の農場風景」
 

 「陸別の農場風景ぁ
 

 「陸別の農場風景ァ
 

 「利別川」
 

 「斗満川」

 

  そして、今日一日の行動を終えS氏にお礼の挨拶に行った。

 

 「昨晩関寛斎を愛する仲間が集まったガンビー」

 

  陸別には著名な作家が訪れている。関寛斎の生前に訪ねたのは徳富蘆花で「みみずのたはこと」を、死後であるが司馬遼太郎が訪れ「街道をゆく」を、城山三郎が「人生余熱あり」を、最近では、高田郁が「あい 永遠に在り」を、その他に多くの作家が彼を題材にした著書を書いている。
  司馬遼太郎がこの地をおとづれた時に残したメモが、寛斎とあいの墓がある“やちだもの家”の中に展示してある。

 

 「司馬遼太郎か書き残したメモ」

 

 「陸別は、すばらしい都邑と田園です。寛斎の志のなすところ、ひとびとが不退の心で拓いたところ、一木一草に聖書的な伝説の滲みついたところです。森に、川に、畑に、それらのすべてが息づいています。」

11:39 | - | comments(1) | -
2017年十勝の旅

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2017年十勝の旅(その5)
【十勝から遠軽へ】

 
「8月26日(土)」
々堝阿粒詰廖
 陸別〜R242〜置戸〜留辺蘂〜遠軽
 遠軽発 「高速えんがる号(バス)」 札幌着
⊇佝時刻オーロラハウス:04:45
1鷏敕着時刻:10:30
自宅到着時刻:17:50
ち行距離:88km
ヅ係:曇り時々晴れ
ξ垢竜録
 今日は旅を終えて自宅に帰る日である。
 遠軽発13:30の高速バスに間に合わせ、かつ、アクシデントに対応できるように04:45関寛斎の像に別れの挨拶をして陸別をあとにした。まだ、薄暗いので前方、後方の車両へ注意喚起するために前・後のライトをつけてしばらく走った。夏と言えども陸別の早朝は寒い、気温は12度で、長袖にヤッケを羽織った。
 朝食は旧置戸駅のホール内で取った。

 「置戸駅」

 「人間ばんばの像」

 

  留辺蘂付近に到着した頃から、空は晴れわたり美しい農場の景色を拝めた。

 「留辺蘂付近の風景 
 
 「留辺蘂付近の風景◆

 

   留辺蘂から更に暫く進んだところに旧金華駅というところがある。その駅舎から300m程行ったところの国道242号線沿いに「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」が建っている。そこは、元金華小学校の跡地にあった。

 「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」

 「金華駅と停車している車両」

 

   北海道の開拓には負の遺産も沢山ある。その一つが、大正元年から同3年にかけて行われた常紋トンネル工事である。この工事では多くの労働者(タコ部屋労働と言われている)を酷使し、百数十名の殉難者を出したと言われている。
   ここから常紋峠までは数キロであるが、その峠を越えたあたりから横風が強くなり、雨がぱらつき始めた。生田原に到着したのは09:15であった。
   雨宿りがてら生田原のミュージアム「ちゃちゃワールド」に入ろうと思いきや、会館は09:30と言うことで、しばらく玄関前で待たせてもらった。この施設は今から20年前に建てられたと言う。町の活性の起爆剤として考えたのかも知れないが、いまでは、高速道路が遠軽まで延びようとしており、国道242号線を通行する車両がさらに減少して行く中で、館を維持する経費だけが膨らんでゆくのかな?

 

「ちゃちゃワールド」
 

  遠軽の町から通勤しているという受付の女性と嘆きに近い雑談をした。
  10:30遠軽に到着。輪行バックに自転車を格納しバスの到着をまった。

 

【旅を終えて】
 今年最初で最後の自転車の旅を無事に終えることが出来た。
日本一周を達成してから9年が経ち、年齢も66歳となった今、やはり体力的には大分衰えを感じるようになった。今回それを実感したのは、同じ一日の走行距離であっても、過去に走った時の距離感と現在のそれでは大分違ってきたなということ。数年前までは10kmや20kmなどは、すぐ近くと感じていたものだが、「まだ20kmあるの」、「まだ10kmもある」と言う風に感じながら走っていた。そして、中々目的地に到着せず、頻繁にサイクルメーターの距離計をのぞき込んでいた。
 私の自転車の旅は、自転車で走ることを目的としているものではなく、自転車と言う乗り物を使い歴史探索をするということであるので、一日の移動距離を短くし、天候の安定している時期を見計らって行えば、まだまだ大丈夫であろう。
   旅の動機づけで一番大切なものは、その旅を通じて「感動」を受けることが出来るかどうかである。「感動」とは人との出会いの中にあり、視覚、聴覚、臭覚などの五感で感じ取る土地そのものの中にある。
旅の醍醐味は、旅先での出会にあると言うが、まさにその通りで、「一期一会」の出会いを楽しみ、名前も交わさず、思い出だけを胸の中にしまい分かれる。
   たった4泊5日の今回の旅でもそんな思いが沢山つまっていた。
   この思いがある限り、わが旅はまだ終わらない。

11:09 | 2017年十勝の旅 | comments(1) | -
【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(旅の前夜)
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【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(旅の前夜)

「5月7日(土)」
明日から自転車の旅に出る。
ここ数年、青森、岩手を中心に「東北の歴史をたどる旅」を行っているが、今回は、少し南下し本州の真ん中を横断するコースを選んだ。
なぜ?



「2016年越後〜信濃〜上野の旅経路図」

 これは私の周りにいる数人の仲間しか関心を持っていない事でもあるが、1876年(明治9年)、私の住んでいる北海道に、開拓使の雇われ外国人の一人として米国人のエドウィン・ダンと言う人が赴任してきた。今年は、彼が来道してから丁度140年にあたる。
 そのエドウィン・ダンが牧牛場を開いた場所が、現在の札幌市南区真駒内であり、私の散歩コースの中にある。そんな事で以前から少し彼のことを調べている。
 それがなぜ、今回の自転車旅行と関係があるのか?
 このエドウィン・ダンという人は、北海道、いや日本に最先端のアメリカ式の畜産・酪農技術を伝授した人であるとともに、後年、駐日米国公使として日清戦争の講和に多大の貢献をした人でもある。更には、新潟(直江津)に米国インターナショナル石油会社の資本を導入して石油事業を行った人でもある。彼は、昭和6年5月15日84歳でその人生の幕を閉じるまで、約半世紀にわたり日本の近代化の為につくした。永眠先は東京の青山墓地にあり、奥さんのツルさん、ヤマさん(後妻)とともに眠っている。
 今回は、そんなエドウィン・ダンが後年過ごした地(直江津)を訪ねるとともに、越後〜信濃〜上野間に残る歴史的踏み跡をたどり、最後に東京に残るダンの踏み跡、そして、お墓をお参りするというものである。
日本一周を行ってから早いもので10年になるが、自転車で走ることから、自転車を利用した歴史探索にシフトしてきた。歳相応というか、老年齢なると自分の周りのこと、自分のルーツ、故郷のことを知りたくなるものである。そんな好奇心と自転車での旅行を結びつけると心がわくわくする。
 妻からは、「もう歳なのだから考えなさい」と言われ続けているが、まだやめるわけにはいかない。しかし、歳を重ねるごとに体力・気力、思考力・判断力が低下しているのも確かである。それが為、日頃からのトレーニングが必要で、週に1・2回ほどスポーツジムに通い、山歩き、スキー、サイクリング、軽いジョギング等年間を通して行なっている。頭の体操も少々。



 
17:43 | 2016年越後〜信濃〜上野の旅 | comments(0) | -
【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(その1)
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【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(その1)

「5月8日(日)」
々堝阿粒詰廖
  自宅〜バス〜千歳空港(09:15)〜JAL2872〜(10:25)新潟空港
  新潟空港〜新潟県庁〜国道402号〜角田岬〜寺泊〜出雲岬
⊇佝時刻(自宅):06:20
L榲地到着時刻:17:30
そ蒜顱Сい硫ネットワーク宿泊旅館
チ行距離:71km
ε係:晴れ
 
「旅の記録」
 朝起て、先ずは新潟から長野の天気予報をネットで確認。
 今日・明日の天気は良さそうである。
 妻に自宅近くのバス停まで車で送ってもらい、バスで千歳空港へ。
 今年最初の自転車旅行、何か落ち着かない。「準備は良いのだろうか?」と、少し不安な気持ちはあるが、それ以上に海と、青空と、山の緑の中を走る期待感の方が大きい。新潟行の便は一列4人乗りの小型ジェット機であったが、天気が落ち着いており揺れもなく快適な飛行だった。千歳空港を飛び立ち暫くすると、眼下には3年前に走った下北半島の断崖が現れた。仏が浦の奇岩も目に入った。下北半島のまさかりの刃の部分は険しい山岳地帯で、津軽海峡に直接落ち込んでいる。よくも、こんな険しい山地を老体にむち打って走ったものだと関心をする。そして、喘ぎ喘ぎ登った恐山へのジグザグの坂道を思い出した。
 1時間もフライトすると眼下に新潟平野が広がった。そこは水を引いたばかりの一面の田圃で、太陽の光が反射しキラキラ輝いて美しかった。



「空から見る新潟平野の田園風景」

 日本一周の旅で新潟を走ったのは10年前の5月5日〜6日で、その2日後の5月8日に山形県の新庄から酒田にぬける国道47号線の道路上で転倒事故を起こし、鎖骨と肋骨を折る怪我を負った。10年前の今日である。いやな記憶のよみがえる日。
 新潟空港には定刻通り10:30に到着した。
 今日の走行はそれほど距離ではないが、早く目的地の出雲岬へ着きたいとの思いがある。空港のレストランで早めの昼食をとり、手早く自転車を組み立て、11:45分には空港前を出発した。



「新潟空港前」


「新潟空港ターミナル」

 今回の旅に備え新しい携行工具をそろえていたので、組み立ては手短に行うことが出来た。
 ここまではいたって順調。
 と、思いきや、走りはじめて2kmほど行ったところでりパンク。昨年は一度もパンクをしていないのに出発していきなりである。何やら悪い予感が脳裏を過る。
 そして、案の定2度目のトラブル。パンクを修理したあと、近くにあったスーパーで小用を達した時に自転車を固定するワイヤーを開錠する鍵を無くしてしまった。気付いたのは、その後10kmも走ってからであったので、場所は特定できているが今さら戻る訳にもいかない。幸いお守りをつけた予備鍵が1つあったのでなんとかなった。  
 やはり年のせいなのか、注意散漫で無意識の間に物事を行っているときがある。気を付けなければ。
 途中、サイクルショップがあったので、ボンドの要らないパンク修理用のパッチゴムを購入した。理由は千歳空港での預託荷物の点検で輪行バックを開けられ、揮発性のものはないかと調べられた。そして、パンク修理用に持参していた小さなボンド入りのチューブを没収された。こんな物までと思ったが、昨年仙台までフライトした時より厳しくなったようだ。(この時はANA)
 今日の宿は出雲岬の手前にある民宿であるが、食事の準備は一斉なし。事前に電話をして近くに食料品を買える店があるかと聞いたら、2km程先に店があるとの返事。宿に到着してから、さらに往復4kmも走りたくない。「それでは」と、新潟の町はずれあったコンビニで夕食と朝食の食糧を買った。
宿に着いたのは17:30。
 本当はもっと早く到着するはずであったが、民宿入口の看板が不親切で、民宿の名前ではなくオーナーの名前が掲げてあり、2度も行ったり来たりした。最後は電話のやり取りと宿に奥さんの出迎えで、やっと分かった。
今日の走行は、新潟空港を出てから新潟県庁に立ち寄り、



「新潟県庁」

 その後は、海岸線の国道402号線を西に向けて走った。最初は若干の迎え風が吹いていたが、その後風が収まり、至って順調であった。
 新潟の中心から約25kmの角田岬までの国道402号線は殆どの箇所で防風林が植わさっており、海岸線を臨むことができなかった。角田岬の手前は海水浴となっており、そこから先の寺泊までの海岸線は変化に富んでいた。



「国道402号線 防風林が植えられている」


「角田岬」


「角田岬の海水浴場」


「沿岸の風景」

 今日はゴールデンウィーク最後の日曜日でサイクリングをしている何人かの人とすれ違った。この付近は、殆どが平地で、地元の人にとっては格好のサイクリングコースの様である。



「田植えの風景 手植えが珍しい」

 寺泊は佐渡への航路があり、漁港もあり、温泉もありと三拍子そろっている観光地で、国道沿いの物産店には沢山の行楽客の姿があった。
 ここから、出雲岬までの景観が少し今までのものとは変わって来た。それは、古い建物が多く残っていたことと、神社の多いことである。昔、越後と言われていた時代、この付近は開けていたのではではと感じた。あす、直江津の郷土史家に聞いてみよう。



「神社仏閣」

 今日の宿は、海に沈みゆく夕日を眺めるには絶好のポジション。



「今日のお宿」


「宿前の海に沈む太陽」
17:38 | 2016年越後〜信濃〜上野の旅 | comments(0) | -
【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(その2)
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【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(その2)

「5月9日(月)」
々堝阿粒詰廖
  出雲岬〜国道352号〜柏崎〜国道8号〜柿崎〜直江津
⊇佝時刻(出雲岬):05;45
L榲地到着時刻(信越本線犀潟駅):10:10
   その後、直江津周辺を散策し高田へ
   ホテル到着17:40
そ蒜顱Ч眦張拭璽潺淵襯曠謄
チ行距離:68km
ε係:晴れ
 
「旅の記録」
 今日は10:30分に直江津の手前5kmにあるJR信越本線の犀潟(さいがた)駅で地元直江津の郷土史家と待ち合わせをしている。出雲岬から約70kmでそれほど遠い距離ではないが、この時間までに絶対到着しなければならない。そんな事もあり5時45分に宿を出た。



「出発前の写真」

 暫く走ると北国街道の標識があり、旧街道であるその道を進んだ。



「北国街道」

 分け行って心躍った。そこは古いが街並みが延々と続いている。出雲岬の港まで2km近く続いていた。出雲は江戸の時代佐渡金山で産出された金・銀を陸揚げした港である。古い街並みが現在まで残っているのは、そのためであった。



「古い町並み」


「郵便局」


「神社」

 岬には道の駅があり、そこには『天領の里』とデスプレーさた標示があった。



「道の駅 天領の里」

 また、出雲は良寛和尚が生まれ育った地でもある。町の至る所に関係する史跡があった。更に、出雲は明治の中ごろ石油を採掘した地でもあった。そんなドラマテックな地が出雲岬である。



「良寛の生まれ故郷」


「出雲岬は石油産出の地」

 丁度、出雲岬にある道の駅に到着したとき、犬の散歩に来ている女性がいて、「今までの出雲岬という地名は知らなかったが、古い街並みが残る美しい地でとても感激している」と話したら、「嬉しいです」と喜んでくれた。そして、ここに来るまでに感じた幾つかの疑問をぶつけた。
岬には、沖に向けて一本の桟橋が伸び、展望柵へと続いている。多分佐渡島を眺めるために作られたのだろう。そして、その柵にはチェーンに繋がれた鍵が沢山かけられていた。



「海に伸びる展望柵」


「柵に繋がれた鍵付きのチェーン」

 さっきの女性に「何故?」と訪ねてみた。若いカップルがずっと結ばれていたいためにつけるのだという。なんとも怖い話である。
 その後は、国道8号線を柏崎〜柿崎と進んだ。
 柏崎は刈羽原発のあるところである。今まで走って来た古い町並みとは一転した。原発により発展していった町なのだろう。



「刈羽原発の遠望」


「刈羽原発ミュージアム」

 柿崎から先は途中海水浴場があったり、温泉があったりと、直江津まで街並みが続いている。そして、10:10に信越本線の犀潟駅に到着し、待ち合わせのY氏と合流した。
 このY氏は、今回の旅行の最大の目的であるエドウィン・ダンとその家族の人達の直江津で過ごした踏み跡を調べ るために事前に協力をお願いしていた人である。
 Y氏の軽ワゴン車の荷台に自転車を積み、ダンとその家族ゆかりの地を車で案内してもらった。
最初に行ったのが、ダン二番目の奥さんであったマヤさんの葬儀が行われたと言われる龍覚寺 と本敬寺。実は色々な説がありどちらの寺で葬儀が行われたかははっきりしていない。
 どちらのお寺でも住職さんが対応して下さり、親しくお話ができた。直江津の特徴は付近のお寺は全てが浄土真宗であること。親鸞がこの地に流された関係もあり浄土信仰が根付いたのだろう。



「龍覚寺」


「本敬寺」


「本敬寺の内庭」


「親鸞上陸の碑」

 その後、向かったのは、ダンが石油事業を行ったという場所で、現在の信越化学の敷地の中にある、ダンの家族とその従業員の住居があったという場所は信越化学の敷地内に含まれていた。



「信越化学の工場入口」


「石油を積み出したと言われる信越本線の線路と黒井駅」


「石油施設の搬入のために艀が往来したと言われる関川の支流保倉川」


「ダン一家と外国人従業員の住居があった場所」

 その後、ダンの子供達が通学し、ダンの次男であるジェームス・ダンが校歌を作曲したという直江津小学校等を案内してもらった。校長先生は不在で教頭先生に応対してもらった。



「ジェームス・ダンが作曲した校歌」

 また、直江津小学校にはジェームス・ダンが選定し同窓生により寄贈された高価なピアノが置いてある。当時のお金で3,300円(現在に換算するとその1万倍?)



「ベヒシュタイン」

 直江津小学校の学校だよりの名前は「ジェームス・ダン」であり、伝統を受け継いでいる。



「直江津小学校正門」

 更に、直江津・高田に来たのだからと上杉謙信の居城である春日山城跡、日蓮上人上陸地、福島城跡、会津藩士の墓地、戊辰戦争で戦死した薩摩・長州藩士の墓地、レルヒ中佐の像等時間の許す限り案内してもらった。



「福島城跡碑」


「春日山城」


「上杉謙信の像」


「会津藩士の墓」


「長州藩士の墓」


「薩摩藩士の墓」


「レルヒ中佐の像」


「金谷山からのぞむ直江津の街並み」

 Y氏には、今日の宿泊場所である高田駅前はまで送ってもらい、再会を願って別れた。

 
17:29 | 2016年越後〜信濃〜上野の旅 | comments(1) | -
【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(その3)
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【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(その3)

「5月10日(火)」
々堝阿粒詰廖
  高田〜国道18号〜関山〜道の駅しなの〜豊野〜長野
⊇佝時刻(高田):08:00
L榲地到着時刻:15:05
そ蒜顱中央館 清水屋旅館
チ行距離:85km
ε係:曇り、一時小雨
 
「旅の記録」

 高田には戊辰戦争の敗戦で罪人扱いを受けた会津藩士1,700名が幽閉されたと言う歴史がある。その場所は高田城下にあった寺町で、現在のJR高田駅の西側にある。
 朝食前の小一時間を利用し、これらの寺を自転車で散策してきた。



「寺町の配置図」

 できるだけでは多くの寺の写真を納めておきたい。と、カメラを首にかけ、走り、止まり、シャッターを押す。この連続で、殆んどの寺の門前を画像におさめた。もし歩いて廻ったら半日以上の時間がかかったのでは。自転車は本当に便利な乗り物である。










「お寺の写真」

 実は今回の旅のテーマの中に高田に幽閉された会津藩士の歴史についても設定していた。それは、普段、私が行う歴史研究のテーマが『屯田兵と北海道の開拓』で、札幌の琴似(明治8年)、山鼻(明治9年)に入植した屯田兵の中に多くの元会津藩士が含まれており、其の中に、高田に幽閉され、その後斗南に移住し、そこから屯田兵に志願した者が何人かいるためである。高田に残る其の歴史跡を見ておこうと思った。
 幕末〜維新当時、高田の榊原家は徳川譜代15万石の小さな藩で、戊辰戦争時は他の譜代大名と同様その進退を決するのに悩みます。そして、戦争が北越正面に及ぶようになると、苦渋の決断をし、幕府側ではなく新政府側につくことになります。そして、以降の戦争において先鋒を務めさせられることになり、大きな人的・財政的な被害を受けました。
 その高田藩榊原家は戦後処理の会津藩士1,700名を預かることになる訳です。
 敵味方として戦った血気はやる会津藩士を預かるのですからたまったものではなかったことでしょう。そんな事を思い起こしながら朝の散策を終えホテルに戻って来た。
 朝食を取り身支度を整えホテルを出たのは08:00。



「高田駅」


「ホテル」

 今日の天気は芳しくない。雨がくる前に目的地の長野へ入りたいと思いつつ、先ずは高田城跡へ。



「高田城」

「高田城の配置図」

「旧軍の第13師団司令部が置かれていた」


「上越市立総合博物館」

 そこには上越市立総合博物館がある。事前に連絡を入れていたのであるが、その時アポ取をしていた学芸員は不在で代わりの学芸員が対応してくれた。そのため、詳しい話を伺うことができず。丁度企画展で展示してある高田藩にお預けとなった会津藩士の名簿資料を見せてくれた。それは、高田藩榊原家に残る資料で、その中に、新撰組の齋藤一が一瀬伝八の名前で記載されているのが確認できた。
 長居は禁物。雨に会いたくないので、その資料を見せて頂いただけで博物館を後にした。



「高田の名物“がんぎ”」

 長野まで、途中、特に見学をする予定はないので時々休憩を入れながら18号線を南下した。
 妙高手前で、今旅行中2度目のパンク。3日間で2回のパンクである。「どうなっているのか」と腹立たしく思う。



「パンク修理」

 国道18号線、これが一級国道なのと思えるほどの継ぎはぎだだらけのポンコツ道路である。これならパンクもするはず。



「道路はがたがた」

 妙高高原の最高地点は腕時計の高度計で計ったら750m位あった。この付近は名だたるスキー場の標識が続いていた。



「妙高高原へ向けて走る」


「妙高高原 名だたる温泉とスキー場の看板」


「もうすぐ長野県」

 12時を過ぎて少し空腹を覚えた。信州の入口に来たのだから蕎麦でも食べるかと考えながら走っていると、対向車線側に手打ち蕎麦の“のぼり”が旗めいていた。蕎麦屋は当たりもの、期待半分で店に入った。
 食べ終えて大満足。蕎麦通ではないが、味、噛みごこち、蕎麦湯、それ以外に出された二種の漬物、番茶、店の雰囲気の全てが花○でした。更に、『並み』を注文したのに、少しい多く茹でましたのでと言って大盛りを運んでくれた。店の名前は「樹香」、ペンションもかねている。場所は「一里塚 妙高」にある。



「そばの店」


「一里塚 妙高」

「北国街道の宿場」 
 野尻峠から豊野へは約300mの下りで快適この上ない。道路も新潟県から長野県に入り少し良くなったように感じがする。
 長野の宿に着いたのは3時過ぎで、幸い雨に当たることもなく、パンクはあったものの大したトラブルもなく到着した。
 長野には兄夫婦が住んでおり、兄に善光寺のガイド役を買ってもらい説明を受けながら見学をした。この善光寺。噂程度にしか知らなかったが、由緒あるお寺で、茅葺き屋根の重厚な建て方は、京都や奈良の寺とは違ったたたづまいで、「伊勢を見ずして、伊勢を語るな」と言われるのと同様、一度はお参りをするべき寺であると感じた。拝観料を払うと本堂下の回廊に入りお参する機会を得ることができる。まるっきり灯りのない暗闇の中を、壁・柱を伝いながら歩くのは一度体験の価値あり。




「善光寺」


「善光寺旧寺跡」


「善光寺門前」

 明日は上杉と武田が覇権を争った地を走る。
17:10 | 2016年越後〜信濃〜上野の旅 | comments(0) | -
【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(その4)
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「5月11日(水)」
々堝阿粒詰廖
  長野〜県道35号〜松代〜国道403号〜国道18号〜上田〜小諸
⊇佝時刻(長野):07:50
L榲地到着時刻(小諸YH):17:30
そ蒜顱Ь諸YH
チ行距離:74km
ε係:小雨〜曇り〜晴れ
 
「旅の記録」
 昨晩のお宿中央館清水屋旅館は気に入った。
元々建てられたのは明治の終わりで、昭和のはじめに後ろ側の部分を増築したと言う。人によっては感じ方が違うだろうと思うが、アンティークなところが良い。特に建物の中央に螺旋状の階段があり、迷路の様に各部屋と結んでいる作りが特に気に入った。



「清水屋旅館」


「旅館内部」

 今日の長野県の天気は前半雨、昼頃から徐々に良くなる予報。では、午前中は博物館・資料館等での時間を多くとり、出来るだけ雨に当たらぬように。そして、天候が回復するであろう午後から距離を稼ぐ。そんな構想をもって07:50宿を出た。
 出発した時は丁度通勤通学時間帯で長野の町中は人・車で溢れていて非常に走りづらい。
 長野と言えば善光寺、それと、川中島の合戦である。
 今日の最大の目的は、その「川中島の古戦場」の跡地を探索するである。
 最初の目的地、八幡原の古戦場は千曲川と犀川にはさまれた中州一帯である。今はその多くが住宅地、工場用地、商業用地となっている。その一画に古戦場である八幡原史跡公園がある。数時間の合戦で武田、上杉の軍勢合わせて6000人もの人が亡くなったというから、ここは鎮魂の地である。





「犀川を渡る」


「甲越直戦地碑」


「信玄対謙信 一騎打ちの場面」


「武田・上杉戦闘配備図」

  武田は信濃から越後へ向けて領地拡張を目指し、上杉は領地の安堵を図るために一戦を交えた。第4次川中島の合戦。戦いは上杉方の勝利と言われているが、上杉が戦場から兵を引き上げたあと、武田は善光寺を含めた妙高までの一帯にまでその勢力を伸ばし武田の支配下となった。
この合戦で色々な逸話がのこっている。「謙信と信玄直接交えた」「敵に塩を送る」「娩静粛々 夜川を渡る」等であるが、それほどにこの戦いは日本人の心をくすぐる戦いであったと言える。
 「夜川を渡る」この川とは千曲川のことであるが、今日(5月中旬)の千曲川の流れは濁流の様で到底渡河のできるものではない。犀川と千曲川の中州には沢山の小河川の流れていた当時の千曲川と今のものとは比較ができないと思うが、よくも一万もの大軍が暗夜にまみれて整斉と渡河ができたものだとつくづく感心する。





「千曲川を渡る」




「海津城跡」

 千曲川を渡り武田が陣を構えた海津城(松代城)、その後、隣接する真田邸、真田家の藩校であった文武館を見学した。



「真田邸」


「文武館」

 海津城から名を変えた松代城は真田幸村の兄信幸(信之)の城である。ここに、真田家は幕末まで続いた。
 この松代にはもう一つ貴重な遺産がある。それは戦争遺産で、終戦間近この山中深くに政府機関を移すそうと、巨大な洞窟を作ったのである。それが、「象山豪」と呼ばれる。よくもまあ、こんな山中に、こんなにモノを作ったものだと思う。正気の沙汰とは思えない。こんな壕の中で、一億人民のいる国家の統治ができると考えたのだろうか?
 この洞窟。戦争とは狂気の沙汰である感じとることのできる歴史遺産である。






「象山豪」

 「象山」この壕の呼び名。どこかで聞いた名前はである。そう、あの偉大な佐久間象山である。かの人の出身がこの土地で松代藩士であったとは、ここに来るまで認識が無かった。



「佐久間象山の像」


「象山神社」

 そして、幕末の松代藩が作った藩校『文武館』に函館の五稜郭を作った武田斐三郎が招かれたとの記述が展示資料の中にあった。北海道の歴史に名を残した人の名前を見つけ何か嬉しくなった。
松代を出た時には正午をまわっていた。上杉軍が陣を張ったという妻女山を左手に望みながら国道18号線の合流点を目指し県道を走った。



「雨宮の渡し方向から見る妻女山」

「上杉の軍勢が闇と霧の中千曲川を渡ったと言う”雨宮の渡し”付近」
 左へ行くと千曲市街、右に行くと国道18号の標識。咄嗟に左へハンドルを切ったものの、やはり右だと強くブレーキをかけた。その途端にタイヤが小砂利にとられて頭から転倒、幸いヘルメットのお陰で頭部はなんともなかったが、左肩の打撲と膝に裂傷を負った。新潟県、長野県の道路整備は行き届いていない。車道脇の路側はアスファルト道路に使用した小さな砂利が散乱していて大変危険だ。昨日も妙高付近でパンクをしたが、国道18号線はこれが一級国道なのかと思いたくなるような維持状況。「一時期、コンクリートから人へ」という言葉が流行ったが、車の走る道路には補修の経費をつぎ込んで欲しい。これも、人の命を守るため。




「上田手前の千曲川」


「上田城」

「上田神社」 

 今日の宿は、小諸ユースホステル。浅間山麓の1,000mの高地にある。
 何でまたこんな高地の宿にとまるの?
 多分「ここからの眺めは最高だろう」。どうせ、標高1,000mの軽井沢まで明日走るのだから、今日の内に1,000mまで登っておけ。そんなことで、ここに泊まることにした。だけど、一日の走行の後半にこの急な登りは流石につらい。登れど登れど目的地に到着しない。
 やっとの思いで1,000台まで到着した。そして、下界の視界が開けた。



「1,000m台からの小諸の遠望」

 やはり、ここを選んで良かった。
 17:30到着YH小諸に到着
16:55 | 2016年越後〜信濃〜上野の旅 | comments(0) | -
【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(その5)
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【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(その5)

「5月12日(木)」
々堝阿粒詰廖
小諸〜中軽井沢〜国道18号〜軽井沢〜碓氷峠〜富岡
⊇佝時刻(小諸YH):07:50
L榲地到着時刻(富岡製糸場):15:15
そ蒜顱Д曠謄襯▲潺紂璽塞找
チ行距離:65km
ε係:晴れ
 
「旅の記録」
 昨晩は、ユースのオーナーから、もし良ければホールに来てください。と誘いを受けていたが、部屋に戻り、日記の整理をしていたらそのまま寝入ってしまった。申し訳ない。
 その分、朝早く目が覚めた。
 天気が良ければ、日が昇る時の景色を眺めようと期待をしていたが、生憎深い霧がかかりなにも見えず。この霧も朝食を終えた頃に晴れ上がり我の出発を歓迎してくれているかの様。
 朝食後、食卓テーブルの脇に立て掛けてあった立体型の信州周辺の地図が気になりテーブルに広げて眺めていると、ユースホステルの奥さんが近寄ってきた。大河ドラマの「真田丸」を見ているとのことで、この付近の地形と真田一族の生き方等の話で盛り上がった。ちょっと知ったかぶりをしてしまった様だが、楽しい会話ができた。
 昨日の宿泊者は私一人で、ユースホステルの皆さんは道路脇まで見送って下さった。
 また、機会があれば是非訪ねたいユースである。



「小諸ユースホステル」


「出発前の自転車」




「標高900m付近から眺める風景」



「何か北海道の牧歌的な感じに似ている」

 昨日は1,000mまで登っているので、軽井沢へは逆に下りが多かった。途中絶景ポイントで写真を撮りながら走ったが、09:30には軽井沢に到着した。



「軽井沢駅」

 ゴールデンウィークの終わった平日、あまり行楽客はいなかった。その分、目についたのがアジアの人たち。やはりこの高原の別荘地は魅力的なのだろうか。昨日行った真田家所以の松代や上田は熟年の日本人ばかりであったのとは対象的である。軽井沢では国の重要文化財である三笠ホテルを見学した。




「三笠ホテル」

 その場所は高級別荘が立ち並ぶ奥にある。ここは我ら平民にとっては異次元の世界で、そんな異空間を体験しようと走ってきた。




「高級別荘が立ち並ぶメインストリート」


「旧軽井沢」

 今日は何人かの自転車仲間と接触をした。最初はこの三笠ホテルで、見学を終え帰ろうとした時、施設の入口で写真を撮っている熟年の男女がいた。写真撮影の手伝いをした後、自転車談義となった。その方達、最近夫婦で自転車を始めたそうで、趣味が合い話が弾んだ。そして、旦那さんは日本一周の夢を語った。
 軽井沢は小さな街。すぐに町はずれの碓井峠に到着した。しかし、この場所、地図には『碓氷峠』と名前が載っているが、実際の道路上には『碓氷峠の』表記はなかった。



「碓氷峠にあった表示物」

 次に会った自転車仲間は碓氷峠のピーク。この場所に群馬県の横川側から走ってきた2人の若者(私より大分若そうだから)が休んでいた。「登りは大変でしたかと声をかけた」「いや、そんなにきつくはなかったです」との返事。彼らは、旧道の登り口の近くにある職場の同僚だそうで、最近自転車仲間が増え時々皆で走っていると言う。暫く自転車談義が弾んだ。
 碓氷峠から184曲がりの下りコースを右に左にハンドルと切りながら走った。誠に爽快である。カーブはきついが勾配はそれほどでもなく。適度にブレーキをかけながら楽に走れた。そして、鉄道遺跡「めがね橋」に到着した。そこにも自転車愛好家がいた。
 眼鏡橋は明治26年ドイツの山岳鉄道の技術を取り入れ造られたものである。よくもまあこんな橋を作ったものだ、その技術力の高さには感服する。






「めがね橋」

 この旧国道18号線は自転車愛好家にとって最高のトレーニングコースなのだろう。バイパス道路、上信越自動車道が近くを走っているので、この道を車で通る人は殆どいない。



「変わった形をした山 妙義山」

 途中、空腹を覚え今回の旅行中3度目の蕎麦をたべ富岡についた。小さな富岡の町は世界遺産の富岡製糸場一色あった。連休明けの平日であったが、製糸場の入場者は引きも切らない様子で多くの観光ボランティアの方が案内役を務めていた。
 この建物の設備には感動をした。明治5年〜6年にかけて建設されたと言うが、徳川の世からほんの数年しか経たない時に、良くもこんな近代的な建物を日本人が建てたなと思った。



「配置図」


「富岡製糸場碑」


「製糸場繭置」



「製糸場繭置所内部」


「繰糸所」


「首長館(ブリュナ館)」

 ここから生まれら生糸が日本の近代化に大きく関わってくるのである。北海道にも明治8年に製糸場が作られ養蚕が盛んとなってくる。この富岡で育った技術が全国に伝達されていったことを理解するのは容易である。
 宿には15時過ぎに到着した。旅も5日目に入り、かなり疲労がたまっている。
 宿ではシャワーを浴び、洗濯をして、食べて、寝るだけ。
 テレビが置いてあるがほとんど見ることは無い。
16:24 | 2016年越後〜信濃〜上野の旅 | comments(0) | -
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【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(その6)

「5月13日(金)」
  々堝阿粒詰廖
      富岡〜国道254号〜吉井〜児玉〜嵐山〜川越
  ⊇佝時刻(富岡):07:50
  L榲地到着時刻(川越):15:00
  そ蒜顱Ю遽杪莪譽曠謄
  チ行距離:88km
  ε係:晴れ

「旅の記録」
  今日は川越まで最後の走行。天気予報は最高気温25度と少し暑いが湿度なく北海道の初夏の気候で最高のコンディション。
  昨日富岡製糸場を見学した時、奥に見えた鏑川に掛かる橋が気になっていた。あの橋から製糸場を眺めてらどのように見えるか?
  朝食前、自転車の点検をかねてその橋まで行った。そして、そこから写真を撮った。



  「鏑川にかかる橋から眺める富岡製糸場の縁」

  その時、腰に着けているポシェットの口が開いており、中に入れていた老眼鏡を橋の欄干から川へ落としてしまった。「ああ〜と」ため息が出るのみ。眼鏡のケースはみるみる下流へ流れていく。ただ呆然と見送るのみ。
 
 

  「眼鏡が川の中に」
 
   朝、駐車場の置いていた愛車を確認したら、タイヤの空気が抜けていた。すぐに予備のタイヤと交換したが、メガネの件も重なり、何やら不吉な予感がする。
  そんな思いを抱きホテルを出発した。
 


  「ホテルの前で」

  正にその兆候がすぐさま現れた。走行を開始して5kmほど走ったところで、タイヤの空気が無くなっているのに気が付いた。そして、取って置きの新品のチューブに取り替えた。もう予備はない。最後の一日だけれど予備が必要だ。と、反対車線を見たら自転車屋の看板。こんなに早い時間に開いているだろうかと店に行ったら開いていた。店には、軽快車用のチューブが1本だけあった。
  これは「凶なのか?吉なのか?」
  朝からトラブル続きで、今日は安全運転に心掛けねばと心に誓い。そこで、以降は道路の状況をチェックしながら走ろうと決めた。
  碓氷峠を超え、昨日から群馬県内を走っているが、長野県側と群馬県側では補修の状態が違う。長野県側、新潟県の国道18号線は最悪で、以前にも記したが、アスファルトの表面が剥がれ小砂利が路側に散乱し、これが一級国道なのかと思いたくなる様なものだった。 群馬県側それほどでもない。今日走っている国道254線であるが、群馬県側と埼玉県側では、また、少し違う。埼玉県側は道路の建設時のお金をかけたのだろうか、歩道部分の植樹もなされていたりする箇所もあったが、今は草がぼうぼうでみる影もないところがある。



  「路側が無い」


  「路側は危ない」


  「なんでこんなところにバックミラーが」

 



  「歩道に作った花壇は草ぼうぼう」

  ところで、目を転じて地元北海道のことを言うと、最近の北海道の道路もガタガタのところが多い。昔、湯水のごとくにつぎ込まれた北海道開発予算が途絶えたせいである。
  高齢化が叫ばれ、医療、介護に税金を投入せざるを得ない現状では道路の維持・整備にかける予算は制限がかかるのだろう。最近はさらに子育てや福祉にも予算を回さなければならないご時世。国の予算は打ち出の小槌ではない。国が貧しくなれば道路はガタガタになる。
  今日は、国道254号線の標示を追いかけて走ったが、寄井の入り口でその数字がなくなった。変わって出てきた国道140号線の表示に暫く従ったが、次の交差点でも254号線の標示がない。不安になり元来た道を引き換えした。そして、地図を確認し、スマホの地図ソフトを開き現在地と地図の位置関係を見比べようとしたが、「ああ老眼鏡がない」。液晶の道路番号が読み取れない。この時に川に落とした眼鏡が効いてきた。途方に暮れ地図をにらみながら思案していたら、後から「どうしましたか?」と声をかける女性の声がした。
「二つ目の交差点を右に曲がり、次の信号を右に曲がると254号線の標識がある」と、天の助けであった。
  この女性の父親はブルベというサイクリングに打ち込んでいる人で、本人自身も200kmの走行をする様なサイクリストであった。
  それ以降の、走行は何の不安もなく予定より早く目的地の川越についた。
 


 

「川越の旧街道筋」
 
  今日・明日と川越で2泊し、5月15日成田発千歳行きの便で札幌の自宅に帰る。
  川越2泊は東京と埼玉にいる子供達に会うのと、東京でエドウィン・ダンの踏み跡をたずねるとともに東京在住の郷土史家と会うためである。
  自転車旅行は今日で終わる。
15:42 | 2016年越後〜信濃〜上野の旅 | comments(0) | -
2016年越後〜信濃〜上野の旅(旅を終えて)
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【2016年越後〜信濃〜上野の旅】(旅を終えて)

「5月15日(日)」

  昨日(5月14日)は、東京におけるエドウィン・ダンの踏み跡の探索と、ダンのお墓にお参りをするため都心に向かった。
  川越から東武東上線〜山手線〜東京メトロ日比谷線に乗り継ぎ地下鉄広尾駅へ。



「広尾駅」


「広尾駅周辺」

  そこからは歩いて日赤医療センターや聖心女学校のある広尾ガーデンヒルズ一帯を散策した。
  この場所は、エドウィン・ダンが明治6年に北海道開拓使の農業技術者として日本政府に雇われ最初に赴任した場所で、開拓使の第三官園のあった場所である。江戸の時代は下総佐倉領主堀田家の下屋敷のあった所である。現在は樹木の生い茂る閑静な地域に高層住宅群が立ち並ぶ東京の一等地である。田舎から来たものには東京人のステータスの高さに嫉妬心さえ覚える場所である。



「聖心インターナショナルスクール」


「広尾ガーデンヒルズ」


「高層マンション群」


「堀田家当時からあった銀杏の古木」


「ガーデンヒルズゲート」


「日赤医療センター」

  そこから、さらに歩いて向かった場所は青山墓地である。この墓地には著名な人物の墓も沢山あるが、それらにはわき見も振らずエドウィン・ダンの墓をさがした。



「青山墓地南入口」

  エドウィン・ダンの墓は、南北に伸びる中央通りの北寄り、外国人の墓が集められた墓地の一角に二人の奥さん(ツル、ヤマ)の墓とともにあった。



「エドウィン・ダンの墓」


「ツルの墓」


「ヤマの墓」


「ダンとその家族の墓群」


「中央通り」


「青山墓地管理事務所」

  その後、ダンが晩年過ごしたと言う代々木付近を訪ねるため、青山墓地から青山一丁目まで歩き、そこから、大江戸線に乗り代々木まで行った。
  ダンが晩年過ごした場所は特定できていないので、小田急南新宿駅〜参宮橋駅付近の一帯を散策した。今までの訪ねた広尾、青山一帯とは正反対の入り組んだ小道が縦横に伸びる住宅地で、新宿、代々木の繁華街のすぐ隣にある場所である。ダンが生活した時代には新宿の繁華街は無く明治神宮前の森に接した閑静な住宅地であったのあろう?






「明治神宮の緑地」

  小一時間ほど歩き回ったが、この付近に住んでいる人達なのか外国人の姿が多くあった。今まで何度か東京見物はしているが、それは、東京、上野、新宿、渋谷、品川等、駅周辺の繁華街や観光名所であり、今回のように、さらに一歩踏み込むことがなかったので、今まで気が付かなかった東京の一面を見ることができた。
  その後、14:30に東京在住で直江津におけるエドウィン・ダンとその家族の人達の踏み跡を調査している方と代々木で面談した。小一時間ほどの時間であったが、真駒内の話、直江津の話、今東京で見聞したことなどを話題に話が弾んだ。
  そして、真駒内での再会を願い面談を終えた。
 
 今日は5月15日。
  成田から飛行機で千歳空港へ、そして、札幌の自宅に戻り旅を終える日である。
  移動中のバスの中、飛行機の中でこの旅を振り返っている。

「旅を終えて」
  私が住む札幌市南区の真駒内に『エドウィン・ダン記念館』という施設がある。この建物の原形はエドウイン・ダンが明治9年この地に牧牛場を開いた時に、その事務所として建てられたものが、その後、北海道の種蓄場へと発展して行く中で、数次の増・改築が行われ現在に至ったものである。
  この建物はエドウィン・ダンに関する歴史資料を展示する記念館となっている。そして、私のテリトリーの中にあり、時々館に顔を出す。
  昨年末頃、北海道JRの車内誌にエドウイン・ダン記念館のことが取り上げられていると仲間内で盛り上がった。このJR機関誌には『エドウィン・ダンの「日本愛」』と題したコラムか掲載され、その中に直江津でエドウィン・ダンが行った石油事業のこと、ダンの子供であるジェームスが直江津小学校の校歌を作曲したことなどを取り上げていた。
  今年(平成28年)は、ダンが北海道に赴任して丁度140年になる年である。
  この記念すべき年に、エドウイン・ダンと関わりがあった直江津とダンの墓がある東京を結びつけて自転車旅行をしようと計画した。経路としては、10年前の日本一周で走らなかった越後〜信濃〜上野を結びつける国道18号線とした。
  事前に直江津、東京在住の郷土史家とコンタクトをとり情報を得るとともに、ご当地での応対をお願いしていた。そして、お世話になった。

  今回の旅の一番の成果は、これら、ご当地でお世話になった人達と近しくなれたことであり、エドウィン・ダンという人物の歴史を通じ直江津と真駒内を結びつける架け橋の基を作ることができたことである。
  最近行っている東北の旅では北海道の開拓に関わりのある津軽、下北、南部をテーマとし、大きな成果を得ているが、今回は、自分が住んでいる町に直接関係のあるテーマを選んだことにより、より一層身近なものとして成果が残った。
  それと、副次的な成果としては、今まであまり関心を持っていなかった。越後〜信濃〜上野に至る戦国時代の歴史舞台に立つことができたことである。現地の山河をのぞみ、自転車で走ると少し見えてくるものがある。それは、地形眼というもので、この川の流れ、この山の起伏、この平地、この斜面、この川渕、この田畑、この山並み、等等がこの地の歴史と深くかかわっている。そんなことが分かったような気がした。
  今年の大河ドラマは『真田丸』で真田家の生き方を取り上げているが、真田家の盛衰をこの信濃という地とのかかわりから眺めると見えてくるものを感じた。
  戦国時代の歴史も面白く、あまりレパートリーを広げすぎると大変ではあるが、自転車の旅を東北から関東、中部、北陸へと進めて行くと必然的にそれらの歴史がテーマとなってくる。
 
 自転車の旅はさらに楽しくなる。
08:04 | 2016年越後〜信濃〜上野の旅 | comments(0) | -
2015年三陸の旅パート1
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「2015年三陸の旅」
 
旅の経路


 
その
 自宅から仙台へ移動
 仙台〜石巻へ 

5月27日(水)
々堝阿粒詰廖
    自宅〜バス〜千歳空港(09:00)〜ANA4802〜(10:10)仙台空港
    仙台空港〜県道10号〜国道45号〜塩釜〜松島〜石巻
⊇佝時刻: 06:20
L榲地到着時刻:17:15
そ蒜顱Д汽鵝Ε侫.鵝Ε凜レッジ
チ行距離:79km
ε係:晴れ

「旅の記録」
  妻に車で送ってもらい自宅近くのバス停へ、そこでバスに乗り千歳空港へ。09:00発仙台空港行きのANA4802便に搭乗し仙台に着いた。
  自転車を飛行機に積み込むのは今回が初めてである。携行工具は危険物と見なされ機内に持ち込めず輪行バックの中に詰められて貨物室へ、潤滑オイルは可燃物であるため、それも叶わず没収されてしまった。
  仙台空港には予定どおり10:10に到着。空港で自転車を組み立て、所要の準備を行い11:10スタートした。


「仙台空港に到着」

  空港の敷地を出て直ぐのところに貞山掘と呼ばれる小川があるが、そこに架かる橋は傷ついたままで、この時はじめて津波の爪跡を見た。


「壊れたままの橋の欄干」

  空港から県道10号線を少し北に向かった名取川右岸に廃校となった閖上小学校があった。そこには人の気配はなく、校門脇に津波の当時の記録が遺されていた。


「閖上小学校の校舎」

 名取川を渡ると若林区の荒浜地区で、2011年3月11日の夕方のニュースで田畑を飲み込む様に津波が押し寄せる光景が映し出された場所である。
  この付近一帯には家屋がなく、県道10号線の東側、海岸よりの農地は荒れたままの状態で工事用の工作機械が作業をしていた。それは、県道10号線の嵩上げ工事をするための様であるが、さほど工事は進んでいない様子であった。


「かさ上げ道路の高さの基準」

  今回の旅は、4年前の津波で甚大な被害を受けた三陸沿岸を敢えて選んだ、そこには少々の葛藤があったが、やはり自分の目で確かめておきたかった。被災された方の心痛を思うと訪ねるべきではないのかもしれないが、メディアでは取りあげない、現実の姿も知っておきたいと思った。しかし、私の立場は旅行者であるので出来るだけ行動は慎重を期したい。
  仙台空港から塩釜までの県道10号線は大型車両が両車線を埋めて走行しており車道を走ることは出来なかった。歩道も震災以来ほとんど整備をされていないのか、砂櫟が散らばっており走りずらい。塩釜には13:35に到着した。仙台空港から30km走るのに2時間半近くのかかっている。



  少し心配になってきた。やはり、この地は物見遊山で来る場所ではないのかもしれない。
  この時、途中で経路変更、旅行自体の断念も考えた。
  塩釜の役場に立ち寄り玄関ロビーまで立ち入ったが、掲示板には復興計画と、その状況が掲示されていた。
  ところで、空港で没収された自転車用オイルを手に入れなければ、ネットで検索したら東塩釜駅の裏手に自転車屋があったので、オイルを購入するため、その自転車店に入った。しかし、店主は外出中で不在。オイルは購入できず。お母さんなのか、「このオイルなら使っていいよ」との好意に甘え少々拝借した。
  松島には14:30に到着した。ここは、観光客で賑わっていた。松島湾はそれほど大きな津波が来なかった様で爪痕は何も残っていなかった。観光地巡りに来たわけではないので松島でゆっくり見学をすることはなく、そのまま、石巻を目指した。
  石巻には16:00頃に到着したが、町の中は津波などなかったかの如く平常であった。しかし、石巻港周辺は今も津波の爪痕が残る。瓦礫の山、流出された船、車が今も残っていた。






「石巻港周辺の状況」

  塩釜も、松島もそうであったが、被災地と雖も街中は津波など無かったかのように活気が戻っていた。そして、住民の高台移転とよく言われるが、海岸近くにも新築された家屋があり、被災のリスクがあってもそこに生活をしなければならない人も多いのだろうと推察した。石巻は漁業の町であり沿岸からはなれて生活をするのが難しいのだろう。
  今日の宿はサン・ファン・ビレッジというところで、災害復興に携わる人達の為にたてられたプレハブの宿泊施設で最大宿泊人員は250人あると言う。駐車している車のナンバーを確認したが北海道からも数台あった。仕事のあるところには人は集まる。南の地区からは京都、三重からの車もあった。
  今日は仙台空港の近くでは自転車で走ることに危険を感じたが、石巻に近づく頃には車の数も減少し、これなら、明日からも走れそうである。

 
09:00 | 2015年三陸の旅 | comments(0) | -
2015年三陸の旅パート2
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「2015年三陸の旅」
その◆\亟〜岩井崎

5月28日(木)
々堝阿粒詰廖Ю亟〜国道398号〜女川〜雄勝〜北上〜陸前戸倉〜国道45号〜志津川〜本吉〜岩井崎
⊇佝時刻: 06:30
L榲地到着時刻:16:50
そ蒜顱民宿海野屋
チ行距離:112km
ε係:曇り

「旅の記録」
 昨晩泊まったサン・ファン・ビレッジはサン・ァン・バウティスタ・パークと言うところにある。この『サン・ファン・バウティスタ』という名前、伊達政宗の時代に支倉常長なる人物がスペインに使節として派遣されたときに乗った船の名前である。その船は、このパークに復元されて残っている。少し興味があったが、残念かな、時間がなく中までは見学は出来ず。


サン・ファン・バウティスタ」

 サン・ファン・ビレッジは工事関係者の泊まる宿であり、朝6時になったら食堂は人の列を作っていた。私も早々と朝食を済ませ6時半に出発。


サン・ファン・ビレッジ」

 内海の万石浦を右手に見ながら女川へ向けて走った。この万石浦ではホタテの養殖をしているのか、浜にはホタテの貝殻が山とつまれていた。
 やはり女川の漁港は壊滅的な被害を受けていた。また、付近の道路は工事車両が列を作っており、高台では住宅地建設のためバケットローダーが土砂の堀開と整地を行っていた。海岸淵にはプレハブの漁協と要塞のような建造物があった。これが復興のための工事なのか、住宅は高台へ、職場は海岸で津波に耐えうる頑丈な建物に。










「女川の状況」

 女川からさらに山中を走っていた時、車体の側面に「町民バス」と書かれたタクシーが追い越していった。そのタクシーが御前浜と言うところに停車しており、ドライバーはダンプの運転手と何やら雑談をしていた。
 「写真を撮らせて下さい」と言って話に割り込ませてもらった。この町民バス、話を聞いたら、震災の起こる前からバスに乗る人が少なく、車を持たない高齢者の足としてバスの代わりをしていると言う。そして、この付近の家では3、4台の自家用車を持っているのが当たり前で、この「町民バス」の施策は津波とは直接関係がないようである。



「町民バス」

 この付近までは、海岸線を上ったり下ったりの走行。仮設住宅は不便な山中にもある。工事関係の拠点も山中にあった。三陸のリアス式海岸の地では山中にしか仮設住宅を建てる場所がないようである。そこに住む人達の不便を思うと心が痛むが、新たな土地を求めるためには仕方のない事なのだろう。



「宅地造成の状況」


「女川第1小学校と仮設住宅」


「女川の海」

暫く走ったら雄勝という所に到着した。







「雄勝の海と漁港」

 港の周辺にはプレハブ以外、建物は何も無かった。防波堤も崩壊したままであった。あるのは工事関係の機械と車両だけ。山裾の樹木が折れ曲がっている。こんなところまで波が打ち寄せたのか。雄勝とは雄勝石が産出するところで、この石は硯、更にはスレートとして東京駅の駅舎にも使われている。
 また、サン・ファン・バウティスタと言う帆船を建造したのもこの地である。



『支倉六衛門 造船の地碑」

 雄勝から、三叉路を北上し一山を越え北上川へ抜ける積りであるが、道路標識が無く不安になり、近くのバラ園の前で経路を確認した。
 そう言えば、ここまで県道を走ってきて道路標識があまりない様に感じた。多分、津波で流されてしまったのだろうと思うが、宮城県では道路標識を直すまでの余裕がないのだろう。
 なぜ『バラ園』が、こんなところにあるのだろう?と不思議に思っていたら、このバラ園の管理をされている女性が来られ、「どうぞ見て行ってください」と案内された。そして、話を伺った。







「ローズファクトリーガーデン」

 元々、この付近には800軒ほどの家があったが、海を見渡すことが出来ない細長い町で、住んでいる人は津波が来ることなど予想もしていなかったという。そして、避難するにも両脇は山で逃げ場もなく、この地域では200人ほどが犠牲となり、行方不明者が100人ほど出たという。
 雄勝のことはメディアにあまり出てこなかったが、その被害は甚大である。
 この『バラ園』であるが、美しい雄勝を取り戻そうとこの場所に花を植え始めたという。そして、この場所を拠点に被災地の緑化支援、被災者支援等色々な活動を行っているそうだ。それには、支援に来て下さった多くのボランティアの人達や各種団体の協力があってこそ出来ることで、この小さな町にも心温まる人と人との絆があった。
 色とりどりに咲く花の前には沢山の支援者からのメッセーが添えられていた。
 この花を見て、心を癒され、こみ上げてくるものがあった。

 北上川を渡り、その後も津波の爪痕が残る海岸線を走った。付近は北上川の護岸工事で工事関係の大型車が頻繁に行き来していた。





「北上川」

 段々腹も空いてきたが、行けども、行けどもコンビニは無かった。途中で食料は補給できると安易に考えていたが、それは、間違いであった。
 神割岬という所の手前に来たとき、雑貨屋がありパンを購入し食した。店にいた老婦人に話を聞いたが、この地域で亡くなった人は、勤務先で亡くなった2人だけであるという。なぜかと言うと、下に小     
 滝港という漁港があるが、そこに住む人はわずかで、多くの人は高台に住んでいるという。過去の教訓が生かされた例である。
 暫く走って、陸前戸倉駅に到着した。ここは駅舎だけではなく全ての住居も共に流されてしまったところである。
 鉄道線路にはアスファルトが敷かれバスが走っている。リニューアルした駅舎の他、今は何も無かった。古い地図には小学校、農協、ガソリンスタンド、コンビニの表記があるが今は何も残っていない。






 昼を少し回った頃に志津川(南三陸町)に到着をした。ここは、例の鉄骨だけの防災センターのある町である。高台から町を眺めようと志津川高校に通ずる坂道を上った。今は赤土がうず高く積み重ねられているだけの町になっている。


「防災センター」




『志津川高校の入口から見る市街地方向」

 沢山の犠牲者を出したという元老人ホーム。今そこは農協の建物になっているが、その入り口付近で仮店舗を構えている男性から話を聞いた。登米の仮説住宅から通っているという人であった。
 この付近に住宅を建てることが禁止されている。うず高く積まれた赤土の山は国道45号線の土台であると言う。高さが20mは有ろうかと思われるような代物もあった。
 国は津波から町を守るために万里の長城を築こうとしているようである。この土の山はいたるところにあった。



「かさ上げ工事の状況」

 南三陸町役場は高台に移転を完了していた。そこには、復興計画が掲示されていた。大きくは住宅の高台に移転と沿岸部の再開発である。復興課の職員に進捗状況を質問した。20箇所の宅地を造成中であると言う。国が行う国道のかさ上げ、県、町の行う復興事業、役場は活気にあふれ、まさに国づくりをやっている感がある。
 一代プロジェクトの推進といってもいい。「体を壊さないようにして下さい」。と声をかけ役場を出た。



「南三陸町役場」


「復興構想」


「JR気仙沼線は鉄道からバスへ」

 今日の宿は岩井岬にある民宿崎野屋、当然この岬も津波が襲ったはずだが、何故?
 宿主に聞いたが、半島では、この民宿を含み10軒だけが被害を免れたという。奇跡としか言いようがない。

 
08:58 | 2015年三陸の旅 | comments(1) | -
2014年三陸の旅パート3
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「2015年三陸の旅」
その 気仙沼〜釜石

5月29日(金)
々堝阿粒詰廖Т箘羣蝓禅だ臂臓噌馥撮苅宜罅僧α姐眦帖疎臍ヅ蓮岨偉Φ班諭租眞亜然石
⊇佝時刻 :06:40
L榲地到着時刻:15:45
そ蒜顱Д曠謄 ルートイン
チ行距離:96km
ε係:くもり〜晴れ

「旅の記録」
 岩井岬はこの旅で知った地名である。今回自転車で走らなければ来ることは無かった。そして、民宿崎野原屋に泊まることは無かったし、この民宿がこの半島で唯一無傷で残った建物であることも知ることは無かった。




 朝の散歩で岬の突端まで散策したが、ここは気仙沼湾の入口に位置する景勝の地である。
宿は6時40分チェックアウトし出発した。右手に3階まで水に浸かり、廃墟となった向洋高校の校舎を見ながら気仙沼を目指した。




 気仙沼も大きな災害をうけたが、志津川の様に町の全てはなく、国道沿いは普段の生活を取り戻していた。また、気仙沼漁港には大小の漁船が係留されており、港は本来の活動を行っているようで、付近の気配から活気が感じられた。そして、やはりここでも土地のかさ上げ工事と復興住宅の建設が行われていた。
 






「復興住宅建設の状況」






「気仙沼漁港」

 陸前高田は奇跡の一本松として有名になったところで、唐桑トンネルをくぐり気仙沼から20km程走ったところにある。
  長部漁港を過ぎたあたりで一気に視界が開け、荒涼たる風景が目に入った。前方左手の山から取り出した土砂を運ぶ長大なベルトコンベヤーが町の中心まで伸びている。そのベルトコンベヤーを下から覗くと巨大な橋の様でもある。
  ここも消え去った街並に代って出現した台地をダンプカーが走り回り、建設機械が動き回っていた。まさに陸前高田一帯で巨大なプラント事業が行われているようであった。





「陸前高田の復興工事の状況」



「一本松見学のお客さんのために茶屋ができた」

 「奇跡の一本松」と言われる松は、高田松原の松林の中にあった一本の松で、津波の被害から奇跡的に免れた。地域の人達から復興のシンボルとして残そうと言う声が持ち上がり保存することとなった。
 今日は平日であると言うのに多くの見学者があった。外国から来た人もいた。
 訪れた人に希望と勇気を与える木である。



「奇跡の一本松」

 元『道の駅高田松原』のあった場所はメモリアル広場となっており、震災から復興を伝える施設があった。





「道の駅高田松原はメモリアル広場に」


「一本松の根は資料館に保存している」
 
 陸前高田は志津川同様に町の全てが無くなってしまったところである。被災現場を残すことには異論のあるところだが、両市・町とも遺跡として残し後世に伝える方向であるのか?
 ここから大船渡へは一旦国道を離れ新しく出来たアップルロードを使った。地元の人から平坦な道だと聞いていたが、やはり自転車で走るには快適な道とは言えなかった。細浦を過ぎた辺りから海岸線が見えてきた。そこは大船渡湾の美しい海の景色だった。今まで赤茶けた土の山ばかり見ていた目に安らぎを与えてくれた。
 ところで、被災地では住宅の高台移転を復興事業の柱としているが、この付近を走っていて、過去から高台での生活をする習慣がこの地にはあったと言うことを気付かされた。国道は海岸線からすこし奥まった台地上を走っており、その両側には住宅が立ち並んでいた。しかし、一部の家屋は海岸線にもあった。年数が経つと津波の恐怖を忘れ去り、便利な海岸線に移転していく構図があるようだ。
 また、町全体が消滅したように思える志津川にしても、陸前高田にしても高台には多くの家並みが残っていた。それらは、先人の知恵を守った人達なのだろうか。





「元々高台にある住宅」
  
 国道沿いの大船渡は被災から復活していた。海沿いにも残った建物で仕事を始めている人、新しく建設されたと思われる工場の姿もあった。





「美しい大船渡湾」

 大船渡川の流れに沿って北へ向かう国道沿いは、以外かな、津波の被害が残っていなかった。大船渡湾は細い入り江で、津波は大船渡川を遡上していたのだろうか?



「昼食を食べたラーメン屋・・被災後新築した店舗」


「被災した町は復活していた」

 大船渡を出てしばらく行くと美しい山間の村落の風景が目に入って来た。その一画に新沼という看板が立てかけてあった。新沼謙治の故郷なのか?






「大船渡は新沼謙治の故郷」

 釜石までの道のりはリアス式の半島を一つ一つ越えて行く形で続いている。6箇所のトンネル以外は殆どが上り下りの道路である。
 トンネルを超えると美しい海が目に入ってくる。きつい走行であるが、海が少しばかりの癒しを与えてくれた。しかし、ここを走行していて、三陸と言う土地は、町・集落がこの国道沿いに分散してあり、行き来が難しい土地であると感じた。



「唐丹湾内」



「唐丹駅」




「釜石の入口平田漁港」

 釜石には15:30に到着した。疲労がたまってきたので、途中でビジネスホテルに予約を入れた。
いつも通りであるが、先ずは缶ビールで喉を潤し、シャワーを浴び洗濯をしたら脱力状態となってしまった。
 7時頃になって、飯でも食いに行くかとホテルを出て食い処を探している中で、釜石の事を誰からも聞いていないことが気にかかりスナックバーに入った。
 「多分この時間ならお客さんはいないだろう」。と予想した通り、客は私だけで、私より少々年回りの行ったママさん一人の店だった。そして、北海道からきた風変わりな旅人の話にしばし付き合ってくれた。この地に住み、生活をしている人でなければ知り得ない貴重な話をきけた。
 そして、帰りにコンビニにより軽食を買ってホテルに戻った。
 泊まったビジネスホテルは釜石市役所の近くにあり、その他にも数軒のホテルがあった。その全てに工事関係者が宿泊をしていて、ほぼ満室状態であった。周辺には繁華街も出来つつあり、立ち寄ったスナックもその中の一軒であった。そして、近くには大手のスーパーが進出してきており週末は駐車場が一杯になるほどに盛況であると聞いた。
 今は復興事業で多くの資金が落ちているが、心配なのは復興事業が終わった後この町はどのようになっているかである。

 
08:42 | 2015年三陸の旅 | comments(0) | -
2015年三陸の旅パート4
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「2015年三陸の旅」
 そのぁ釜石〜宮古

5月30日(土)
々堝阿粒詰廖С石〜国道45号〜大槌〜陸中山田〜宮古
⊇佝時刻 :08:05
L榲地到着時刻:14:10
そ蒜顱У楔泥札鵐肇薀襯曠謄觀О
チ行距離:75km
ε係:曇り、晴れ

「旅の記録」
 釜石の町は何処へ向かおうとしているのか?
 北海道には室蘭という鉄の町がある。最盛期には16万人の人口を有する活気ある町であったが、今は見る影もない。人口も10万人以下になってしまった。それでも、室蘭はJR室蘭本線の経路上にあり、高速道路でつながり、近傍には登別・洞爺の観光地を控えているのでまだ少しはましかもしれないが、津波の被害を受けた釜石は更に厳しい現状に有るように感じた。製鉄業の今後は見通しが暗い、早期の漁業の復活は可能なのか?
 橋野高炉が世界遺産に登録される気配もあり、東京オリンピックでは、ラクビー競技の会場を釜石にしようとする構想もあるようだが、お客さんを迎え入れ、来られたお客さんに釜石は素晴らしいところだ、また来ようというような町を作り上げなければと思う。



「製鉄所」






「釜石の街並み」
 08:05ホテルを出発。製鉄所、市役所に立ち寄り釜石を後にした。大槌までは13kmで、一時間ほどで到着した。今日は土曜日で役場は休み。現在の役場は元大槌小学校があった建物に入っている。警察署、消防署はその校庭にプレハブをたて待機をしている。役場の横にお寺があり、裏山の急斜面がお墓になっていた。ちょっとお邪魔をして山の頂まで登った。そこには、小さな祠があり、大槌の町と湾を一望できた。
  町は大槌湾に注ぐ大槌川とその支流に挟まれるようにして作られていた。そこは、津波の力が集まる場所でもあったのだろうと想像される。目前には何も残っていなかった。あるのは工事車両の走り回る姿と建設機械の槌音だけである。



「大槌町役場、前のテントは消防車の待機所」


「役場後方の高台から被災を受けた地域を臨む」

 次の目的地は山田町。大槌を出て直ぐにトンネルがあり、それを過ぎると船越湾が眼下に臨める。この頃になると曇り空になり、海岸線を走るときは長袖を着ていてもひんやりとする。「やませ」と言って、この地方独特の気候で、海風の影響を受け夏でも寒く感じる時があるという。因みに、今日の札幌は気温27度。
 山田町は見た目からは大きな被害を受けたように感じられなかった。倒壊した建物は沢山あったと思うが、残った建物を改築して使用しているためかと思う。それに比例して工事をしている建設機械の数も少なかった。また、週末の為か大型車の通行はそれほど多くは無かった。
 山田湾内には沢山のいかだが設置してあった。カキの養殖をしているのだろうか?三陸の海はその殆どが入江を持っており豊かな恵みを受けている。





「山田湾内の風景」

 山田町から宮古までは内陸部を走る。200mの山越えがあるが、この付近まで来ると車の往来はあまりなく快適に下りを走れた。宮古湾にさしかかったところで、コンビニ弁当を買い海岸線に出て昼食を取った。本来であれば浜に出て食べられるのだろうけれど、残念かな、海までの間には護岸工事の現場が広がっていた。それでも海を見ながら食事ができた。
 しばらく走ると右手の海岸沿いに洒落た建物があった。それは、以前テレビの番組で見たものに似ていた。一旦は通り過ぎたのだけれど、その建物から眺める海が美しいそうなので、引き返した。その店は「異人館」という店で、店の前で自転車を立て掛けていたらオーナー氏が出てきて自転車置き場に案内してくれた。何やら親切な対応。
 店に入って直ぐにその理由がわかった。玄関を入った正面に2台の自転車がよく手入れをされた状態で置いてあった。そして、自転車の話となった。
 そろそろ、今晩の宿泊場所を確保しなければと、幾つかの宿に電話をいれたが、全てが満員。工事関係者に週末の行楽客が加わったからなのだろう。宮古駅横にある観光案内所で空き部屋を探してもらった。
 ホテルにチェクインをした後、磨耗が激しい後輪タイヤの交換のため市内のサイクルショップに行き、その足で浄土ヶ浜へ向かった。しかし、雲行きが怪しく、浄土ケ浜の突端まで行くのをあきらめ、宮古海戦の記念碑だけを見学しホテルにもどった。
 宮古は函館戦争時、新政府軍と榎本武揚軍の艦船が海戦を行った場所である。



「宮古海戦記念碑」




「土方歳三と東郷平八郎」



 
08:01 | 2015年三陸の旅 | comments(0) | -
2015年三陸の旅 パート5
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「2015年三陸の旅」
 そのァゝ楔邸禅彁

5月31日(日)
々堝阿粒詰廖У楔邸噌馥撮苅宜罅租掴掘租通酥〜普代〜陸中野田〜県道268号〜久慈海女センター〜久慈
⊇佝時刻      :07:00
L榲地到着時刻:16:00
そ蒜顱中村屋旅館
チ行距離:102km
ε係:曇り時々晴れ

「旅の記録」
  宮古の町は見た目には殆どの津波の被害は残っていなかった。それは、多分瓦礫を除去し元の町に素早く復旧させたからであろうと思う。
  しかし、土曜日だったからかも知れないが、町の中心街に活気は感じられなかった。晩飯を食べようとすれば弁当屋かコンビニに行かざるを得ず。見る限りにおいて飲食店は開いていなかった。ビジネスホテルには工事関係者を中心にかなりの宿泊者がいるはずであるが、皆さん晩御飯はコンビニ弁当なのか?





「宮古の市街地」


「宮古市役所」


「宮古の遠景」


  宮古から国道45号線は一旦内陸部を走る。最初に出てくる海岸は田老地区である。小さな漁港町であるが、被害の跡はかなり残っていた。
  そこから内陸部に再度入り、少し走ったところに「たろう道の駅」があった。なぜ、山間のこんな所に、特産品は有るのだろうか?そんなことを考えながら一息を入れるために立ち寄った。
  まだ、早朝の早い時間であり、売店はオープンしていなかったので、特産品を確認することができず。
  次に休憩を入れたのは「熊の鼻展望台」というところである。前もって知っていた場所ではないが、国道から少し分け入ったところに展望の良さそうな所があったので休憩場所に選んだ。



「途中 海岸線の風景」

  展望台に着いたら、「大阪から歩いて日本一周」と表示してあるリックサックが椅子に立てかけてあり、暫くしたらその持ち主が現れた。半時計回りで大阪から日本一周を続けているという。どれくらいかけて日本一周をするのかと聞いたら、3年ぐらいかかるかも知れないと言っていた。よく耐えられるなと感心した。しばし旅人同士の会話を楽しみ、記念撮影となった。







「日本一周の旅人と」

  札幌到着時に再会、そして、互いの無事を祈り別れた。
  それから、暫く行った所に田野畑というところがある。この旅で初めて牛舎を目にした。その後しばらくして「道の駅たのはた」に到着した。この道の駅は、田野畑牛乳をメインに色々な物産が置かれ、併設してレストランがあった。地元産の牛乳で作ったアイスクリームとヨーグルトを食したが、どちらも美味しかった。お勧めの場所である。
  ここまで来ると久慈まではもう少し、普代を過ぎるとまた海岸線に入った。国道45号線と並行するように三陸鉄道北リアス線が走っている。途中、海岸を見渡せる堀内駅で休憩を取った。今回の旅で穏やかな漁港の風景を味わうのは初めてである。ここに来るまでは工事現場の赤茶けた土砂の積もる海岸線ばかり見てきた。







「堀内駅で」

  駅のホームに腰を掛け、缶コーヒーを飲みながら海を眺めた。最高の贅沢である。この駅は朝ドラの「あまちゃん」の舞台となった場所でのようで、トンネルから出た途端に瓦礫が線路に打ち上げられた情景を映し出した場所に似ていた。
  久慈へは国道45号線で直接入らず、途中山越えをして海女センターのある小袖海岸に立ち寄った。テレビで見馴れた堤防とウニ採取の現場が目前にあったが、そこには新しい海女センターが建っていた。



「あまちゃんの舞台となった場所」




「津波から唯一被害を免れた漁船」

「右手が新しい海女センター」


「じぇじぇじぇ発祥の地碑」

  今の海女センターはあまちゃんの番組が終わってから建てられた鉄筋コンクリート3階建の立派なものである。観光ガイドの青年に話を聞いたが、矢張ここも大きな津波の被害を受けたと言う。以前建っていた海女センターは土台を残して流され、付近の建物も全て無くなってしまった。被害はそれだけではなく、漁港に係留されていたすべての漁船は損壊してしまったと言う。ただ、一隻だけが沖に出ていたため助かった。それは、あの紫の旗のなびく船である。
  「あまちゃん」は震災の後に収録されたドラマで、津波からの復興を願う作品でもある。
  小袖海岸は形の良い岩礁が続いていて美しい。





「小袖海岸」

 久慈の市街地入口の「すわ緑地」に津波の慰霊碑があり、お参りと見学をした後久慈駅を目指した。




「慰霊碑と その銘板」
 
 久慈でも駅舎内の観光案内所で紹介してもらった旅館に泊まった。宿泊者は我一人。駅前にある旅館であるが、その駅前は寂れてしまい、津波の影響を受ける前からシャッター街となってしまっているようである。

 
06:38 | 2015年三陸の旅 | comments(0) | -
2015年 三陸の旅 パート6
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「2015年三陸の旅」
 そのΑ久慈〜八戸

6月1日(月)
々堝阿粒詰廖У彁〜国道45号〜種市〜蕪島〜八戸
              八戸発(22:00)〜フェリー〜(翌06:00)苫小牧着〜札幌
⊇佝時刻      :09:50
L榲地到着時刻:18:25(八戸フェリーターミナル)
ち行距離:88km
ヅ係:晴れ

「行動の記録」
  いつもの通り、夜明けを待つかのように目を覚ました。そして、窓を開いたら空は快晴。それなら、と、スマホで三陸鉄道北リアス線の時刻表を検索した。
  久慈発05:13の便で普代まで行き、普代発06:02久慈行きの便に乗れば朝食時間の7時半までに帰ってくることができる。ようし行こうと決心した。そうと決まれば行動は早い。洗顔をした後、とりあえず必要なものを持って駅へ向かった。
 


「三陸鉄道 久慈駅」

「JR久慈駅」

  電車が来るまでの間、駅前を散策した。当然、いたる処に「あまちゃん」の看板が掲げられてある。しかし、それとは別に、錆び付いたシャッター、破れ、朽ちかけた日さしが目についた。
  これが、遠来のお客さんを出迎える駅前なの?









「久慈駅周辺」

  久慈の町の作りは駅を中心に据え、東側に市役所などの公共機関、西側に商店街、飲食店を置いている。そこに、進出してきたのが郊外型の大型店である。それらは大きな駐車場を備え公共施設のある駅の東側に展開した。その結果、駅前はシャッター街になってしまった。北海道にもいたる処にある現象である。折角「あまちゃん」で観光客が来るようになった久慈なのに何とか出来ないものなのだろうかと悲しく思った。
  宮古行きの始発は2両編成で普代へ。そこで、1両を切り離し、久慈まで折り返して運転するらしい。






  宮古行きの電車に乗客は我一人。当然と言えば当然のことで、こんなに早く起きて、ただ電車に乗る物好きはいない。我としては、昨日、自転車で走った時に見た安家川橋梁 、堀内駅から景色を車窓から眺めてみたいと思ったものだから乗車した。もう来ることは無いかもしれないし、自己満足の思い出作りのためである。
  車窓から見る海の景色は、朝陽が海面に反射しキラキラ輝いている。日の出の時間帯にこの景色をみれば感慨無量であるとおもうが、それは、晩秋と初春の頃だろうか?



「安家川橋梁からの眺め」


  「堀内駅からの眺め」

 普代駅に到着して、この電車が折り返す目的がわかった。久慈高校へ通学している子供たちを運ぶ通学電車であった。陸中野田、陸中宇部へと走る中で、高校生の乗客で満員となった。
  宿に戻ったのは7時少し前。朝食時、宿の女将さんと親しく話す機会があった。津波の事、久慈の事、この近所のこと、北海道の事を話題に話をした。このような会話は古びた旅館であるからできることで、昨日チェックインして部屋に入った時は、部屋の窓を開けたらそこは隣の家の壁、夜中は酔い客の話声が耳につき、ひどい宿に泊まってしまったと思ったが、この会話ができたことで帳消しとなった。津波による久慈の被害は、駅の東側にある港と、久慈川沿いが大きかった他、国家備蓄の石油基地が被害を受けたということであった。
  今日の天気予報は快晴。日焼けが気になり町中のコンビニで日焼け止めオイルを買った。
  今日のコースは今までと違い長い上り坂は少ない。天候も味方をして快調に走れた。12時すこし前に種市の海岸に着いた。
  ここには、城壁を思わせる巨大な防波堤があり、それを潜ると左手には漁港、正面はキャンプ場を兼ねた海水浴場となっていた。今まで通ってきた海岸とは明らかに違った静かな海が正面にあった。






「城壁を想像させる様な防波堤」






「種市海岸」



「種市漁港」

  パンをかじりながら海を見ていたら、清掃のおばさんがやってきた。津波の事を聞いたら、防波堤を越えることは無かったが、内側の施設と漁港は被害を受けたという。ここまで北上してやっと防波堤の力が発揮された。もし、津波がこの防波堤を乗越えていたら・・、今ここにある町並は無くなっているのだ。雄勝、志津川、陸前高田、大槌・・・全てを無くしてしまった町の様に。
  種市の小さな街並をみて、津波が防波堤を乗越えなくて本当によかったなと思った。
  この防波堤は平成6年に建設されたもので、高さ4、5mあった。



「途中にあった小さな港」

  暫く進むと種差海岸に出た。ここにも海浜公園がある。よく手入れをされた芝生の先に大小の岩礁が並ぶ、景観はまるで絵画のようだ。老若男女が思い思いに海の景色を楽しんでいた。


「種差海岸の風景」

そして、八戸に着く前に立寄ったのは蕪島。ウミネコの繁殖地で、島全体が神社の境内のようになっており、そこには、繁殖を終えたばかりのウミネコの大群がいた。人間を恐れず、雛も手を取って眺められるほど近くにいた。









「蕪島とウミネコ」

  温泉に浸かり、日が落ちる前の18:30頃にフェリー乗り場に到着した。
  今回の旅は、2011年3月11日の津波で被害をうけた三陸の地を、自分の足で訪ね、自分の目で直に確かめてみたいと思い行った。
  被災地では4年間経過した今でも殆んど手つかずのところもあり、被害状況は想像を超えたものであった。
 それは、人が写した写真の画像や映像では判断をすることが出来ない。現場をおとづれ自分の目で見てやっとその概要をつかめるが、それでも不足し、そこに住んでみて始めてその被害の大きさを知ることができるのではと思う。
  元の美しい町に戻れるのは何時のことなのだろうか、5年後なのか、いやそれ以上、10年もかかるのか。口で言うのは簡単なことであるが、そこに住む人のことを考えると、今までに4年の年月が経過し、更に5年、10年である。気の遠くなるような話である。「頑張って下さい」。と声をかけるのも辛く感じる。
  最近、北海道において被災地のニュースが話題になるのは、震災が起きた3月11日と、その前後くらいで、段々話題から遠のいているのが現実である。
  私にできることは何もないが、今回の旅で見聞きした三陸の姿をしっかり脳裏に留めておこうと思う。そして、何か機会があれば周りの人に被災地の皆さんの置かれた厳しい現実を伝えて行こうと思う。
  普段の三陸の海は波静かで美しい。そこには豊かな漁場が広がっている。今も仮設住宅で暮らしている人が沢山おられるが、早くこの美しい故郷の地に戻れることを祈りたい。

 
05:59 | 2015年三陸の旅 | comments(1) | -
囚人が作った道路を走る パート1の1
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「明日から囚人道路の旅に」
2014年7月24日(金)
7月25日から29日までの間、釧路〜網走〜旭川を走る。
テーマとしたのが『囚人が作った道路を走る』で、札幌から釧路まで輪行で移動し、釧路〜塘路〜標茶〜摩周〜硫黄山〜野上峠〜小清水〜網走〜北見〜留辺蘂〜栄〜遠軽〜丸瀬布〜北見峠〜上川〜旭川を走る。そして、輪行で札幌に帰る。走行距離約400kmの自転車旅行である。
北海道の刑務所と言えば高倉建の『網走番外地』を思い起こす人が多いと思うが?いや、それば団塊世代か?
北海道開拓の歴史を振り返るときに囚人達が行った労働を抜きに語ることはできない。樹木が鬱蒼と茂り、熊・獣の住む踏み分け道さえない未開の大地に第一歩を踏み入れたのは彼ら囚人達である。
それは、道路の建設、灌漑溝の掘開、屯田兵屋の建設等の土木工事や、石炭、硫黄の採掘。農作物の栽培、畜産・酪農等の農業作業など多岐に渡った。それらの囚人労働は、多くの犠牲者を出すことになり、中でも明治24年に行われた中央道路(旭川〜網走間の道路)の開削工事は過酷を極め、多くの人柱の上に道路が建設されたと言っても過言ではない。
北海道に初めて集治監が設置されたのは明治14年で、現在の月形というところに樺戸集治監が建設された。翌明治15年には三笠に空知集治監が、明治18年には標茶に釧路集治監が建設された。設置当初、各集治監に与えられた役割は、樺戸集治監には道都札幌及び周辺の土木工事、空知集治監には幌内炭坑での石炭の採掘、釧路集治監には硫黄の試掘であった。その後、明治も20年代に入り、それぞれの集治監に道路開削工事の役割が付与された。
北海道の開拓を語るときに彼等の貢献を忘れることはできない。更に知っておく必要があるのは、当時、北海に送り込まれた囚人は、極悪人だけではなく、自由民権運動等に関わった政治犯もいたということで、政治体制によっては国を動かす側についたかも知れない人達が沢山いたと言うことである。
囚人による道路の建設は、北海道の開拓史に残る重要な出来事であり、以前から訪ねてみたいと思っていた。



 
07:57 | 2014年囚人道路を辿る | comments(0) | -
囚人が作った道路を走る パート1の2
「札幌から輪行で釧路へ そして塘路へ向かう」
2014年7月25日(金)
々堝阿粒詰
  札幌〜釧路へJRで移動
  釧路〜R391〜塘路
塘路到着:15:05
宿泊場所:とうろユースホステル
ち行距離:30km
ヅ係:はれ

「旅の記録」
  最寄りの地下鉄駅まで妻に車で送ってもらい、08:51札幌駅発スーパーおおぞら3号に乗車し一路釧路へ向かった。



「札幌駅で」

  今日の目的地は釧路から北へ30kmほど上ったところにある塘路。そこに標茶町立の郷土館があり、学芸員の方に15:00頃に伺うと連絡を入れていた。釧路駅前で自転車を組立、出発準備を20分程度で行い、いざスタート。
この間に観光客の写真撮影のお手伝い、携帯電話で連絡も入れたので、20分間の出発準備は今までの最短記録更新である。
久しぶりの道内の自転車旅行。釧路市街地を外れ釧路川沿いの樹林地帯に差し掛かった時、やはり、北海道のサイクリングは良いなと感じた。道路は広いし、行きかう車は少ない。風はすがすがしい。こんな快適なサイクリングを楽しめるところは北海道にしかない。
標茶郷土館は釧路集治監の本部庁舎であった建物をこの場所に移築したもので、訪ねるのは今回で2回目である。以前訪ねた時、今日お会いする学芸員の方は求めに応じて資料を準備して下さった。それには、用事があり立ち会えないとメッセージが添えられていた。今回はその時のお礼と、囚人道路に関する情報の提供依頼である。



「標茶郷土館 旧釧路集治監庁舎」

私の持っている人脈のネットワークと、学芸員さんの持っておられるネットワークに重なる部分があり、親しい会話と情報交換ができた。
『とうろYH』に到着したのは16時を少し回った頃である。このYHは清潔感のある洒落た感じの施設で、バルコニー越しにJR塘路駅が、その先には塘路湖が臨めるという場所に立っている。中々の展望である。
夕食時にオーナーから、「夜になるとホタルがご覧になれますよ。最終列車がくるときには電気をけしますのです、夜汽車の明かりを楽しんで下さい」とメッセージが添えられた。
今日のお客さんは、その最終列車で到着した北京から来たという若いカップルを含め9人で、内5人は夕食時一つのテーブルを囲んだ。皆さん旅を楽しまれている方で、それぞれの旅について語り合いながら食事を楽しんだ。




「塘路YH]

最終列車の明かりが見られるのは10時5分。ご老体の疲れた身には少々キツいのだけれどスマホで日記をつけながら暫く待った。するとホタルが出没した。蛍を肉眼でみるのは小学校時代、能登半島の叔母さん宅に行った時以来。いや、その後に富山でも見ているかな。そんなに遠い記憶でしかない。この蛍の光を宿泊者と一緒に楽しみ、本番の『銀河鉄道』が停車するのを待った。
この頃にはギャラリーが増え、夕食を囲んだメンバー全員がカメラ片手に集まって来た。どうすればカメラの画像に収められるか、わいわいガヤガヤ。さすがそれは無理であったが、幻想的な列車の光源だけはこの目に焼き付けることが出来た。
このYHのキャッチフレーは『ようこそ銀河鉄道の旅へ』
勝手に自分で考えた。

 
07:53 | 2014年囚人道路を辿る | comments(0) | -
囚人が作った道路を走る パート1の3
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「塘路〜小清水へ」
2014年7月26日(土)
々堝阿粒詰
  塘路〜標茶〜摩周〜硫黄山〜小清水〜濤沸湖
塘路出発:07:45
濤沸湖到着:16:05
そ蒜饐貊蝓Ь清水はなことりYH
チ行距離:114km
ε係:くもり〜雨
「旅の記録」
今日走る距離は長いし、途中で立ち寄りたい場所も多い。朝食の案内をされたのは7時25分であったが、手早く食事を済ませ出発をした。
何年か前に訪れた時は朝靄に霞む幻想的な塘路湖を見たのであるが 、今回は生憎の曇り空で湖面は沈んでいた。



「塘路駅」


「湿原を遠望しながら走る」





「シラルトロ湖」


「シラルトロ湖付近」

国道391号線を一路標茶へ向けて走った。当初は湿原の脇を走る道で左右の景色を眺め、時々停車しカメラを構えながら走った。暫くすると森林内を縫うように走る道となり、15km余り走った頃だろうか、一気に視界が開け標茶の平野が広がった。そして、湿原を澱むようにゆったりと流れていた釧路川が、一転、流速を早め標茶の平野を分断するように流れていた。


「釧路川 標茶付近」


「国道391号線に沿って走る釧網本線」


「標茶の牧場風景」



釧路から塘路、標茶へ向けて走ることにより、屈斜路湖を源として発する釧路川が弟子屈〜標茶〜釧路の大地に恵みを与える母なる川なのだとあらためて実感した。そして、この川が作り出す釧路湿原は、各種の植物をはじめ、野鳥・動物達の棲家として豊かな自然を提供している。更には、私のサイクリングも楽しませてくれた。
暫くして標茶市街に到着した。最初に向かったのは標茶墓地。ここに慰霊碑と死亡者の墓がありお参りをしてきた。墓碑には明治18年から明治29年の死亡393人と刻まれていた。その多くは硫黄の採掘、道路建設等土木工事による犠牲者である。
釧路集治監は明治18年に、樺戸、空知集治監に続く3番目の監獄として設置された。目的はこの地域の開拓の労働力としてであるが、まず、最初に与えられた労働が硫黄山での硫黄の採掘である。しかし、多くの犠牲者を出すこととなり、明治20年、足掛け2年で撤退をした。その後、行われたのが道路建設である。今日、走った道路の多くは囚人達が掘削した道路である。当時の状況は想像するだにできないが、昼なお暗い原生林の大木が生い茂る山中をどの様にして測量し、木を切り、岩盤をくだき、橋を架け、道路を作っていったのだろうか。
標茶の集治監が置かれた場所は、現在、標茶高校のキャンバスになっており、校庭の一角にここに集治監があったのだという証の石碑が置かれていた。それは、この碑もあたかも罪人であるかの様に木の影に隠れるように置かれていた。やはり、生徒たちはここが監獄であったとは知っていても、そうだと思いたくないもかもしれない。



「釧路分監獄の跡碑」


標茶から弟子屈までの道のりは平坦で麦畑と牧場の風景が連なっていた。釧路に発生する海霧の影響はここまで及ばないのだろう。


「摩周駅」

弟子屈に着いたのは11時を少し回った頃。少しエネルギー源を補充しようとコンビニに入った。店の前に初めて見る手押し車のようなものが置いてあり、その脇に外人さんが立っていた。先ずは日本語で「歩いているのですか」と声をかけた。英語が返って来た。その後、半分ほどしか分からない片言の会話のなかで、日高山脈の最高峰『幌尻岳』に登りたいと言っていることが分かった。


「外人さんと」

私も20数年前に登ったことがあり、素晴らしい山だと答えると、何処から登ったのだ?そこにはどうしたら行けるのだ?しかし、持っている地図はA2版程度の用紙に北海道が乗かっている観光マップ。これでは、分かるわけがない、再度コンビニに入り道路地図で説明。この外人さん、最寄りのバス停から歩いて山に登ろうとしている。その質問には日本語でも答えられない。最後は分からないと答え、釧路は大きな町なので、釧路の本屋で登山地図を買うといいよと付け加えた。そして、記念写真をとり、互いの旅の無事を祈り別れた。
硫黄山の麓に囚人達が働いた精錬所が有ったと言うが、今は林のなかに埋まっている。
この付近ではないかと思われる場所は国道から林の中に500mほど分け入った場所にあるらしい。国道わきから数本の廃道が伸びていた。そのうちの一本の道を進み、この付近ではないかと思われるところで写真を撮った。その場所になにやら古い木片が落ちていたので、それも写真に収めその場を去った。ここは、ブヨとアブの棲家で、数分の間に手足が腫れあがった。



「硫黄の精錬所があった付近」


「古い木片を拾った」


「硫黄山」


「川湯温泉駅」

今日の目的地小清水YHまであと40kmほど、最後の難関は野上峠標高320mで、その後は小清水へ向け下るだけ。森林を抜けるとよく整備された畑地が広がった。明らかに釧路から弟子屈にまでの間に見た農村の景色とは違った。作物は、麦、じゃがいも、甜菜などであった。この地は、豊かな畑作地帯であると実感した。この頃から雨脚が強くなったが、16:05小清水『はなことりYH』に到着した。


「野上峠」


「野上峠から小清水へ向け下る」






「小清水の美しい農場風景」

釧路から小清水までの囚人たちが掘削した道路は、一部鉄道部分も含まれるが、現在も釧路から網走や斜里に向けて物資を運ぶ産業道路としての役割を担っている。大型車の通行が多くあった。
 
07:01 | 2014年囚人道路を辿る | comments(1) | -
囚人が作った道路を走る パート1の4
「小清水〜北見へ」
2014年7月27日(日)
々堝阿粒詰
  小清水はなことりYH〜網走〜二見ヶ岡〜鎖塚〜北見
⊇佝:08:10
E着時刻:15:25
そ蒜饐貊蝓北見スーパーホテル
チ行距離:81k
ε係:くもり〜雨
「旅の記録」,
はなことりYHでは2人のライダーとの相部屋。食卓テーブルも同じで意気投合し気兼ねなくすごせた。
『はなことりYH』は一昨年の7月にも泊まっており、お気に入りの一軒である。既存のユースホステルの慣習にとらわれない、色々なアイディアの中にオーナーの宿にかける意気込みを感じるので、特に気に入っている。
料理もビールを飲みたくさせる様に気を使ってくれているのはあり難い。因みにこれが夕食のメニュー表。多くの宿泊客はわざわざこの様なものを見ないかも知れないが、そんなこだわりの中に真剣味を感じる。頑張ってもらいたい。




「はなことりYH」


「夕食のメニュー表」

昨晩の天気予報は雨。しかし、朝起きたら、曇り空であるが雨の気配はない。天は我に味方をしてくれたと信じYHを後にした。


「濤沸湖」


「スタートし 農道を走る」

やはり、天は我に味方をしてくれなかった。出発して直ぐに小雨がきた。時間の経過とともに雨脚が激しなった。そして、藻琴を過ぎたあたりから本降りになりカッパを着た。
この雨、気に入らないのは、網走監獄博物館にいる2時間だけ降らなかった。見学を終え自転車を走らせた途端に、また、降り出した。そして、北見の宿に到着したら止んだ。今日は雨に降られても良いと思っていたが、この仕打ちには神を恨んだ。
目的の『囚人達が作った道路を走る旅』。とは言いつつも、走っている時はいつも通り、その土地の景色を楽しみながら走っている。
今まで何度か車・自転車で走った藻琴、北浜、小清水・・・・斜里まで続く海岸線は何もない殺伐とした、ここが北海道だと異郷の地を彷彿させる場所であるが、一歩、涛沸湖の南側の丘陵地帯に入ると、そこには、広大な農村風景が拡がっていた。そして、豊かな大地を感じた。途中、畑作業をしている人に声をかけた。この付近の農家の人は20〜25ヘクタールの農地を所有している。多い人は35ヘクタールもあるという。麦、甜菜、豆、ジャガイモ等を栽培しており、それらの織り成すパッワークは美しい。




「小清水の農場の風景」


「農村の風景の中を走る」


「藻琴駅」

網走監獄博物館に到着したのは10時半頃。この施設を見学するのは3度目であるが、アジアから来た旅行者の多いのにはビックリした。多分、入館者の半分?は外国人のようである。


「監獄の庁舎」



「舎房の内部」


「道路建設工事で使われた仮監獄」


「仮監獄 茅葺屋根」


「仮監獄 内部の姿」

ところで、彼ら外国人はこの施設を見学し何を感ずるのであろうか?資料館に展示しているパネルの内容は少し勉強している私には解るが、北海道の歴史という予備知識のないそれら外国人にどの様に写るのだろうか。いや、北海道に住む人達も解っていないかもしれないが。
各施設に展示している人形はリアルで、この人形が独り歩きをし、史実を伝えるのかもしれない。
博物館を出たのは12:25。後は北見に向け囚人道路をひた走る。
網走湖西岸に差し掛かった時、雨脚が強くなってきた。雨に濡れないように、カメラ、
スマホ、財布、地図等が入っているポシェットをサイドバックに仕舞い込んだ。



「二見ケ岡の慰霊碑」

網走湖の西側の丘陵地帯に二見ヶ岡というところがあるが、囚人達が切り開いた大農場のあるところである。ここから、喜多山にかけての農場風景は美しい。網走監獄を訪ねた方には帰り道としてこの付近をドライブすることを勧めたい。美瑛丘陵を彷彿させる丘陵が続いている。



「峠 双鏡台」

カメラはサイドバックの中で、残念ながら画像はない。
峠を降りたところに緋牛内というところがあるが、そこに、『鎖塚』の慰霊碑がある。この場所から鎖に繋がれた囚人の遺骨が出てきたことから、慰霊碑を建てたものである。



「鎖塚 慰霊碑」

ロシアの脅威から北海道を横断する道路の建設を急ぐ時の政府の意向をふみ、北海道庁は明治23年から明治24年にかけて旭川から網走までの道路を建設した。その中で、明治24年4月〜12月の間に行われた網走から北見峠まで161kmの道路建設が網走監獄を中心に約1500名の囚人が投入され、238名の囚人が犠牲となった。亡骸は路傍に打ち捨てられるように埋葬され、中には、この『鎖塚』のように鎖に繋がれた状態で発見された遺骨もあった。
網走から北見峠にかけての国道筋には多くの遺骨が放置されたままになっている。そんな囚人たちの亡骸を供養しようと地元の人たちが慰霊碑をたてお参りをしている。
ずぶ濡れになってしまったが15:30過ぎ北見の宿に到着した。今日のお宿はよく利用するビジネスホテル。人との会話はないが、その分、洗濯、自転車の手入れに専念できた。

 
06:15 | 2014年囚人道路を辿る | comments(0) | -
囚人が作った道路を走る パート1の5
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「北見〜丸瀬布へ」
2014年7月28日(月)
々堝阿粒詰
  北見〜留辺蘂〜栄〜遠軽〜上湧別〜遠軽〜瀬戸瀬〜丸瀬布
⊇佝時刻:08:35
4歙ド枦着:15:45
そ蒜饐貊蝓П杆緡拘
チ行距離:83km
ε係:曇り〜晴れ
「行動の記録」
今日走るコースの内、北見から留辺蘂までは、屯田兵の入植地を訪ねる旅で走っている。そこから先は、一部自家用車で走っている区間もあるが、自転車では走っていない。
今日の天気は晴れベースなのだが、出発した8時半頃はまだ霧雨が降っていた。道路上には木葉が落ちていたので夜中はかなりの風が吹いたようである。
ホテルを出て一路相内へ向かった。ここにも慰霊碑があるが、参拝する前に一軒の御菓子店に入った。店はリユーアルしていたが4年前に自転車で訪ねたとき空腹を癒すために大福餅を食べた店だった。創業100年近いという相内の老舗“圓泉堂”で、その時、おられた方に相内屯田兵村のことを色々うかがった。



「相内の圓泉堂 製菓」

今回も、その時に食べた大福を食べたくて立ち寄ったのだが、今回応対してくれた人は若い女性だった。聞いたら若店主の奥さんだった。そして、4年前の話しの続きに付き合ってもらった。相内は昭和31年まで独立した町だった。しかし、町村合併で北見市に吸収されてしまった。駅前も寂れ、唯一この店だけが頑張っているといっても過言でない。小さい時に食べたお菓子の味は忘れられないのだろう。相内を去っても買いに来て下さるお客さんは多いと言っていた。
食べるための大福だけではなく、土産用に一箱作り、郵送してもらった。そして、「頑張って下さい」と激励し店を離れた。このかけた言葉は本心であり、相内の老舗として暖簾を守っていってもらいたい。


「相内の慰霊碑」


「相内から留辺蘂方向を眺める」



「留辺蘂の麦畑」



「白龍山編照院」


「留辺蘂の駅逓跡」


「留辺蘂から丸山峠へ向かう」


「留辺蘂から北見方向」

相内にある慰霊碑参拝の後、留辺蘂から佐呂間方向の栄に向かった。途中の丸山峠にも碑があるので立ち寄った。道路わきに傾いた看板があり、その奥に、慰霊碑が建っていた。慰霊碑の後方に灌木が生い茂り、御影石に記された文字を読み解くことができなかった。




「丸山峠にある慰霊碑」



「丸山峠から留辺蘂方向」

慰霊碑のある場所から100m行くか行かないかの先に立派なパーキングゾーンがあった。この慰霊碑、なぜその場所に移設しないのだろうと疑問に思った。慰霊碑には御霊を弔うことと、史実を後世に伝える目的もあるのではなかろうか。そんなに経費が掛かるとは思わない、是非移設をしてもらいたいものである。
栄は佐呂間町の西はずれにある山間の小さな集落と言った感じである。5kmほど手前に花園というところがあり、そこに駅逓があった。
駅逓は街道筋にある公設の宿であり、人馬による輸送の中継所で、集落はその駅逓の周りに出来上がったところが多くある。因みに今まで通過した端野、野付牛、相内、留辺蘂には駅逓所があった。この栄は山間部にあるため、多くの入植者を受け入れることができず。現在に至っては、少ない入植者の子孫が都会に出て行ってしまい、過疎化が急激に進んでいる。これが、他の地を含め北海道の現状のようだ。


「いたるところにある廃屋」

栄から更に国道333号線を遠軽方向へ向かうと自動車道が一部開通していた。原付、自転車、歩行者は立ち入り禁止で、それらは旧道を通りなさいとの指示。予期した通りの急な山越えの道であった。安国に出るまで通行していたのは我ただ一人。果たして今日一日でこの道路を利用した人は何人いたろうか。一年間に通行する人の数は?そうすると一台の車を通行させるのにかかる費用は?どうしてもそんなことを考えて仕舞う。
旭野トンネル前にキツネがいた。我の存在を気づいていない。めったに人に合わないので警戒心がまるでない。「キツネ」と声をかけたら、びっくりして飛び跳ねるようにして逃げていった。車の通過する気配は一斉ない。熊の出没を考えたり、おかしな想像をしたりして旧道を走った。


「栄付近のとうきび畑」

遠軽の入り口に食堂があつたので、やっと飯にありつけたと思い暖簾をくぐった。時間は13時を大きく回っていた。留辺蘂から、店らしい店はどこにもなかった。おかげで、相内で買った大福が大いに役に立ち空腹をいやしてくれた。
中央道路で一番悲惨な史実を後世に伝える場所が瀬戸瀬かも知れない。ここは、病院監獄がおかれた場所で多数の傷病患者が収容されていた。そして、その脇には67柱の亡骸が埋葬されていた。



「瀬戸瀬にある山神の碑」

この『山の神』という墓標は、この病監を住居として使った駅逓の支配人佐藤多七が山から石を運び出したてたもので、死後も囚人と呼ばれるのは酷であると“山の神”と刻印した。屋根は近くの婦人達が雨風に当たらぬようにと明治38年にかけたものである。



「瀬戸瀬にある慰霊碑」

丸瀬布に到着したのは15時45分。今日のお宿は丸瀬布駅間にある唯一宿『越後屋旅館』


 
18:21 | 2014年囚人道路を辿る | comments(0) | -
囚人が作った道路を走る パート1の6
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「丸瀬布〜旭川へ(ゴール)」
2014年7月29日(火)
々堝阿粒詰
  丸瀬布〜下白滝〜北見峠〜中越〜国境〜上川〜伊香牛〜旭川(永山)
  旭川(永山駅)〜JR〜札幌駅・・・自宅
⊇佝時刻:04:35
0粟遏扮併咳悄謀着11:55
ぜ宅:16;00
チ行距離:113km
ε係;晴れ
「旅の記録」
昨晩の天気予報では旭川の最高気温は31度。北見峠(857m)を越えなければならない。どうするか。思案の結果、夜が明けたら出発し、涼しい内に峠を越えてしまうことにした。
宿の女将さんには、その旨を伝えて、昨晩中に宿代を清算してもらった。
朝3時頃に起床。身支度を終えた04:00頃、玄関先に荷物を運んでいたら女将さんがもう起きていた。女将さんはかなり高齢の方で、年寄りだから朝が早いのかな?玄関先まで出て見送ってくれた。



『越後屋旅館」


「丸瀬布駅」

この越後屋旅館、創業約100年と言うから大正の時代である。丸瀬布が林業、鉱業の中継地として発展しつつある時なのだろう。近くには金山で有名な鴻之舞鉱山があり、当時は繁盛したのだろう。現在は上川から伸びる自動車道の工事が丸瀬布まで終わり、今後に期待するものは殆どなくなってしまった。80歳を超えた妹さんと二人で切り盛りをしているが、あと何年この旅館を維持してくれるのだろうか。
実はこの旅を計画する時、丸瀬布の先の白滝まで足を延ばし宿を取りたかった。ネットで検索したら白滝には温泉旅館が1軒と他に3軒の宿があったが、全て廃・休業中であった。自動車道が開通したために宿の需要が無くなったのだろう。
囚人道路を辿る旅も最後の日となったが、この区間が難工事で、多数の死者を出すことになった。その亡骸は道路わきに埋葬され、今では、その所在すら分からないという。


「丸瀬布の製材所」


「農場の風景」


「国道333号線を走る」


「湧別川の流れ 前々日の雨で増水している」


「下白滝駅」




「鉄道と並行して国道が走る」




「目につく廃屋」

そんな事を、心の片隅にしまいながら山中を走った。
遠軽〜丸瀬布〜下白滝〜白滝〜上白滝〜奥白滝までは北大雪山系の谷あいを流れる湧別川に沿って道路が開削された。それでも、遠軽〜上白滝までは500m〜1000m位の幅の平地があり、現在でもその一部を使って牧畜、畑作が営まれている。特に、白滝は盆地を形成し、市街地も発達していた。


「白滝駅」



「白滝駅のホーム」




「白滝の町は寂れ行く」


「白滝付近の農村の風景 麦と廃屋」


「白滝付近の農村の風景 そば」



問題はここから北見峠までで、距離にして約10kmの区間である。標高差300〜400m位あり完全な山地地形で、ここに幅3間(約6m)の道路を通すというのであるから並大抵のことではない。平地であれば土砂が堆積しており整地は容易であるが、山間部となると表面を剥ぐと下は岩盤である。ツルハシとモッコしかない時代にこれを開削するのは並大抵のことではなかったろう。






「囚人が作った道路は今」

中央道路(北見道路)のうち、網走から北見峠までの161km区間の工事は4月に開始し12月に完了しているので、この付近の工事は、秋の深まった頃に行われたと思われる。夜間の気温は氷点下に下がっているはずである。また、掘削工事の終わった道路は秋雨でぬかるみ通行を困難にしていたのではないかと推測される。
工事も最終局面を迎え、この地域一帯で作業に従事していた囚人が1000近くおり、それに必要とした食料その他の物資を150km後方の網走から運ぶのであるから、滞りがちに為らざるを得なかったであろう。150kmというと徒歩では4日かかる距離で、馬を使っても2日はかかる。どうやって必要な物資を運んだのだろうか?ある資料によるとアイヌ人を使役し馬で輸送したと記されてあるが。その実態は如何であったのだろうか興味の湧くところである。
この工事において300人余りの人(囚人だけではなく看守等監獄の官吏も亡くなっている)が亡くなっている。その多くはこの山間部の工事区間で亡くなっているのではないだろうか、病監のあった瀬戸瀬では棺に入れられた47体亡骸が発見されているが、瀬戸瀬の病監は、これら前方の工事現場で発生した傷病者を後送したものだろう。道端に打ち捨てられるように埋葬された囚人は、後送することすらできなかった囚人達である。この付近の山中には100体近い亡骸が、何処とも知れず遺されているのである。
自動車道の開通により、殆ど車の走らなくなってしまった国道333号線である。そんな工事の状況を推理しながら北見峠に向け黙々とペダルを漕いだ。峠に着いたのは08:20、北見峠の頂上は青空が広がり風はさわやかであった。




「もうすぐ北見峠の頂上」


「峠の頂上に立つ殉難者慰霊碑」


「閉鎖され忘れ去られたた峠の茶屋」 

過去、車の往来があった頃に繁盛した峠の茶屋は、今では全て閉鎖されており、窓には板が打ち付けてあった。そこに、「中央道路開削 殉難者慰霊の碑」が寂しく建っていた。
また、余念がよぎった。自動車道が開通したおかげで、旧国道を通る人・車はいなくなった。丸瀬布の越後旅館を出るとき女将さんから「『鈴』を持った」と、冗談とも本気とも取れる言葉をかけられた。熊が出没してもおかしくない道路になってしまったのだ。シカは丸瀬布を出発してすぐに横断した。過去囚人たちが切り開いた道そのものが、森の中に消え去ってしまうのかもしれない。
多くの囚人たちがこの工事で命を落とした。囚人だけではなく管理に当たる刑務官も亡くなっている。いずれ、この史実は博物館の資料と歴史書の中だけに残ることになるかもしれない。誰もいない北見峠にひっそりと建つ碑を拝み、何やら悲しい気持ちになった。
登りの後には下りがある。857mの北見峠から上川へ向け一気に下る。対向車の殆どない国道である。快適そのものの走行であった。



「北見峠を降り上川へ向かう」

北見峠から上川へ向かう経路は、白滝〜北見峠に向かう経路よりも更に山深い。廃屋があったのは峠から12km下った中越というところが初めてだった。

「初めてあった廃屋の場所に建つ 中越駅逓跡の碑」

旭川から北見峠までの工事には空知集治監の囚人が動員された。ここでも、多くの囚人が亡くなっているが、あまりその史実は伝えられていない。
未開の地である網走に監獄を建設し未開の地へ向けて道路を作った東側ルートの工事と、開発の槌音が聞こえ出した旭川から工事を始めた西側ルートでは物資の補給という面で有利であったと思われる。飢え、特に水腫病患者は西側ルートの工事で発生しなかったのではないかと思われる。
04:35丸瀬布を出てから高梨沙羅ちゃんで有名になった上川についたのは09:50。ここにきて初めて人の往来を目にした。駅も立派である。



「上川駅 町は沙羅ちゃん一色」


「一路旭川へ」


「母なる川 石狩川」


「米どころ上川」

最終ゴール地点のJR永山駅に到着したのは11:55で、急いで輪行準備を行い12:42分発の電車に乗り込んだ。



「旭川駅」
 
17:37 | 2014年囚人道路を辿る | comments(1) | -
南部の旅第1段(その1)
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 南部の旅第1段(その1)
2013年10月12日(土)
々堝阿粒詰
出発時間(自宅) 12:00
 自宅〜国道36〜恵庭〜千歳〜苫小牧(フェリー乗り場)
 苫小牧港発(21:15)〜八戸港へフェリーで移動
八戸港到着時刻:13日04:45
宿泊場所 船内
ち行距離:64km
ヅ係:晴れ

「旅の記録」
  今年最後の自転車の旅。年に3回自転車による小旅行をしようと年の始に考えた。
  先ずは6月の根室、8月の下北の旅、そして、今回は下北の旅の続編で、青森県の太平洋側から岩手県の北部地区の旅を計画した。
  苫小牧から八戸までフェリーで渡り、八戸から三沢、小川原湖沿いを北へ向かい、野辺地まで上り。そこから、国道4号線を七戸、十和田、五戸、三戸、二戸と南下し、天候が良ければ「あまちゃん」の舞台、久慈へ。最後に八戸まで三陸北海岸を走る。
  自宅から苫小牧港往復の130kmを含め約450kmの走行である。
  今回の旅のテーマは、「会津藩転封の地である斗南の歴史と、南部藩北部地域の歴史をたどる」である。

  朝、目を覚ましたら、強風と横殴りの雨が降っていた。 
  大丈夫だろうか?無理はよそう。天気が悪ければバスか列車で苫小牧港まで行こう。
  幸い午後から青空が広がり、風こそまだおさまっていなかったが、まずまずの天気になり、予定を1時間早め12時に自宅を出た。
  いつもの事だが、旅の始めは気持ちがのらない。
  そんな、気持ちを吹き飛ばすためにお天と様が企んだのだろうか、走りはじめて30分も行かないうちにパンクをした。今年になって二回目である。
  久しぶりのパンクで要領を得ない。空気を入れる時に無理な力を加え、空気入れのフォルダーを破損してしまった。
  しかし、これが幸いし、旅人の気持ちに少しだけなれた。
  途中、千歳空港の近くで、着陸態勢に入る飛行機の写真を撮っている人がいた。ちょっと休もうと、そこで、一回目の休止。


「着陸態勢の飛行機」
 
 2回目の休憩は、ウトナイ湖のバードサンクチャリーの展望ポイントで小休止をした。国道36号線から少し入り込んだウトナイ湖の岸にある。
  何度もここの場所を通過していたが、何時も素通りしていた。今回は、苫小牧港到着予定までに時間があり立ち寄ることにした。国道から1km程林の中を進んだところに、ひっそりと観察小屋が建っていた。
  そこでは、バードサンクチュアリーのメンバーの女性が丁寧に説明をしてくれたこともあり、自然の中に身を置くことができた。心癒される場所であり、お薦めの場所である。


「バードサンクチュアリー ネーチャーセンター」

  フェリー乗り場には5時少し前に到着した。日暮れまでには、もう少し時間があった。
  自転車をたたみ輪行バックに詰め、パンクしたタイヤの修理を行った。
 パンク修理を終えた時、神奈川からバイクで旅行しているという同年輩くらい男性から声をかけられた。
 その人曰く。今まで仕事に追いまくられる人生であったが、40日間ほど暇ができたので、バイクで日本一周をしているという。
 子育てを終え、人生の一区切りができた時こそ、今までにできなかったことに情熱を燃やすのも必要だと意気投合をした。
 フェリー乗り場で苫小牧在住の自転車仲間と夕食をともにし、乗船までの時間を過ごした。

17:17 | 2013年南部の旅1 | comments(2) | -
南部の旅第1段(その2)
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 南部の旅第1段(その2)
2013年10月13日(日)
々堝阿粒詰
  八戸港到着:04:45(苫小牧港からのフェリー)
  八戸港出発:05:45
  八戸漁港(朝市)〜県道19〜国道338〜三沢航空科学館〜三沢先人記念館〜国道338〜国道391〜国道4〜七戸
⊆係妖着:16:20
宿泊場所:七戸中村旅館
ち行距離:94km
ヅ係:晴れ、曇り 、小雨、風強し

「旅の記録」
 昨晩乗船したフェリーでは一等船室を利用した。何時もは自転車をデッキに搬入し、2等寝台を利用するのだが、電話で予約を入れようとしたときに案内の人から、「2等寝台は満員です。自転車をバックに収めれば料金がかかりません。割引も有りますので2等寝台の料金とあまり変わりません」と言うことで1等にした。お陰で快適な船旅で快眠ができた。


「朝焼けをバックに到着したフェリー」


「八戸港」

 八戸港に着いたときはまだ夜明け前で、到着ロビー内で自転車を組み立てた。
 それを興味深げに見ていた夫婦が自転車愛好家らしく自転車談義となった。奥さんの方はトライアスロンもやっていたというが、自転車でこんな旅も楽しいですよと自慢げに話をした。そして、明るくなるのを待ち八戸漁港の広場でやっている朝市の会場へ向かった。



「八戸大橋からポートアイランドを望む」

 そこは、人・人・人で、その入りは半端ではなかった。




「朝市の風景」


「せんべい汁と焼き餅」

 地元でとれたものだろう、特に魚と果物が豊富で安い。見たこともない魚、野菜もあった。朝食は八戸名物の『せんべい汁』と『焼き餅』『味噌焼き豆腐』になった。地元名物の朝食を採れたのは幸せ。
 その朝市の会場の一角で7時から消防の展示が行なわれた。震災後でもあり、住民の関心も高く、ちょっと興味を持ったのでそれも見学した。


「消防の展示」

 ついつい長居をしてしまった。気が付いたら7時半になっていた。
 最初の目的地である三沢航空科学館までは30km弱。1時間半位で到着できるものと思いきや、迎え風の洗礼を受け2時間半近くかかってしまった。着いたのは10時前で1時間の遅刻である。これから向かおうとする北側の空は黒い雲で覆われている。時折横殴りの雨もあった。ちょっと野辺地回りで行く今日の行程に少し不安を持った。
 この館では、昨年十和田湖で発見され、引き上げられた「陸軍一式双発高等練習機」が展示されていた。そして、近年製作された映画「連合艦隊司令官山本五十六 太平洋戦争70年目の真実」で撮影に使われたレプリカの零戦と、直ぐ近くにある小川原湖から回収された零戦のプロペラも展示されていた。ここプロペラはピッチ角を変えることができ、飛躍的に航続距離を伸ばすとともに空中戦性能を向上させた。と説明が記されてあった。その性能の良さに驚かされた。出現当時は最強の戦闘機と米軍パイロットに恐れられていた。つい最近、宮崎駿の映画『風立ちぬ』を見たが、後発で先進国の仲間入りをしたばかりの日本人はとんでもない飛行機を作ったのだなと関心をした。




「陸軍一式双発高等練習機」

「レプリカの零戦」


「屋外展示のF−16」

 この科学館は夢を見させてくれる施設である。体験型のアトラクションもいくつかあり、旅の恥は書き捨てとばかり、子供たちの列に加わりその幾つかにトライをした。結構楽しめた。
 斗南藩先人記念館はそこから10km程先にあり、事前に連絡を入れおいた学芸員の方に対応をしてもらった。この館は、ここ谷地頭という原野に牛、馬を飼い、農場を築いた元会津藩士廣澤安仁と斗南藩の苦難の歴史を後世に伝えるために建てられた歴史博物館で、丁度訪れた時「新島八重と斗南」記念展が行われていた。
 訪れた目的の中に、この地に西洋型の農場を建設する上で、北海道との関わりがなかったのか?もあったが、特に記録は残っていないとのことだった。旧会津藩士は余市に入植したのをはじめ、最初の屯田兵として斗南から入植した人が多数いた。何らかの関わりがあってもいいはずである。


「斗南先人記念館」

 学芸員から斗南藩士のその後の足取りを調査した明治14年、明治43年の人名録があり、その中に北海道在住者の名前が多数あった。これらの調査をすれば何かが明らかになるかもしれない。
 西、北からの風はさらに強くなった。多分、田名部経由のコースで行けば、日が暮れるまでに目的地に到着できないだろう。記念館の方から情報をもらい、小川原湖を反時計回りに回る国道391号線を走るのが無難な様で、コースを変更した。


「小川原湖」


「渡り中の白鳥」


「小川原湖付近の田園」


「八戸付近の田園」

 今日一日、下北半島の付け根部分を走った。農作物の栽培に適さない地との先入観を持っていが、平地には畑が拡がっており、一部の場所では田んぼもあった。そこは、どこにでもある田舎の風景である。不毛の地は過去の話となってしまったのか?意外な風景であった。


「手前はごぼう 奧は山芋」

 今日の宿泊場所七戸の旅館には4時過ぎに到着した。行程の殆どが迎え風でさすがに疲れた。

 

16:50 | 2013年南部の旅1 | comments(1) | -
南部の旅第1段(その3)
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 南部の旅第1段(その3)2013年10月14日(月)
々堝阿粒詰
 出発時間(中村旅館) 07:20
 七戸城跡〜国道4〜十和田新渡戸記念館〜五戸〜三戸〜二戸 
二戸到着時間 17:15
宿泊場所:村田旅館
ち行距離:73km
ヅ係:晴れ

「旅の記録」
 昨晩泊まった中村旅館は創業80年あまりという古い旅館で、近代的な温泉旅館に慣れた向きにはもの足りないものがあるかもしれない。小さな旅館であるが、ちょっとした披露宴ができる宴会場も備えていた。


「中村旅館」

 昨晩泊まったのは我ともう一人の旅行者。帰りに亭主と雑談をしたが、経営は厳しいようである。旅する人の人口が減った。新幹線、高速道路の工事も完了してしまい工事関係者の利用もめっきり減った。人の顔が見えるこんな旅館には生き残って欲しいのだが、いつまで存続できることか。


「昨晩飲んだ酒 駒泉」


「七戸は駒の里」


「道の駅の馬」

 昨日走った下北の畑に見馴れぬ作物がそこかしこに栽培されていたので、それは何かと聞いてみたら。山芋とゴボウであった。ゴボウの生産量は全国一だそうである。『やませ』とよばれる寒冷な気候であっても地中で育つ作物には影響がないのか。
 宿を出て最初に向かった先は七戸城跡。説明書には「安藤氏に備えるため築城された。蠣崎氏に滅ぼされた」と記されていた。安藤氏とは現在の秋田県から青森県、蝦夷地にも勢力を張っていた豪族で南部氏とは敵対関係にあった。
 蠣崎氏は松前藩と関係のある豪族で下北半島のマサカリ部分、陸奥湾に面したところに地名がある。七戸は北の守りの最前線であったのだ。


「七戸城跡」


「七戸城のレプリカ」

 朝の散歩の様な感覚で城跡を見学した。出会う地元の人と挨拶を交わしたが、何かごく自然で、私がよそ者のように見えなかったのだろうか、銀杏拾いに来ていたおばさん達に何やら質問された。「私はよそ者です。ここに来るのは始めてです」と答えたが。そんな、誰とでも会話が出来る風土である。当然これらの会話は南部弁。しかし、津軽弁に比較し読解可能。
 城を見学した後、十和田市街地にある新渡戸記念館は向かった。
 この館にも、北海道と関わりのある資料が有れば教えて欲しいと。事前に連絡を入れていた。結果は特別なものはないということであった。新渡戸家先祖の人気が高いのだろう、館にはひっきりなしなしにお客さんが来館していた。全国から、外国人の姿もあった。
 学芸員からかなり詳しく説明を聞いた。対応する学芸員の弁にも熱が入っていた。
 十和田は新渡戸稲造(札幌農学校2期生、「武士道」の著者、国際連盟事務局次長)の祖父、父、兄がその道を拓いた。新渡戸家の人達が牽引して作ったと言ってもいいだろう。
 祖父の傳が稲生用水をしき、父の十次郎が入植地の設計と開拓を行った。兄の七郎の代に入り、これを発展させた。十和田市は南部藩が治めた他の領地と違い整然と区画されている。北海道の町並と似通ったところがある。
 資料館には興味深い資料が沢山あり、ついつい長居をしてしまった。気がついた時には11時近になっていた。


「新渡戸博物館」


「博物館の入口」


「十和田開拓の祖 新渡戸傳」


「稲生川(用水路)」


「奥入瀬川」


「奥入瀬川から十和田市街を見る 高台となっている」

 五戸、三戸、二戸と、まだまだ見学するところがある。それよりか、まだ、殆ど走っていない。そして、二戸民族資料館には4時前に伺いますからと館長さんにアポをとっている。そんな訳で、以降は時間を気にしつつ走ることとなった。
 五戸では、斗南藩庁が置かれた代官所跡を見学した。ほんの短期間であったが、23万石を有した大藩の政務の中枢が茅葺き屋根の庄屋家屋同然の建物とは。その建物は町の図書館脇にあったが、その説明書には斗南藩の藩庁が置かれたことなど記されていなかった。


「斗南藩庁跡(五戸代官所跡)」

 次に向かったのは三戸である。しかし、もうこの時には残された時間が殆どなく、6年前に行った日本一周の時に城山にも上っており通過するだけになってしまった。
 二戸民族資料館には予定より早く3時半に到着した。館長さんは我が知人の知り合いでもあり、我の到着を待っていてくれた。
 二戸には南部藩の歴史のなかで誇れるもこが二つあるようだ。それらの資料が整理されて残されていた。
 その一つは、秀吉が天下統一を図る上で最後の戦を行った場所であること。
 二戸には九戸南部氏の政実が勢力を張っており、秀吉にくみすることなく、兄である三戸南部氏信直と跡目争いを行っていた。信直は小田原の攻めにも参陣し秀吉から領土の安堵を認められており、対して政実は謀反人の扱いを受けていた。
 そのため、秀吉連合軍6万5千の攻撃を受けることになった。結果は史実の通りであるが、政実が守る強固な九戸城はその攻撃で落ちることなく、策謀により城を明け渡すこととなった。そして、騙し討ちに遭い、政実と7人の武将は斬首されてしまった。
 九戸城は、その後、南部氏正統となった南部信直が盛岡に城をかまえるまでの8年間、福岡城と名を変えた南部氏の中心として位置した。
 もうひとつは、『みちのくの忠臣蔵』と言われ、当時、江戸人を魅了した相馬大作の生まれ育った地であることである。
 俗に南部の人と津軽の人は未だに中が悪いという。
 津軽藩は元々南部氏の一豪族である大浦氏が興したと言われている。南部本藩すれば、肥沃な津軽の領地をかすめ取られた。との思いがある。
 そんな中、津軽藩は蝦夷地警備の功績により録高が増え、南部藩より上列の扱いを受けることになった。時の南部藩主利敬は、ショックを隠せず「南部には一人の大石内蔵助もいないのか」と怒り苦しみながら死んでいったという。
 相馬大作は本名を下斗米秀之進といったが、名を変え浪人となり、主君の仇と津軽藩主を襲撃する。
 相馬大作は捕らえられ斬首されるが、後年、津軽藩主寧親は隠居を言い渡された。
 幕府は元南部藩士と言えども浪人が起こした謀反であり南部藩に対するおとがめはなかった。相馬大作は主君に対する忠義を見事に果たした。この事実は江戸で広く庶民の知るところとなり、歌舞伎の演目、近代は映画等でとらえられるようになった。現在までにその作品は30余りあるという。
 この、二つが二戸の人達の誇れる郷土の歴史である。
 館長さんの説明にも熱が入り、熱弁を聞くこと一時間半におよび、閉館時間はとっくに過ぎてしまっていた。
 今日は南部藩初期の歴史、十和田開拓の歴史の一端を伺い知ることができた。
 宿に入ったのは5時半前。食事に飲む地元の酒は「南部美人」。


「南部美人」


「今日のお宿 村田旅館」

16:25 | 2013年南部の旅1 | comments(0) | -
南部の旅第1段(その4)
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 南部の旅第1段(その4)
2013年10月15日(火)
々堝阿粒詰
 出発時間:07:20
 二戸〜国道4〜三戸〜国道104〜八戸港〜苫小牧港へ
八戸港到着時間 14:30
 苫小牧港へのフェリー乗船 22:00
宿泊場所:船中
ち行距離62km
ヅ係:晴れ〜曇り

「旅の記録」
 今年一番の大型台風が近づいている。当初予定した久慈行きは取り止めた。
 そして、荒天にさらされないためには出来るだけ行動を早めた方が無難だと思い朝食の前に九 戸城跡を見学してきた。城跡には建物こそないが城郭の構造は敷地の中にしっかり残っていた。
 昨日、二戸民族資料館の館長から説明を受けていたので、その堅牢さをつぶさに感じとることができた。馬淵川、白鳥川とその支流の猫淵川で三方を囲まれ、谷は鋭く深い断崖となっている。
 天下統一を控えた秀吉方の軍勢6万5千を九戸政実はたった5千の兵で約1ヶ月間阻止をしたと言うが、この絶壁を見れば頷ける。


「九戸城の図面」


「本丸跡」


「白鳥川の崖」

 城跡公園には小一時間ほどいて小道を散策した。台風が通過する前の静けさというか、空気が澄んでいてすがすがしかった。
 相馬大作の墓がある龍岩寺は宿屋のすぐ裏手にある。二戸一の著名人の墓である。何らかの案内表示があるだろう。簡単に発見できるだろうと思い、暫く墓地内を歩き回ったが発見できず。だからと言って、こんな早くに住職に尋ねるのは何だろうと思い、一旦、宿に戻り朝食を済ませた。


「龍岩寺」

 宿をチェックアウトしたのは07:20。直ちに龍岩寺に戻り住職に墓の場所を聞いた。南部藩の祖、南部信直候の碑のすぐ横に屋根で覆われた墓があり、それが相馬大作の墓であるとのことであった。しかし、墓石は無惨にもその前面が削り取られていた。過去から現在に至る間に、御利益を信じ墓石のかけらを持ち去る者がいたためだという。では、そのかけらはどうなったのか?粗末に扱い、御利益どころか罰のあたった人もいたのでは?


「相馬大作の墓」


「南部藩の祖南部信直候の碑」

 墓碑の前で声をだし説明書きを読んでいたら、その声が届いたのだろうか、後ろの方から住職の声が聞こえ、「熱心に調査をされているので、これを差し上げます」と寺で作成した小冊子を差し出された。
 今日は連休明けのウィークデー。二戸市街地のメイン通りと言っても車が2台通行するのがやっとの北海道であれば路地に毛が生えた様に細い道。しかし、通勤時間帯のこの道は車の流れが止むことがない。ここを自転車で通行するのはかなり勇気がいる。古い街並みを暫く走りたかったが、仕方がなく右折し国道4号線に出た。


 そこから、相馬大作が演武場を開いたという場所に向かった。その場所は国道4号線を挟み、西側山裾にあった。今は少しばかりの畑があり、その奥まった高台に碑と相馬大作の胸像が建っていた。それは眼光鋭く凛々しい顔であった。演武場があった場所からは二戸の街並みが一部見渡せた。相馬大作に従った若者達は日本の行く末を論じあったのだろう。


「相馬大作の像」


「演武場からの二戸城下の眺め」

 その後、昨日走った国道4号線を三戸へとって返した。
 昨日は二戸民俗資料館に16時前に到着しなければと、五戸、三戸は通過する程度しか滞在できなかった。幸いまだ天候は安定している。八戸まで一時間少々で到着できるだろう。そんなわけでゆっくり三戸を見学することに決めた。


「南部氏にとって母なる川 馬淵川」

 城山には6年前の日本一周の時に上っており、キツイ登りの道程も、時間が止まってしまったような街並みも覚えていた。それは、今も変化がなかった。昼前という時間の関係もあるのだろうか、道行く人の多くは高齢者達で、寂れ行く町の姿を感じた。


「三戸の街並み」

 今回も自転車を押して城山に登った。今日は休日明けのため資料館を見学をすることができず、館前の掲示物を見るだけで我慢するしかなかった。
 ここは、南部藩の祖である三戸南部氏が城をかまえた場所で、その後、三戸南部氏は九戸南部氏が滅んだ後、その居城であった二戸へ移り、その8年後に盛岡に城をかまえた。そして、盛岡が廃藩置県まで南部藩の中心であった。
 本丸跡の碑の前で座り込みながら休んでいたら同年配の旅行者に声をかけられた。自転車にバックを積んで走っている人は旅行者の看板を背負っている様なもので、色んな人から声をかけられる。今回もそんなことで、最近は熟年の人が古い日本を訪ね歩く姿をよく見かけると言う話しになった。全くその通りで、歩く人、車で回る人、バイク・自転車の人、皆さん仕事を終え、自分自身と日本を見つめ直す旅に出かける。


「三戸城図面」


「三戸城本丸跡」


 城山を下り、古い街並みの中を走っていたら。「きんかんもち」と書いた看板がある小さな店があった。「ちょっと立ち寄るか」と店に入った。90歳になろうかと思われるおばあちゃんとその息子さんとおぼしき同年配ぐらいの男の人が餅を作っていた。この餅は麦の生地に胡麻、クルミ、黒砂糖を混ぜたものを包みこんで作っているという。1パックを食べるのは無理なので、単品で注文し食べさせてもらった。できたばかりで柔らかく美味かった。


「きんかんもちの店」

 この餅は地域特産で、作る場所によっては少しばかりアレンジをしているそうだ。そう言えば八戸の朝市でも同じ様な餅があった。
 おばあちゃん。元気そうで笑顔が可愛かった。
 八戸へ向け暫くいったところに地元の果物、野菜、特産品等を販売している直販所があり、家の土産にリンゴでも送るかと、そこにも立ち寄った。津軽がリンゴの本場であるが、この付近でも沢山のリンゴを栽培しており、収穫したばかりのリンゴ、なし、葡萄等がところ狭しと並んでいた。
 「味見できる」と聞いたら、「うちで栽培したリンゴならいい」と言うことで、そのリンゴを試食し、「うん。美味しい。これにした」と言って応対した方が生産したリンゴを注文した。今は早生の富士が食べ頃である。


「三戸のりんご」


「近くの風景」
 
 ここまで来ると八戸まではもう少し、八戸の市街地に入ってから昼食をとり根城跡に向かった。しかし、博物館、根城の屋外施設は休みで見学ができず。外観だけの見学となった。

 
「博物館」


「復元した根城の建物」


「レプリカ」

 今日は久慈行を中止し、八戸発22:00の便で北海道へ帰ることにしたので、時間に余裕ができた。心配は雨・風が何時来るかだけで時間を気にせずに行動できた。そんなわけで、色々なところに立ち寄り、何人かの人と話しもでき楽しく行動できた。いつも思うのだが、もう少し余裕のある計画にすればもっと楽しいのにと。しかし、時間がもったいないとついつい多くのメニューを詰め込んでしまう。
 八戸港に到着したのは14:30。少し風が強くなり霧雨が降りだしたが、なんとか雨に当たらずに到着した。フェリーが出港するまで後7時間半。それまでどうするか。
 天気の良くない日の自転車旅行はつらい、好きこのんで雨の中を自転車で走る人はいないだろう。フェリーターミナルから出るには徒歩かタクシーしかない。
 売店の人にこの付近で一番近い温泉は何処ですかと聞き、そこへ時間つぶしを兼ねて行くことにした。実は道に迷ったのだが、行きは1時間、帰りは30分歩くことになった。
 この温泉、源泉かけながしの温泉で料は金380円。「りんごの湯」という銭湯であったが、きれいな風呂で気に入った。
 帰りのフェリーは4人部屋の寝室を一人独占した。
 明日朝の苫小牧の天気は?

 

15:29 | 2013年南部の旅1 | comments(0) | -